[未校訂]はじめに
元禄十六年(一七〇三年)癸未十一月二十三日真夜中、突
如、発生した地震により、十五年と六ケ月続いた「元禄時
代」が終止符を打たれた。
元禄地震は、元禄を滅ぼした巨大地震であったばかりか、
小田原並びに千葉県下各地に多大な被害をおよぼした。特
に、南房総から九十九里海岸沿いでは、潰家のみならず、多
数の死者を巻添えにし、その被害たるや惨憺たるものとなっ
た。県下総じて四三九九人以上の死者を出した。(1)死者の大半
が第二次災害としての津波によるものであったことがこの地
震の大きな特色をなしている。
県下を通じ人的被害が大きかった地域の二、三を揚げるな
らば、白子町を筆頭に長生村(旧一ツ松村)、一村の殆んどを
呑まれた鴨川市の順となる。紙面の都合により、本稿は長生
郡長生村の一ツ松にある本興寺の大位牌を中心に、人的被害
状況を考察してみたものである。
⑴
長生村で確認出来る、元禄地震史料は都合二七点にも達す
る。内、(2)石碑二二点、古文書(含、位牌・過去帳)五点とな
っている。その所在は、教応寺七点、[深照|じんしよう]寺八点、本興寺七
点、その他の寺・家五点で、これら史料は、二百八十年の星
霜を経た今日でも、当時の爪痕をリアルに伝えている。
本興寺(永正十五年―一五一八年開基)は、茂原市鷲巣に
ある[鷲山|じゆせん]寺(建治三年―一二七七年日弁聖人開基)の一派、
勝劣派(法華宗)に属している。勝劣派は、さらに八品、一
品、二半一品に分かれるが、鷲山寺は、八品派の大本山で・
檀家は、茂原市内より海岸方面に多い。海岸、特に、長生村
の旧一ツ松郷での中本山の役割を担っていたのが本興寺であ
った。大本山鷲山寺本堂の前には、元禄地震によって死去し
た人々の供養碑がある。地震発生五十回忌に建立されたもの
である。この碑には、一ツ松郷中(八四五人)、幸治村(三〇
四人)、中里村(二二九人)、八斗村(七〇人)、五井村(八
人)、古所村(二七二人)、剃金村(四八人)、牛込村(七三
人)、浜宿村(五五人)、四天木村(二五〇人)が台座に刻字
されている(3)(写真参照(注、省略))。県下を通じて碑の大きさ、碑文の
内容、保存等の点で、最もすぐれている石碑である。
また、本興寺山門向って左側には二基の石碑が建立されて
いる。内一基は古く、左面に「元禄十六年癸未十一月廿三
日」と記されているが、建立年月日などはわからない。もう
一基は、「昭和二十七年十一月二十三日営之」とある。そし
て、正面には、「元禄十六年大津浪本村死者八四五人二百五十
年忌供養塔」と記されている。鷲山寺供養碑、並びに本興寺
の新しい一基には、共に一ツ松村津波死者は八四五人と記録
している。ところが、『上総町村誌(抄)』(明治二十二年七月刊
行、小沢治郎右衛門著)によると、「長柄郡一ツ松村本興寺
境内供養塚在り、死屍三百八十四を合葬す。本寺位牌の背後
に維元禄十有六年癸未十一月二十二日之夜、当国一松大地
震」となっている。また、『長生郷土漫録』(昭和二十八年刊
行、林天然著)には、一ツ松供養塔「一松村本興寺境内にあ
り死者三百八十四人を合葬し」と出ている。これは小沢説と
一致する。
本興寺には、前述の昭和二十七年(一九五二年)建立の供
養碑以外には、八四五人、三八四人という数字を記した史料
は全く発見されていない。当時境内には、ただ三八四人の死
者が合葬されたという伝承があるのみである。二百五十年忌
の供養碑は、本山鷲山寺の台座の数に合わせたものであると
いえよう。何れの数字が正しいものか今日勿論知る由もない
が、一寒村の死者数が三八四人と八四五人では差がありすぎ
る。また、筆者の調査で、一ツ松村九〇八人余りという死者
数が算出されるので(後述)この一件の鍵を握っている当寺
大位牌を通して探ってみたいと思う。
⑵
本興寺位牌は、地震展が開催されると必ず引合いに出され
る程有名にして、かつ貴重な大位牌である。現在、三枚重ね
の状態で本堂須弥壇に立て掛け安置されている。この三枚の
内、保存状態の一番良いものが、日蓮の題目“南無妙法蓮華
経”を刻した最前部にある位牌で、左右には各二列に戒名が
刻字されている。真中にある位牌は、上部四四センチが切断
図1本興寺復元位牌
されてしまっていて、惜しくも六〇人(後述)余り記されて
いた戒名が全くわからない。虫喰いは進んでいるが、残され
ている五分の四は幸い判読が可能である。傷みのひどいのが
残りの一枚で、中央部約七〇×二〇センチほどの面積が虫喰
と腐朽によりスポンジ状と化し、木質部は抹られ、触れただ
けでも剝がれるほど朽ちた状態となっている。他の部分はど
うにか読むことが出来る。
三枚重ねの位牌は、筆者の調査の結果、三枚がつなぎ合わ
された一枚板であったことが判明した。図1の復元位牌のご
とく、A位牌・B位牌・C位牌(仮称)の各々内側に留めら
れてあった腐食釘の跡と位置がぴったりと一致したことによ
るものである。さらに、三枚の釘跡の位置の一致は、位牌表
面に引かれた縦四センチ、横幅二センチの朱線とも一致した
ばかりか、位牌上部に施された装飾片とその跡等によっても
立証される。復元した位牌は、縦一八九・七センチ、横九七
センチという一畳を上回るもので、正しく大位牌であった。
何時の頃三枚に分断されたものか伝承は定かでないが、三箇
所の内釘での腐朽で分解し、その後修復されることがないま
ま今日の状態で保存されるようになった。そのB位牌に日隆
がいう「当寺有縁死者千名」と。その概数が実は最も古く、
実態に近い。各々の位牌に刻字された戒名、その他の記載は
以下の通りである。(注、B位牌の中央部以外は省略)
南無妙法蓮華経
本興寺当住
幽玄院
日隆
花押
維元禄十有六年癸未
十一月二十二日夜於当国
一松大地震尋揚大波嗚
呼天乎是時民屋流牛馬
斃死亡人不知幾千万矣
今也記当寺有縁死者千
名簿勧回向於後世者也
其列名如左 本興寺当住
A位牌に伏字が多いのは、前述のごとく、腐朽面積の広さ
を物語る。位牌面に引かれた縦横等間隔の線により、戒名が
ない部分でも、数字は確実に掌握出来る。この方法で、戒名
数二九八人が確定した。B位牌は難がなく、中央部に日蓮の
題目、その両側には、各二列に計一〇四人の戒名が刻字され
ている。日隆の千人説は、明らかに大位牌の授戒者数ではな
い。しかし、「白髪三千丈」級の誇張であろうか。それと、
本興寺に「有縁」とは、本山・末寺・その他のいづれを示す
のであろうか。考察をすすめよう。
C位牌については、復元位牌に見るごとく、上部が四四セ
ンチほど切断されている。切断部分は、残された五分の四の
位牌を調査する限りは、特に腐食がひどいという理由もなさ
そうなので、何故切り取られてしまったのか残念至極に思わ
れる。ともあれ、現存残部の戒名を合計すると、二三一人と
なる。切断空白部分の戒名数がわかれば、鷲山寺の供養碑台
座の一ツ松郷中八四五人の死者数と、『上総町誌(抄)』等の記
述三八四人の信憑性を問うことも、出来るわけである。
そこでA位牌、B位牌との相関関係から探ってみると、幸
いにも消失部分の再現も可能である。というのも、B位牌横
線がそのままC位牌に延長されているため、そこには六段の
朱線が引かれていたことになり、位牌は縦一一行、横六段な
ので合計六六人の戒名が記されていたことになる。これは単
純計算に基づく数字で、A・B位牌に見られるごとく、上段
二・三段にまたがる戒名もあり、桝目一つに一戒名と断定す
ることは出来ない。ゆえに、C位牌空白部を、類似のA位牌
上部六段と同様のごとく記されていたと仮定して計算する
と、五八人が記されていたことになる。
よって、A位牌二九八人、B位牌一〇四人、C位牌二三一
人と切断部五八人となり、合計六九一人という数字が得られ
る。桝目に整理されている戒名だけに、ここで得た数字に数
人の幅をもたせるとしても、最少限六八八人余りといえる。
資料とするこの位牌で得た数字は、鷲山寺の碑文八四五人
より、一五七人程少ないが、日隆説には遠い。また、『上総
町村誌(抄)』、『長生郷土漫録』、と両説をとる長生村教育委員
会による本興寺津波供養碑・大位牌の説明文(「一ツ松では
津波による死者三八四名全員の戒名を大位牌三枚に刻み、本
興寺において盛大な法要を営んだ」)と、それぞれに紹介さ
れている一ツ松村の死者数三八四人は、位牌に刻字された数
よりも三〇四人少ないことになる。
本興寺に残存する新旧史料七点の中に、『津浪水死諸霊蟹道溝代
新屋敷大坪』の過去帳に六九人の戒名・俗名が記されている程度
で、三八四人を確認することの出来る記録類はない。
⑶
一ツ松郷の人的被害は、どの程度におよんだのであろう
か。地震発生後二百八十年経過している今日、正確なところ
は知る術もない。しかし確認した史料によれば(4)、一ツ松北部
驚大村の深照寺(5)過去帳『当山記録津浪諸精霊』には、二〇六
人の戒名・俗名が掲げられている。他にも、別種過去帳と本
堂側墓地に六基の墓碑があるが、これは二〇六名の中に含め
た。深照寺の近くに教応寺がある。本寺には七基(九人)の
個人墓碑が現存している。さらに、本従寺墓碑に四人、宝運
寺墓碑一人が確認出来る。本興寺には津波碑三基、田中・大
橋家墓誌、前掲位牌、過去帳等々があり、これらを合計する
と九〇八人余りの死者を数えることが出来る。この数字は、
鷲山寺の数字より多い。
前述のごとく、本興寺は茂原鷲山寺の一ツ松郷における中
本山として存在した。江戸初期の一ツ松郷は、初崎・江尻・
旧一ツ松郷および白子町の南白亀川流域(明治36年測量地図)
㋑観音堂㋺宮城(井桁家文書参照)㋩本興寺
久手・高塚・新地・貝塚・新笈・中里・畑中および、北部城
の内・新屋敷・驚大村・驚北野村・大坪・蟹道・入山津を加
えた一六か村をもって構成していた。その後、寛永元年(一
六二四年)前里・兵庫内・溝代・原・中島・船頭給の六か村
が加わって、合計二二か村をもって一ツ松郷となった。(右
地図参照)。二二か村より構成された一ツ松郷において、末
寺八か寺を抱えた当時が最も栄えたのは徳川時代であり大名
の待遇をうけていたという。(6)
このことから推察されることは、本興寺所管の檀家死者が
三八四人であったとすることも考えられるが、末寺八か寺も
それぞれ檀家を抱えていたわけで、中本山としての信徒九〇
〇人余りの死者が確認されても、必ずしも多い数字であると
はいえない。事実、隣接白子町における元禄地震の人的被災
は、県内市町村を通じて最大である。(7)理由は、地盤の低さと
町中央を流れる南白亀川を逆流した津波被害等によるもの
で、観音堂(市場附近―地図㋑地点)周辺では、溢れた水で
多数の死者を出していることを池上家文書(8)によって知ること
が出来る。
一ツ松郷においても、条件は白子町と類似している点が多
い。前掲『当山記録津浪水死諸霊』に出てくる驚・蟹道・大
坪・新屋敷・溝代は共に白子寄りにある地域である。ところ
が、一宮川流域や、南部の船頭給・新地・宮之台・中瀬・竜
宮台・向原・大根等では、具体的な被害を伝える古記録、石
碑類は全くといってよいほど発見されていない。この小論
で、一ツ松郷の被害実態を明らかにしたかったが、死者数を
中心とした論稿になったのも、当村史料二七点のほとんどが
当時の様相を伝えるものではなく、戒名・俗名を記す史料類
であるということにも起因する。これが逆に幸いして、件の
碑、牌類の信憑性を実証できたと思う。 最後に、井桁家文書(元台田家文書)『先祖伝来過去帳』
の存在は貴重である。同文書によると、「大津波宮城(成)ノ下溜
池迄水上ル」(地図㋺参照)とあり、隣町一宮町東浪見の牧
野家文書『万覚書写(9)』によると、「川通りは茂原下まで水押
あげ申事ニ候、舟頭給より北の方段々浪高く打揚、一松領三
千石の内、家も大分に打潰れ、人も千弐三百人も死ス」と記
されている。
両文書から、津波は県道一二八号線沿いまで達したものと
推定される。以上、諸々の要因を総合してみた時に、一ツ松
郷における津波犠牲者は九〇〇人、あるいはそれ以上(牧野
家文書参照)に達したものと思われるばかりか、発掘史料の
乏しい物的被害も相当なものであったことが推察される。
〈註〉
(1)『千葉県の歴史』第二十七号 拙稿「房総における
元禄地震」昭和五十九年二月
(2)拙著『第二集元禄地震史料および分析』昭和五十八
年十二月、『山武・長生郡における元禄地震調査』昭
和五十七年九月
(3)同右(2)拙著『山武・長生郡における元禄地震調
査』二二頁
(4)同右(2)二二―三頁、および『房総史学』第二十
三号 千葉県高等学校教育研究会歴史部会編
(5)現在の深照寺住所は、一ツ松戊五七一番地で、田中
庸雄氏が住職として教応寺をも兼ねている。
(6)長生村史編さん委員会編『長生村史』昭和三十五年
一一八・一九一―三頁
(7)同右(1)に同じ
(8)池上誠家文書 享保十年頃「一代記付リ津浪の㕝」
(9)牧野春江家文書 享保四年