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項目 内容
ID J2100177
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔海野町史〕小県郡S53・4・10中沢好冨著 海野町商店街振興組合
本文
[未校訂]上田海野町、白木屋土屋仁輔は自ら資を投じ、横死者の冥
福を祈り、立派な大きな石塔を埋葬の地に建てた。
真に奇特な美挙として、上田の誇りでもある。
この石塔には、正面に、地震横死塚
向って右に、発願主 当国上田住
土屋仁輔徳昆 建之
裏面に
世話方 当所長野町 久五郎
石工 吉左衛門 鳶頭 常八
弘化四年歳次丁未 三月二十四日
向って左に
世話人 当国上田真田村
白山寺 義門
世話人 当国上田横町
宗吽寺 覚賢
同 当所
山崎文沖
同 当国上田房山村
橋詰三平
と刻みこまれている。
白木屋血縁の子孫、山浦昌雄の著書「耳塚」によると、
地震被害の報をきくや、仁輔は、番頭女中、出人職人を
引具し、大八車十台に、救援物資の米、味噌、醬油、衣
類等満載して、十里の道を長野に駈けつけた。そして遺
体の収容をした。
仁輔徳昆の第二子昭徳の妻やす女は、昭和十一年八十三
歳まで生きて、その語り伝える所によれば、善光寺地震
に際して、横死者の耳を切り採り、大壺に入れて埋め、
その上に碑塚を建てた故、一名「耳塚」と言う……と。
上屋仁輔の生家は、上田海野町南東にあった(現在中央二丁目十二番地附近)
一族は町の南側五分の一位の地域に住み、当時、土蔵十
一棟、井戸五ヶ所にあったと伝えられ、集族形態をなし
ていた。近年まで徳昆系を白木屋といい、宗家を向う店
(だな)、三河屋山浦系を新宅と言った。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1471
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 上田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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