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項目 内容
ID J2300099
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔伊藤良氏書簡〕○三重県尾鷲市郷土資料館▽
本文
[未校訂]古座文書(「地震洪浪の記」)中の九鬼浦医家九鬼右京は、天
明頃の人です。九鬼宗家の当主です。元禄のころは十三代目
の豊隆の時代で、このころは九鬼城は取りこわされていて、
父の代に土地を他人に貸与し、自分の桑の坂に住みました。
現在の九鬼小学校(高台)の下で、海抜三メートルほどと思
います。道路が石段となっていて、この石段の三段目かと思
います。
九鬼家の記録に(第二分家の宮崎氏著)次の記事あり。
「元禄十六年霜月廿三日丑刻(午前二時)津波が押寄せ、
助三郎家の前まで上り、早田では十六軒流失、二木島では
逢川橋が流失した。」
とある。
「尾鷲見聞闕疑集」(尾鷲組大庄屋文書のなか。市立図書館
蔵)に宝永津波のことを記し、そのあとに、「延宝、元禄の
頃も津波入候得共、少々ノ儀ニ有之候。慶長九年にも津波入
候よしに候得共、人家を流し候程の事、無之由申伝へ候。」
とある。
享保十四己酉十月四日小河嘉兵衛宣忠(十三才のとき宝永の
津波にあい、三十五才のとき書いた「宝永津波記」(市内朝
日町念仏寺蔵)の最後に次のごとく記す。
「慶長、延宝、元禄之頃も地震高浪有といへとも人家を流
したる程の事も無之」
とある。
出典 新収日本地震史料 補遺 別巻
ページ 135
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 尾鷲【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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