[未校訂]善光寺大地震と池田組の災害
(前略)
次に池田組の受けた被害状況について一瞥したいと思いま
す。この記は原田公仁氏所蔵に係る記録絵図によるもので、
本図は弘化四年六月、上原仁野右衛門と山崎参十郎署名の
もので、領主への差し出し控えではないかと推測されます。
池田組の範囲については、池田町合併史前編、池田組の村々
に記載してありますのでここでは省略いたしますが、ここで
受けた災害も予想外に大きく、たゞ人畜の被害が落ちており
ますが、若し人畜に異常がなかったとすれば倖であったと思
います。倒潰家屋山抜け等が想像を超えているのも、恐らく
震源地に続いた同一地質の岩盤を地下に持っていたことや幾
筋もの断層等の影響から俗に言う地震道に当っていた場所だ
ったことにもよるものではないかと思われます。湧水、井戸
水の変化、地割れや崩落、地辷り落石、恐らく枚挙にいとま
なしだったと想像されます。総じて山地に被害が多く、平坦
低地に被害記録のないところがこの地震のこの地方の特徴を
示しているものと思います。次にこれ等各地区に残された被
害状況を見てみたいと思います。
会染地区の状況(当時会染、七貴、陸郷、広津等の村名はな
かったのですが理解の便宜上こう書き記します。)
会染地区は村の大部分が平坦地で、東部中山山脈の西麓地帯
が南北に長く段丘になっていて、やはりこの段丘に近い所や
段丘上に被害が著るしく平坦部には災禍の記載がありませ
ん、十日市場、内鎌、林中は安泰で、渋田見の一部、原に半
潰二戸、新屋敷に半潰一戸、坂の下に半潰一戸、中木戸に半
潰一戸が記録されております。やはりここは山麓になりま
す。これから北に続いて滝沢には半潰三戸、花見には全潰家
屋二戸、半潰家屋実に七戸に及んでおります。相道寺も全潰
一戸半潰七戸が数えられておりますが、同じ段丘上でも半在
家、中島に被害はありませんでした。
池田町村地区の状況
池田町村については、先に松代藩山越嘉膳の記録によっても
知られるように、被害家屋は見当りませんでした。たゞ騒然
として秩序もなく慌だしく右往左往して小屋掛避難の状況
や、地震神送りの記録だけにとゞまっております。然し堀之
内に目を転じますと、ここには全潰家屋五戸、半潰家屋八戸
という大量の災禍を蒙っております。又、正科もこれに続い
て全潰三戸半潰三戸を出しております。ここから東に続く山
之寺では全潰四戸、半潰一戸が記録されております。恐らく
怪我人の一人や二人はあったことゝ思われますが、そういう
記録は残されておりません。七貴地区の状況
次に七貴地区の状況ですが、ここも犀川峡谷は低地の上に平
坦で、この自然と災害の状況とは他のこうした類形と一致し
ているように見受けられます。たゞ段丘上の関係か、押野は
上下とも相当の被害を出しております。上押野では中木戸に
全潰家屋七戸を出しております。その上東奥には全山の山抜
けがあって泥の渦で膝を没するという騒ぎがあったと伝えら
れております。下押野では半潰三戸の外は各小部落とも安泰
で、中之郷、押出にも被害なく、鵜山に半潰一戸が記録され
ておりますが、矢口家の染物工場の被害がこれではなかった
かと言われております。犀川筋は荻原と塩川原ですが、この
低平地には被害はありません。
陸郷地区の状況
陸郷地区も大別しますと、犀川沿岸の低地と平地、それと山
手に分けられます。犀川沿いは中村、神谷、小泉、日岐、牛
沢、草尾等が低平地でやはりここには被害記録がありませ
ん。然し一歩山へ入りますと多くの災禍が報告されておりま
す。金井沢、田ノ人とも各全潰一戸、天崎は全潰三戸、半潰
二戸を記録しておりますが、殆んど隣り合わせている天池、
日影、八代に被害のなかったのは山襞のむきによるものであ
ろうと思われます。又、この山尾根と方向を同じくしている
[有明|うべよう]は不明で[小実平|こじつべい]には全潰二戸半潰五戸、日向には記録が
ありませんが谷を東に隔てた大岩には全潰二戸、半潰三戸を
出し、大倉には半潰三戸が記録されております。宮ン平は全
潰一戸、半潰八戸を記録していますが、ここを北に下った袖
山部落は予測もされない大被害で、全部落総なめに村場が辷
って十三戸中九戸が全潰、四戸が半潰、土とともに流されま
した。この災害によって全部落が下に降り現在の袖山部落と
なりました。犀川べりに下っては牛沢にも別状なく、日岐、
草尾は前述のように安泰でありました。次に広津地区の全貌
を探ってみたいと思います。
広津地区の状況
広津地区は、北山村、宇留賀村、大日向村といった旧三村の
区域に分けてその状況を纒めてみますが、部落が広範に亘っ
ているだけに北山村地域の被害が最も大きく、犀川や金熊川
に臨んでいる地域は殆んどが低平地であるだけに被害は少な
かったようです。山がかった所の[小字|こあざ]地は集落が小さい割に
被害の大きいのが特徴といえます。先ず北山村南限の法道部
落ですが、ここでは全潰家屋六戸、半潰家屋九戸、殆んどが
被災しております。平出は僅か北に寄っているだけで全潰一
戸にとどまっております。この一戸も民家でなく成就院の庫
裡の模様であります。平出の東に続く山並の部落坂森は全潰
一戸半潰二戸、長谷窪は全潰一戸半潰五戸を記録しておりま
す。長谷窪の北側に当る日影山は全潰二戸半潰一戸、これに
続く大久保は全潰三戸、半潰三戸となっております。この山
尾根と大峯山との間を北に走る中心山域の幾集落も被害が多
く栂之尾は全潰三戸半潰八戸、荻は全潰一戸、正ノ田は全潰
三戸半潰三戸が記されており、[楡室|にれむろ]に全潰一戸半潰一戸、正
山部落(現在なし)、今堀には記載がありません。神出に半
潰一戸、桃ノ木に全潰三戸、半潰三戸、奈良尾(現在なし)
全潰二戸、半潰一戸が記録されております。大峯山の東山腹
に続く集落寺間には全潰五戸、半潰二戸、中之貝は全潰一戸、
半潰四戸、高畑に記載なく、日野に下ってここでは全潰二
戸、半潰二戸を出しております。谷を隔てた対岸の足崎には
全潰一戸、半潰二戸、菖蒲には全潰家屋なく半潰四戸を出し
ております。山田、峯在家に半潰四戸を数えております。こ
こを南にまわって平畑は全潰三戸、半潰一戸、郷志窪に全潰
半潰各一戸宛、次に南北足沼ですが、ここは地域は広いが全
潰四戸、半潰三戸にとどまっております。以上一応北山四十
八谷と言われている範囲の被災状況ですが主として住宅の模
様で土蔵とか倉庫、物置等についての類別記載がなく、神社
寺堂についても記録はありません。次に宇留賀地区の状況を
拾ってみることにします。宇留賀地区は、北山地区よりも範
囲も狭く低平地の関係から被害が少ないようです。地勢的に
はここも山手と平地に分けられ、低平地は才光寺、宇留賀本
村、相(会)、鷺ノ平等でその他は金熊川の東岸山手と西岸
山手、それに古坂になります。低平地として挙げた所ではた
ゞ才光寺には半潰一戸を数えるのみで他には被害記録はあり
ません。金熊川沿では八坂村と境を接している大岩には被害
なく、寺沢に全潰一戸、半潰四戸、石畑に全潰三戸、半潰二
戸、[新井|あれい]は無事、[太良|たろう]に全潰一戸、半潰二戸、外に常清寺の倒
壊があり、正[平|でえら]、霧山ともに記録はありません。金熊川西岸
では日影に全潰三戸、半潰三戸、[二子|ふたご]に全潰二戸、栗本半潰
一戸、雨引、池ノ平、鍛冶屋、[馬落|もおと]し、[一〆地|いつかんじ]等には記録が
ありません。相は先に記しましたが、その一部[平井|ひれえ]、中畑等
も無事で、古坂へ越えて[湯入|よねい]りには別条なく、久保に全潰二
戸、半潰二戸、上手村に全潰二戸、半潰五戸が挙げられてお
ります。笹平、柳久保には被害はありませんが、上の平では
六戸全潰焼失となっております。以上で宇留賀部落を終りま
すが、山地山腹程被害の大きかったのも特徴であります。次
に大日向地区に歩を移してみます。
大日向地区も山手に登った小字地に被害が多く本村には大し
た被害はありません。たゞ北平に半潰一戸が記録されている
だけです。南平から犀川に沿って梶本、[下|しも]ン田ともに被害は
ありません。山ノ手では堀越を皮切りに、ここでは全潰八
戸、半潰八戸、菅ン田に全潰二戸、小竹では全潰四戸、半潰
三戸を出し、中塚に半潰二戸があります。前田には全潰一戸
が記録されております。何れも大日向地区のこの一角は山手
という特殊地域で、北山地区と殆んど一連の地続きで、災害
も大同小異であります。なお虚空蔵山(岩倉山)の崩落で堰
き止められた犀川の水は先にも記したように延々六里の川上
にまで水を湛え、山清路を超えて現生坂村雲根の下手に及ぶ
一大湖沼となりました。これが四月十三日の決潰まで十九日
間無気味に増水して、最後に大災害を残して流れ去ったわけ
です。「押してけ善光寺や丸焼けで、おまけに新町や川流
れ。一これは地震に伴った長野町の大火災と、この大洪水の
災禍で浮き上った現信州新町の流亡を俚謡風に唄ったもの
で、地震災禍の物凄さを語っていると思われます。なお虚空
蔵山の崩落によってつくられた湛水によって受けた犀川沿岸
諸村の水没流失被害の絵図記録や、長野町大火の図版画等の
貴重な資料も残されておりますのでこの災害研究の場合は参
考になろうかと思われます。
原田氏所蔵の絵図面には部落の被災者名に全潰、半潰を記
し、その他いたる所に発生したとみられる地辷り崩落の模様
も窺えます。特に地辷り山抜けでひどかったのは先に記した
袖山部落と法道部落の対岸[鍵|かぎ]山の大崩落があります。鍵山は
現在の中山温泉の目の前に連なる山筋で、その崖肌は今もな
おそのまゝ残されております。記録では長さ百間、横六十
間、それに続いて長さ三百間、横五百間という規模になって
おります。これは実に広大なものであります。この谷合いは
陸郷地区草尾村と池田町村をつないだ主要通路で、生坂もこ
れに出て池田へ通った道筋ですが、幸い人家がなかったので
人畜に死傷は伝えられておりません。その他先に記しました
が七貴地区上押野の白崖の崩落があります。これは小なら沢
山の口から北に向って抜け出し、その泥土は膝を没する深さ
であったと伝えられております。なお大きな山抜の地辷りで
は相道寺部落と花見の間に押し出した通称「ごんの沢」があ
ります。この沢は権現沢ともいい、記録では「ごき川原」と
記されております。この山抜けの長さは二百間と書かれてお
り実に大量の土が押し出したものです。ここの土は昭和二十
七八年頃から客土として新開田へ運び出された境畑地籍であ
ります。そこの土取り搬出の際実に多数の[埋木|うもれぎ]が掘り出され
ました。最も大きな欅の朽ち木の根先は稍炭化しており本幹
は周囲一丈にも及ぶ大木でありました。当時どうしてこの地
下からこのような大木が累累として現われるのか見当もつき
ませんでしたが、原田氏所蔵の災害絵図から、地震による地辷
り崩落のあとであることが確認されました。地表から計って
三十米もの地下から、まだ木質そのまゝの櫟や檜の類も出土
しましたが、またその下から繩紋期のものと思われる土器、
[轆轤|ろくろ]を使い[釉薬|うわぐすり]を使った陶器、弥生時代土器高[坏|つき]の足、住居
跡炭の出土、奈良時代へ溯るといわれる刀、等の出土があっ
て深い謎とされていた所です。特に鋸で切り放したと思われ
る松の幹が端を現わしている現場を見た時、全く時代が混乱
して裁きがつかなかったのですが、今から百三十年前に起き
た地震の爪跡であったことをはっきり知ることが出来て、謎
の解明がつきました。古代から現代に続く長い歴史の上に覆
いかぶさった土を一度に跳ねのけ、そこから出てくる異った
顔が、地震以前の長い姿として一挙によみがえったわけで
す。
この地震が全く終熄したのは恐らく幾年かの後でありましょ
うが、差し当って小屋掛住居から我が家に戻っても、幾度余
震に脅かされたことでしょうか。災禍に逢った家の片付け
や、復旧のために、一生涯の重荷を負った人々も数多かった
ことだろうと推測されます。以上は災禍といっても倒潰家屋
だけで、その他の問題には触れておりませんが、如何に激し
い地震であったかはこの記録だけでも充分察しがつくことだ
ろうと思います。地域々々に残された伝承や記録を[綴|と]じて、
一大編述がなされたら後世に裨益するところまた大であろう
と思います。