[未校訂]二 地震・津波による各地の被害死者数を中心に
(前略)
「理科年表」によれば、元禄地震は「……小田原領で出火
し壊家八〇〇七、死二二九一人、江戸本所あたりで壊家が多
かった。津波は下田から犬吠岬に至る海岸に押寄す。震災地
を通じ、壊家二〇一六二、死約五二三三人……」と記録され
ている。年表には小田原の死者数について記されているが、
本県の死者数については全く数字があげられていない。この
件について、これまでの筆者の調査と既存史料を分析しなが
ら被害状況を割り出してみた。発生が二百八十年も前の地震
であるとともに、被害があまりにも大きかったので正確な数
字は今後いかに調査・研究が進もうとも不可能であることは
勿論である。ただ記録文書・供養碑の発見により、当時の姿
が少しずつではあるが明らかになってきていることは事実で
ある。
算定に当っての数字は、信憑性の高いもののみとし、出来
るだけその最少をおさえた。今後の検討を必要とするものは
()でくくっておいた。
一 銚子市 死者数不明
君ケ浜へ津波押上げる。山林の松七百本根返り折木。飯
貝根・外川・ひたち原にて船少損。「慶長以来銚江略年
代記」より。
二 飯岡町 死者数不明、史料二点
三 旭市 死者数不明、史料なし
四 八日市場市 死者数不明 史料なし
五 野栄町 死者数不明、史料なし
六 光町 死者数不明、史料なし
七 横芝町 死者数不明、史料なし
八 蓮沼村 死者数未定
蓮花寺に「千人塚」があるが、当村の被害、死者数の記
述はない。本堂が明治に火災にあっていることもあり、
過去帳もない。
九 成東町 死者一八〇人以上
勝覚寺(小杉家)文書には、八四人・百人・四百人の数
字があげられている。最少数八四人を、松ケ谷地蔵堂の
数とした。大正寺過去帳九六人。これは、本須賀の「百
人塚」九六人と同一のものである。
十 九十九里町 死者一三〇人以上
飯高家文書に一〇〇人余、高橋家文書によると「片貝村
本隆寺処管北之下海辺白砂に葬る。御門村妙善寺処管粟
生村海辺白砂に葬る。」とある。残念ながら本隆寺も火
災にあい、古い過去帳はない。津波供養塔(不動堂地先)
三〇人。浄泰寺供養塔(真亀)には死者数の記録なし。
すぐ近くに真亀川が流れているだけに、かなりの被害を
受けたものと思われる。
十一 大網白里町 死者三〇八人余
北今泉、等覚寺供養塔六三人。四天木、要行寺津波溺死
霊魂碑(この木塔は現在腐敗によりないので、「上総町
村誌」ほかを参照した。)二四五人。茂原市[鷲山|じゆせん]寺津波
碑では、二五〇人となっている。
十二 白子町 死者一一五五人余
真光寺墓碑(二基)一四人。牛込の精霊供養碑六四人、
鷲山寺津波碑では七三人。池上家文書一四人。牛込下村
竜宮台十数人埋葬。さらに鷲山寺津波碑では、八斗村
(八斗高無縁塚)七〇人。剃金村四八人、古所村二七二
人(津波代様―安住寺二七〇余名)、五井村八人、浜宿
村五五人、中里村二二九人(縁起―円頓寺過去帳では、
二三九人)、幸治村三〇四人(無縁塚津波精霊様では、
三六〇人)と記されている。
十三 長生村 死者九〇八人余
教応寺墓碑(七基)九人。深照寺・当山記録津浪諸精霊
二〇六人。本従寺墓碑四人。宝運寺墓碑一人。本興寺津
波碑には特に死者数の記載はないが、当寺境内には三八
四名の屍が合葬されたと伝えられている。鷲山寺津波碑
では、一ツ松郷中八四五人とあり、大位牌を調査(古
山)した結果は、六八八人余であった。「元禄津浪死精
霊―蟹道・新屋敷・溝代・大坪」六九人。
十四 一宮町 死者七四人以上
東栄寺過去帳七人。真光寺過去帳三人。「万覚書写」(牧
野家文書)によると、東浪見一四・五人、一宮死者五〇
人と記されている。他の被害について書写は、「……川
通りは茂原下まで水押あげ申事ニ候、舟頭給より北の方
段々浪高く打揚、一松領三千石の内、家も大分に打潰
れ、人も千弐三百も死ス……」と記している。一宮川周
辺では相当な被害があったものと思われるが、隣村一ツ
松に比して史料が乏しい。
十五 岬町 死者数不明
夷隅州流域の和泉浦・日在浦の村々では被害が大きかっ
たと思われるが、裏付ける史料がない。
十六 大原町 死者数不明、史料なし
海岸線が長く、漁港も古いので史料の発見が望まれる地
域であるが、現在のところ史料はない。
十七 御宿町 死者二一人以上(八〇〇余人)
妙音寺過去帳二一人。久保「千人塚」の宝篋印塔台座左
側に八百余人の刻字が読みとれるが、元禄地震による死
者供養碑かどうかはっきりとしない。千葉県誌による
と、元禄地震によって死去した人を葬った墳墓の一つで
あるとされている。地震による津波の最も高い地域が御
宿(八メートル)周辺とされているので、二一人という
死者数にとどまるものではないと思われる。
十八 勝浦市 死者六人以上
高照寺過去帳六人。同過去帳には「安房上総内死者一万
人、全国の死者三十万六千人余り……」と記されてい
る。これは、いささかおおげさであるが、そう受け止め
られるほど被害を被った地震であったということであ
る。勝浦の被害六人ということはありえない。実際は、
数十人、考え方では三桁とも推論される。
十九 天津小湊町 死者一〇〇人余
大日本地震史料によると、安房小湊誕生寺死一〇〇人、
誕生寺六坊波にとられるとある。千葉県誌によると、
「……妙の浦安房郡小湊に在り、鯛魚多く棲息するを以
て又鯛の浦の称あり往時比(ママ)の辺皆陸地にて誕生寺の庭前
なりしが、元禄十六年地震海嘯の為に没して海となる。」
と記されている。御宿同様、津波の最も高いところであ
る。
二十 鴨川市 死者九〇〇人余(一三〇〇人)
日枝神社津波墓碑(四基)四人。「堀田文左衛門他二名
書状・平野吉兵衛宛」によると、仁右衛門島死者一二
人。平野仁右衛門の子供二人。家来一〇人。
『漁民の移動』によると、元禄十六年の大津波前まで
は、「前原町家居六百余軒、江戸廻船三十隻、イワシ内
船百五十隻、御浦運上一ケ年分金六十両宛にて殊の外繁
栄仕り候…。」とある。いかに前原が繁栄していたか伺
える。ところが、地震により前原の家居残さず流され、
死者九百余名に達したことが記されている。漁民の死
去、さらに加茂川の隆起により漁業振わず、享保年間
(一七一六~三五)には、戸数三百五十軒とわずか十数
年にして二百五十軒減少していることは、被害の大きさ
を数字の上でも示している。「鴨川町誌」によると、馬
場(鴨川駅北側)の全集落流失とある。
また、一宮町の「万覚書写」によれば、「房州前原浦
一村にて家居も千軒余りの家不残打流し、人も千三百人
余死亡申候、牛馬も死…。」とある。
二十一 和田町 死者一五五人
威徳院地震供養碑一〇八人。和田家過去帳八人、これは
東堂地震供養碑八人と同じものである。天保四年記録帳
九人。浅間社句碑三〇人。
二十二 丸山町 死者数不明 史料一点
二十三 千倉町 死者数不明 史料一点
二十四 館山市 死者九六人以上
蓮寿院津波供養碑八六人。天野家過去帳四人は、蓮寿院
碑に含まれる。「地震ニ而潰家并死人改帳」死者四人。
大福寺津波被災者供養塔六人。
館山市における八六人が相浜(平砂浦)である。数メー
トルの隆起にもかかわらず、震源地に近いこともあり大
きな被害を受けている。震源地の裏側(平砂浦)にある
とはいえ、北条海岸での被害は少ないが、市中に平久里
川、汐入川などあることからもっと多くの被害を被って
いると思われるが、史料の発見が乏しい。
二十五 富浦町 死者数不明 史料一点
二十六 富山町 死者三五人
永井家文書「元禄十六年高崎浦津波記録」三五人、ケガ
人は無数におよんでいることが記されている。さらに久
枝川を逆流した津波は一キロにもおよんでいることがわ
かる。
二十七 鋸南町 三三一人余
別願院津波慰霊碑(保田)には、三一九人の死者数が記
されている。別願院墓碑(個人)二人。昌竜寺過去帳一
二・三人。
二十八 富津市 死者数不明 史料一点
富山・鋸南両町でかなりの津波被害を出しているところ
からみて、富津市でもそれなりの被害があったものと思
われるが、現時点での死者記録文書の発見はない。
以上のごとく、海岸寄り市町村の元禄地震および津波によ
る死者合計数は、何と四三九九人以上を数えることが出来
る。「理科年表」死者約五二三三人(全国)とあるので、県
内死者数は五分の四に相当する。しかし、実際には県外にお
いてもかなりの死者を出している。例えば、小田原領死二二
九一人(理科年表)、「増訂武江年表」二三〇〇人、「元禄大
地震の惨禍・小田原」二三〇〇人。さらに伊豆一〇〇〇人余
(「伊豆海島誌」五六人、「宇佐美村誌」・「行蓮寺供養碑」三
八〇余人、「仏現寺津浪供養碑」一六三人、「林光大門跡津波
供養碑」二〇〇人余、「田方郡小室村誌」三二人)になるの
で江戸を除いた地域を通じての死者は、少なく見積っても七
〇〇〇人以上にのぼる。
死者四三五五人の内、九割以上が太平洋側(三九七九人以
上が津波による)で、被災地比較の点からしても大正地震と
大きく異なっている。列記したいくつかの町で、不明あるい
は未定と書いておいたが、史料発掘がないだけで実際は、大
なり小なり被害を被っているものと思われる。特に、岬・大
原・御宿・勝浦および富津などは、これからの発掘調査がお
おいに期待される地域である。
三 白子町における被害状況の分析
長生郡白子町の死者数は一一五五人余(鷲山寺供養塔によ
ると八ケ村都合一〇五九人余)と他の市町村をはるかに上回
っている。何故桁外れに多い被害者がこの町で出たのか、こ
の問題について探るため白子町役場にて一万分の一の地図と
企画室でまとめた当町の水準点調査資料を基にして幾度かの
現地踏査を行なった。
町の中央を流れる川は南白亀川である。南白亀川周辺の地
盤高は、図Ⅱの示す通りである。川口付近は、明治三十六年
測量地図(図Ⅰ)によってもわかるように、当時より川幅が
広く左右に大きく蛇行しながら流れていた。川をはさんだ両
側の地は古くから湿地帯をなしており、現在でも図Ⅱの地盤
高によると水準点0メートルの区域がかなり上流域まで延び
ていることがわかる。0~一メートル以下の地域は町全体の
中でも、かなりの割合を示す。
沼地開拓と水害をいかに防止するかは、大正末から昭和初
期の第一期南白亀川改修工事が行なわれるまで、当町の大き
な課題であった。その後、第二期、第三期工事が中・上流域
図Ⅰ明治三十六年測量地図(白子町)五万分の一
図Ⅱ昭和五十六年発行地図(白子町)五万分の一
(大網白里町へ入る)に及んで、完成は戦後にまで引き継が
れていった。
当町では天然ガスの採掘量が多く、昭和四十四年から昭和
五十六年の間に、最高四七・七センチも地盤が沈下してい
る。沈下のない地域は、わずか三個所しかないほどで、しか
もその区域はほんのわずかでしかない。そのため低地では近
年かなりの客土で補っているのが現状である。この問題は別
としても、図Ⅱにみる地盤高一メートル以下の地域は、元禄
当時も今日もそう大きく変わっていない。よって、多くの水
死者を出した一番大きな理由は地盤高の低さにあることを指
摘しておく。
次に、地盤高の問題と並行して考えなければいけない問題
が元禄汀線である。汀線、すなわち海岸線、波打ち際のこと
である。元禄時代の汀線は、海岸を南北に結ぶ(一宮―飯岡
を結ぶ)バス路線付近と考えられているので、今日の白子の
海岸線は単純に測量すると五〇〇~五五〇メートルほど沖に
移動していることになる。原因は、太東崎と屛風ケ浦の侵触
作用からくる漂砂の移動、ならびに九十九里浜の自然隆起で
ある。元禄汀線を一宮―飯岡線道路辺とした時、津波供養碑
の多くが建立されている場所は、元禄汀線から一・二キロか
ら一・六キロのところに点在している。さらにこの事は津波
碑建立の言い伝えや、古文書によっても知ることが出来る。
当時にあっては、津波を防ぐ手段は皆無に等しく、植林も津
波後はるかに後に始まったもので、南白亀川周辺以外の場所
でもかなり内陸にまで津波は浸入したものと考えられる。
津波浸入について、池上家文書「一代記付リ津浪ノ㕝」に
は、「上総九十九里ノ浜ニ打カゝル海ギワヨリ岡江一里計打
カケ潮流ユク㕝ハ一里半ハカリ数千軒ノ家壊流数万人ノ僧俗
男女牛馬鶏犬マテ尽ク流溺死ス或ハ木竹ニ取付助ル者モ冷コ
ゴへ死ス某モ流レテ五位(井)村十三人塚ノ杉ノ木ニ取付既ニ冷テ
死ス夜明テ情アル者共藁火ヲ焼テ暖ルニヨツテイキイツル希
有ニシテ命計免レタリ家財皆流失ス明石原上人塚ノ上ニテ多
ノ人助ル遠クニゲントテ市場ノ橋五位(井)ノ印塔ニテ死スル者多
シ…。」のごとく記されている。
三番目の理由として、漁業との関係が考えられる。元禄期
に入ると九十九里浜では、関西漁民による地引網漁業の技術
がかなり広まってきており、九十九里沿岸において比較的早
期に漁獲の開始された地区が古所周辺であるとされている。
菊地利夫の「九十九里浜における臨海集落の発達の歴史地理
学的研究」によると、延宝六年(一六七八年)から享保十年
(一七二五年)は豊漁期に当たるとされている。過去何度か
の豊漁期を繰り返す中に、海岸には納屋が建てられ次第に集
落が形成されるようになった。この納屋集落は、汀線の移動
にともなって次第々々海辺へと層のごとく厚く進出していっ
た。白子町・大網白里町・九十九里町においても納屋集落は
形成され、汀線の延びとともに戸数も増し、浜宿納屋・牛込
納屋・剃金納屋・八斗納屋・驚納屋・中里納屋・幸治納屋と
して今日まで残されている。
つまり、漁業の発達にともなって誕生した納屋には、元禄
の豊漁期に、地元、関西の出稼ぎ漁民等かなりの人々が汀線
から数百メートルの距離に生活していたわけである。これら
の人々は津波被害をまともに受ける結果となった。逆に、成
東・蓮沼以北では勿論漁業は行なわれていたであろうが、納
屋集落の発達はみられないので被害を記す文書の発掘さえ現
状ではない。
最後にもう一つ付け加えておきたいことは、地震の発生が
真冬の真夜中であったことである。元禄十六年十一月二十三
日、夜子ノ刻(一七〇三年十二月三十一日)に地震津波が襲
来している点である。子丑ノ刻は、真夜から午前二時に当た
る。この点は、白子町に限ったことではないが、正しく「草
木も眠る丑三つ時」を襲われるという最悪の条件がいくつも
重なったので、波濤に呑み込まれ多数の死者を出したのであ
る。
以上、いくつかの要因を列挙してみた。これによると、海
岸線わずか六キロメートルしかない白子町で、死者一〇〇〇
人以上を数えたことは決して偶然ではなかったことが理解さ
れる。自宅から車で五分も走れば南白亀川の観音堂橋へ出
る。また、通勤の道路でもあることから、白子町・長生村
(一松)には何度調査に立寄ったかわからない。今後の詳細
にわたる分析並びに地震対策については、その方面の専門家
に頼るより仕方がないが、概略については理解頂けたかと思
う。史料を通じて、死者の霊を慰め、かつ二度と大被害を被
ることのないよう衷心より願う次第である。
(千葉県立茂原高等学校教諭)