Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2300044
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔用水溝出入についての一考察 ―元禄大地震に関連して―〕井上準之助 郷土研究叢書Ⅳ「房総災害史」S59・6・15千葉県郷土史研究連絡協議会編 千秋社発行
本文
[未校訂]はじめに(略)

(前略)
これは、下総国椿海新田の夏目村の最初(正徳五年)の名
主家として知られる掛巣市郎右衛門家(千葉県香取郡東庄
町夏目)の「下総国新田油(由)来之覚」の最終部分の裏書きと
して記されてあったものである。執筆年代は不明である
が、九十九里地方の地震と津波のすさまじさを物語ってい
る。さらに江戸城と小田原城の城下町の火事にも言及して
いる。そして、翌年の元禄十七年二月の大地震の余震ぶり
や、米価の値上りなども伝えている貴重な史料である。
一元禄十六年未ノ霜月、大地震、夜八ツゆり出シ、半時程ゆ
りやます、それより毎日毎夜、三拾度、弐拾度、ゆらさる
事なし、十七日之間ハ人馬通路仕かたし、方々浦々へつな
みあけ、中ニ茂長井、飯岡、平松之浜へ大浪ニて、家壱軒
も不残流、人百人余死ス、江戸御城大分之御破損ニて、松
杉、くり、丸太、竹等、百姓へ被仰付、百姓迷惑ス、屋敷
方町長屋、土蔵、皆そんし、大土われ、ごミわき出、石
掛(垣)、御堀くすれ、平地ニなり、小田原御城大破損、町火事
ニて家不残やけ、人壱万人余死す
一元禄拾七年申ノ二月廿四日、又大地震也、岸表くすれ、右
両年内ハ一日五度、三度、或ハ五日、七日ニ壱度ツゝ弐年
ハ間ゆりやます、申ノ作等ハ大躰、米壱分ニ弐斗より弐斗
一升迄九月十七日より大漁事有、世の中よし、同四月より
宝永と年号替ル
(後略)

 さて、小論の主題である用水溝争論一件に入ろう。この一
件は、既述したように元禄十六年の大地震から二十一年後の
享保九年(一七二四)から同十年にかけて争われている。ま
ず、享保九年八月に香取郡小座村(村高二一一石九升九合)
が江戸の奉行所に隣村の粟野村(四三九石五斗八升八合)を
訴えている。小座村は代官領(一一石三斗余)と旗本領(二
〇〇石)の二給支配であり、粟野村は旗本領三給支配であ
る。この一件は享保十年二月に両村で決着がついている。次
の二つの史料(1)を見られたい。
史料〈A〉
乍恐以書付御訴訟申上候御事
一下総国香取郡 野田三郎左衛門支配所
小座村訴訟人
名主
源兵衛
小笠原久左衛門知行所
同村訴訟人
名主
藤兵衛
組頭
権兵衛
用水路溝往還出入
一同国同郡粟野村御三給
青木吉之丞様御知行所
粟野村
名主
相手 八十右衛門
中川勘三郎様御知行所
同村
名主
相手 治兵衛
杉田八之丞様御知行所
同村
名主
相手 五郎左衛門
一粟野村御田地之内ニ出水御座候て、古来より粟野村、小座
村両村ニて引来、田地仕付相続仕候儀は小座村往還道添ニ
用水溝御座候て両村ニて先規より用水引来申処ニ弐拾弐年(元禄十六年)
以前未之年、地震ニて溝往還江山崩、土落、道高ニ罷成普
請難成、殊ニ 御公儀様往来道せはまり申候ニ付、拾八年
以前(宝永四年)、亥之二月中、以相談、右之溝より少々引下ケ、小座
村田地之内江代溝を立、両村ニて引来り申候所ニ当三月廿
一日、粟野村御三給名主、組頭、小座村江参候て申候は右
用水揚場地下りニ候間、上江揚申度由申候間、其許勝手次
第と申候得は水揚場上ニ立、少々新溝を構、小座村ニ唯今
迄有来溝江写(移)、両村ニて用申候御事
一当六月中、中根内膳様御知行所大友村と我々用水出入御座
候儀も粟野村之水故ニ御座候、依之、中根内膳様御役人拙
者共、地頭役人御立合、御見分被成候処ニ、隣郷宮本村、
小南村、青馬村、右三ケ村扱ニ罷出、用水之儀は粟野村地
内より出水ニ御座候間、粟野村と相談仕合不申候ては分水
も難成候間、三ケ村預り置、重て埓明可申候と申、両御役
人御立合之上、双方和談之願仕、和談相済し、両御役人七
月五日ニ御帰被成候御事
一右申上候往還代溝共、毎年小座村ニて普請相続仕候、依
之、御地頭様より人足扶持方、年々被下候、然処ニ粟野村
より如何様之存寄御座候哉、当七月五日早朝、以使、申来
り候は、拾八年以来捨り申候溝を掘可申と申候間、拙者共、
返答仕候は、先規より小座村ニて普請仕来り候場所、其
上、当分水入用ニも無之時分ニ罷成候間、来春中ニ相談可
仕と返事仕候処ニ同六日、大勢人足を以、我儘ニ新溝ニ掘
ちらし往来をせバめ、牛馬之出入不罷成様ニ仕候、小座村
を掠、扱之村々をも蔑ニ仕、殊更収納時分ニ罷成、往還を
破損、難儀仕候表以 御慈悲、只今掘散シ申候溝を埋、往
来自由仕有来候用水溝、只今迄之通、粟野村、小座村両村
之用水引申候様ニ被 仰付被下候はゝ難有可奉存候、委細
之儀は御尋之上、乍恐口上ニて可申上候 以上
享保九年辰八月
訴訟人
藤兵衛㊞
権兵衛㊞
源兵衛㊞
相手
八十右衛門
治兵衛
五郎左衛門
御奉行所様
史料〈B〉
取替証文之事
一下総国香取郡小座村訴上候は、同国粟野村出水有之、先規
は当村地内往還道添之井筋より小座、粟野両村江用水引来
候処、弐拾三年以前未ノ年(元禄十六年)、地震ニて山崩、右井筋埋候得
共、浚候ては土上場無之、往還道ニ差置候間往還之障りニ
成候故、浚難仕ニ付、十九年(宝永四年)以前、両村相談之上、小座村
分田地之内江代溝を掘、用水引之候間、御地頭より人足扶
持米被下之、当村ニて道溝普請仕来候処、此度粟野村より
我儘ニ道添之古溝を掘散シ往還道へ土ヲ上(揚)候ニ付、道中高
ニ成、幅狭ク牛馬之通行差支候間、只今迄之ことく、代溝
より用水引之、往還無滞様ニ仕度旨申上之候
一粟野村答候は、右用水之儀は先規より当村計之用水ニて候
処、小座村より往還道普請[事寄|(ことよせ)]、新溝を掘、用水可引取巧
仕候ニ付、有来古溝、此度浚普請仕候、小座村ニハ観音滝
狸谷入弐ケ所出水、其外、下之清水も小座村用水堀江落込
候付、水不足無之候、当村井筋之儀、長千五百間程之処江
引送り候故、分水仕候ニてハ水届兼候付、前々より小座村
江村分水仕来候儀無之処江偽り申之候、且往還道之儀、先
規より道幅半分宛、両村支配仕来候処、不残、小座分之由申
掠候、右古溝浚并道普請之儀、跡々之通り仕度旨申上之候
右出入御吟味被遊候処、双方無証拠ニて立会、図面ニハ道地
形并用水筋、難相決ニ付、河原清兵衛様、池田喜八郎様御手
代御両人被差遣、地所御改被成候処、小座村申上候ハ先年、
地震にて道添之用水溝埋り候ニ付、両村相談ヲ以テ小座村地
内江代溝を掘り、粟野出水両村江引来申候得は右出水計ニて
外ニ用水無之、殊ニ粟野村方、地形高ク候故、先規之溝を
用、本堰より水引移シ不申候てハ用水届兼、仕付難成、其
上、小座村分之用水ハ観音滝并本堰下之清水之余水、小座村
用水堀落込候得は水不足とハ不相聞江候、尤本堰より小座村
江分水致候由申上候得共、何ニても証拠無之候、且又往還道
并古溝鋪共ニ小座地内ニて地頭より人足扶持請取之、普請仕
来候由、免状以申立候得共、書面ニ人足扶持と申儀無之候
条、証拠ニ御取用難被成旨被仰聞、御尤ニ奉存候、粟野村よ
り申上候、道添古溝用水不通候てハ水懸指支候田場有之儀無
相違候、道之儀ハ懸直シ、往還并小座一筋之作場道ニて候
条、古溝之土、浚上候てハ道中高ニ成、牛馬之通行滞成候
由、小座村申上候ニ付、御吟味被成候処、此段何分ニも往来
不指支様可仕旨、粟野申上候、依之、被仰渡候は粟野山際往
還道添之古溝、古来之溝幅之通、壱尺弐三寸余迄掘之、其余
ハ決て広ク不仕、尤道鋪不欠様ニ浚、古来之通、用水、粟野
田地江可引取之、勿論粟野山際ニ有之、小座村飛地右京持分
弐拾八歩之田場江は、古来之通、用水溝可附之、且又小座村
より右之外ニも分水仕来由申といへとも無証拠ニ付、不被及
御沙汰候、往還道鋪之儀、自今道幅半分宛支配いたし、溝浚
并道普請之儀、双方立会、地高ニて道幅狭キ所は地を低、又
ハ地広之所江地形引、平均、往来、又ハ牛馬之通行、障不成
様ニ可仕旨、被 仰渡、双方奉畏候、扨又両村境、字塙台や
けなべと申所之芝地三畝歩程之処、、小座村地内ニて物干場
馬捨場等致来候由申之、粟野村ハ粟野地元候得共、空地有小
座村より馬捨場ニ致候得共不差構旨申之、いつ連之地所と申
証拠一切無之候上ハ向後双方可為入会旨、被 仰渡、是又承
知仕、一々奉畏候、若相背候ハゝ、何分之曲事ニも可被
仰付候、為後証、取替証文仍如件
野田三郎左衛門御代官所
下総国香取郡小座村
名主
源兵衛
小笠原久左衛門知行同村
名主
藤兵衛
組頭
権兵衛
享保十年巳二月四日 同
治郎右衛門
百姓代
安右衛門
杉田九郎兵衛知行
同国同郡粟野村
名主
五郎左衛門
相手
組頭
太郎兵衛
百姓代
利右衛門
中川勘三郎知行
同村名主
平右衛門
組頭
同断(相手)
四郎兵衛
百姓代
利兵衛
青木吉之丞知行
同村名主
八十右衛門
組頭
儀左衛門

弥市郎
百姓代
豊右衛門
御評定所
(史料〈A〉・〈B〉とも助詞の一部を平仮名に変えるなどの
補正をした)
 史料〈A〉は享保九年八月の小座村の訴状であり、史料
〈B〉は幕府裁定にもとづく享保十年二月の両村間の取替証
文である。史料〈B〉によって、史料〈A〉の小座村の訴え
に対する粟野村の反論があったこと、そしてその内容のおお
よそをつかむことができる。
史料〈A〉、史料〈B〉によってその大要を要約してみよう。
 小座村の訴えは次のようである。小座村田地のうちから出
水(湧水)個所があり、粟野村、小座村両村でそれを利用し
てきた。ところが元禄十六年(一七〇三)の地震で山崩れが
あり、右の井筋が埋ってしまった。それを浚えばその土が小
座村の往還道の邪魔になるので宝永四年(一七〇七)、両村で
相談のうえ、小座村の田地のうちへ「代溝」を掘って用水を
引いてきた。ところが、このたび粟野村が勝手に道添の古溝
を掘り散らし、往還道へ土を揚げたので、通行に差支え、大
変困る。今迄のように代溝から用水を引くようにしてほし
い。
 粟野村が答えるには次のようである。右用水は先規より粟
野村のみの用水であったところ、小座村が往還道普請を理由
に、新溝から用水を引くたくらみをしたので、従来の古溝を
浚普請をしたのである。小座村には二か所の出水があり、そ
のほか「下之清水」も小座村用水堀へ落ち込んでいるので水
不足はない。粟野村の井筋は長さ一五〇〇間程の所へ引送っ
ているので分水すると水は届かないのである。だから小座村
へ分水しているというのは偽りである。そして、往還道は半
分ずつ両村が支配しているのであって、それがすべて小座村
であるというのは間違いである。右の古溝浚と道普請につい
ては前々の通りにしておくつもりである。
この出入りについて幕府側が吟味したが、両村側共、無証拠
で立会ったため、図面だけでは道の地形、用水筋を決め難い
ので、手代二人を差し遣して地所改めをした。小座村は、先
年の地震(元禄大地震)で道添の用水溝が埋ったので、両村
相談のうえ、小座村地内へ代溝を掘り、粟野村の水を両村へ
引いてきたと主張する。一方、粟野村は、この水しか用水が
なく、地形も高いので、先祖の溝(古溝)を使って、本堰か
ら水を移さないと用水に不足するという(中略)。粟野村が、
道添の用水を通さなければ差支える田場があると言うのは事
実である。古溝の土を浚って積みあげられては、牛馬の通行
に差支えると小座村は言い、粟野村はそのようにならないよ
うにすると言っている。以上によって大要、次のように裁決
する。粟野村は、争論の原因となった古溝を古来の溝幅のよ
うに掘ってよい。しかし道敷が欠けないようにせよ(中略)。
往還道鋪については今後、両村が半分ずつ支配し、溝浚い・
道普請のさいは双方が立会い、土地の高いところは低くする
などして平均になるようにし、人の往来、牛馬の通行の差障
りにならないようにせよ。(後略)
 以上から元禄十六年の山崩れによって、小座村と栗野村の
利用する用水溝が埋ったことが大きな原因となって、両村間
で争いの生じたことがわかるであろう。事実、この大地震に
よる山崩れがかなり大きかったことは、当時この用水溝を復
活するのが非常に困難であったことなどから、推定できる。
だから、大地震の五年後、代りの溝を別に作る必要が生じた
のである(五年後という点は今後の検討の課題の一つであろ
う)。
 ところで、右の一件は水論の場からも将来、検討される必
要があるのではないかということを付け加えておく。
(1)高森千代松家文書(千葉県香取郡東庄町小座)。東庄
町史編さん委員会撮影のフィルムによる。
おわりに
 以上、元禄大地震による山崩れが原因で後年、争論になっ
た用水溝一件について史料紹介を中心に述べた。不十分なも
のではあるが、元禄大地震の一端を示す一つのデータとして
発表する次第である。多くの方々からご批判をいただければ
幸いである。
出典 新収日本地震史料 補遺 別巻
ページ 59
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 千葉
市区町村 千葉【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.003秒