[未校訂](表紙)「 天正九年七月
木舟城落城書
東宮森
肝煎 」
木舟城と館城の関係
館城主は木舟城主石黒太郎光弘の次男が宮森村に来り城を築
けしを館城と称す
天正三年織田信長の下帥上杉謙信同年七月木舟城攻取り石黒
譜木舟城主石黒又次郎光教直其子大炊助光が次男館城主又次
郎光直兄が石黒左近成綱なり
天正九年七月十七日江州長浜坂田郡にて自殺、館城主も江州
長浜佐和山にて自殺と有る此で見るに兄次男共に此地まで来
て一命を終りしと、同九年石黒氏滅亡其後木舟城前田秀継城
主となる、然る後に致(ママ)り天正十三年十一月廿九日大地震の為
地裂けて木舟城沈下する、其後秀継此地に再建せんと計画せ
しも弱地なる為諦め石動の山頂と決定をなし山頂を平になし
最はや建ばかりになり(ママ)処、病気に勝てず、それなりに終り一
命を終りしと、其跡今日尚城山公園と残り亦山頂城山と名を
残せり
住(ママ)昔糸岡郷五社村に真言宗の寺有り宝幢院と称し円徳聖人開
基にして七堂伽藍にして本尊は正観世音の霊仏なり、木舟城
主石黒家代々の祈願所にし隆盛を極めたるものなり石黒氏滅
亡後前田右近将監秀継木舟城主となり、尋い(ママ)て天正十三年十
一月大震炎(ママ)あり寺院等は勿論堅固なる城郭も亦破壊し城主夫
婦城中に於て卒去あり依て世子又次郎利秀石動城に移り父の
如く采地四万石を領するに至れり、其後同十七年に至り宝幢
院は城主の調(ママ)により石動に移転し本覚山観音寺と称するに至
れり、五社寺院の旧跡は水田となれ(ママ)も、今尚寺田と称し往昔
を偲べり