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項目 内容
ID J2100125
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔法蔵寺史〕上水内郡小川村古山S23・8・15 戸谷一郎著 法蔵寺史刊行会発行
本文
[未校訂]口上覚
一鐘楼門 長三間半横弐間半 潰
一長屋 長拾弐間横三間半 同断
一灰屋 長五間横三間 同断
一庫裡 長拾五間横八間 半軒
一衆寮 長拾壱間横六間 半潰
右ハ先月廿四日夜大地震ニテ前書之通倒潰罷成申候。其住持
驚逃出御朱印持参仕、飯台座テ飯台ニ蹴掛倒上へ板折怪我仕
候。此段御届申上候 以上
弘化四丁未年(一八四七)四月
古山村
法蔵寺代
常源寺
岡嶋庄蔵殿
山寺源太夫殿
 右は弘化四年三月廿四日、奥信濃を襲つた善光寺地震の余
波に於ける法蔵寺の被害状況報告である。同寺付近の被害を
録した記録の中に、
(法蔵寺蔵)
 抜覆之場所西戸屋大抜也、大手大抜也。東戸屋城山より坂
村川原まで抜落同所水たまり芋之沢下までつゝまり云々。
とあつて、震源地でなかつたとは云へ相当な強震であつたと
推察される。
当時の世代過去帳を抄出すれば
前総持当山二十三世大玄哲文大和尚
(上略)
一弘化四丁未年(一八四七)三月廿四日大地震、諸堂大破ニ
付キ多分入用相掛元ノ通リ破損(ママ、修復カ)仕候。一銭モ檀家へ不掛。
一安政元甲寅年(一八五四)七月出立ニテ御朱印改ニ致出府
十月六日帰寺仕候。檀家へ入用奉加不仕候。
一安政六己未年(一八五九)冬、御朱印御改ニ付、出府仕
候。是も檀家へ無心無之候。(下略)
とあり、弘化の地震に依つて被害は大きかつたが、その為に
寺運に関わるやうな影響はなかつたやうである。(後略)
第四章 常源寺の近代の歴史
十五世中興様以降法蔵寺系復古時代
 十五世中興絶学文慶様は鬼無里村坂ケ峯村の室賀惣重郎家
の御出身である。
 法蔵寺二十三世大玄哲文様の首座であり、御弟子であられ
た。天保九戌年十月五日に嗣法され、翌十亥年八月二日に常
源寺文慶として総持寺へ瑞世された。
 哲文様は法蔵寺へ多大の功績をお積みになられた方で、法
蔵寺現住一考師は本寺へお願ひして中興様にしたいと言つて
ゐる程の名僧であられた。十五世中興様はその師匠業の衣鉢
を全的に受け継がれた方であつたと拝察出来るのである。
 弘化四年の大地震で本堂、庫裡、灰屋が倒壊した災厄を受
けられて、すぐ其年十月より再建に着手なされた「本堂再建
日鑑」という紙数六十三枚にお家流で達筆に書かれた日記を
残されてゐる。
 表紙の裏に、棟梁当所北沢平五良、徒工弟富蔵、大野同弟
子喜作、地京原同弟子民弥、杣頭奈良井村利七、徒清蔵と号
してある。
 次に倒壊の届書が四月附で寺社御奉行所、長国寺御役寮宛
で出してある。次に、
弘化四丁未年三月二十四日夜五ツ半追々四ツ時前代未聞の
大地震にて庫裡揺潰相成候、此日三会無尽にて残衆与兵衛
殿与惣左衛門殿拙寺三人炉辺にて四方山噺致候処、与惣左
衛門殿申され候様短夜に候得ば与兵衛様如何御帰り然る可
しと、両人大戸口に出で拙寺見送り、行燈提げ飯台座口へ出
候処、大雷の如く響き渡り一同是は何事成哉と驚入り、庭
前へ飛出候処、殊の外の大地震也。其節庫裡潰れ、下に出
羽住人芳山長老文棟小僧知道坊三人相成候。皆仏神の守護
に哉壱人茂怪我無之難有御事に候。庭にて四方見聞致候処
八方大火発し抜る音誠に目も当てられず次第、夜明廿五日
五ツ時臥雲院より鳥々見村伊佐七、殿様御国廻り同院御宿
に付罷越居りたる此人お話候に、昨夜臥雲院様抜け焼失し
私共漸々出で候と申す。廿六日九ツ時客殿(本堂)相潰れ
申候。誠に残念なる事也追々承り候処、明松寺抜け潰れ諸
堂残らず大破也。法蔵寺は鐘楼堂長屋潰れ土蔵半潰。近辺
寺方残らず潰る。鬼無里山中残る民家山中大半潰又抜又焼
失人馬悉く死す。新町も震潰焼失す。其内に岩倉の石堂山
抜け花蔵と申処へ押附け犀川を昼夜四十日程相留め、川上
七里余溜り誠に大海の如く、新町穂刈竹生沢上条源真寺裏
山迄残らず水面と相成り山中死残りの人物狂気の如くにて
右溜りを見聞に行く者数を知らず。其内四月十三日八ツ時
頃溜切れ一度に昼夜四十日余の大水を推(押)出し、大石大木流
れ其音天地に響き渡り、川筋悉く屋流れ地を損し川中島一
円推払ひ松代の上岩野口へ推附け、家流れ人馬死す事数を
知らずと申候。此度限り、御城主様にても変死人の御見分
出来難く、皆追々に菩提所又は当地寺社御血脈斗りにて取
片附申候
尚又、御上様にて茂悉く御心配遊ばされ、松代御役所を桜
馬場相立て諸訴願事等殊の外手軽に相済み難有事也。小々
静に相成候より御奉行様又御代官様度々御廻村の上夫々御
手充御座候。寺在家共潰家弐百疋、抜潰三百疋下され候、
其外種々御手当之様子詳らかには知らす、後代の知る為に
万一を記して置く者也 穴堅(賢)〳〵
 次に再建の願書を翌嘉永元申年四月に寺社御奉行所、郡御
奉行所へ呈出した。青木村名主与之助、与惣左衛門、伊兵衛
常源寺連印である。そして許可になつた届を長国寺御役寮へ
出した。与惣左衛門殿一人にて行き悉く骨折。と添書してあ
る。
次に本文で、
十月十六日役人頭立衆中熟談の上本堂再建相定候、尤も与
兵衛殿并ニ世話人衆中段々内評の上也、同月廿五日七ツ時
柱立家之儀は祈願大工平五郎杣利七馬曲村弥平治大工是は
棟梁親方也世話人四人衆原弥平治也保高田頭天間角井右各
村中酒にて招く也、明三月年号嘉永元年と御改め同四月七
日山始也、尤も去八月中杉木三十本程切置也
という書出しで、天候や時刻や人々の出入を細く誌るし、中
興様や檀信徒の方々の御骨折りの様子が目に見える様に書い
てある。
 そして其年の十二月十八日迄にて再建の大事業を完結せら
れたのであつた。時に御年三十八歳であられた。役人頭立衆
を始め檀信徒の人々法蔵寺檀中の人々が真に中興様と一体に
なり、物も、身心も、全面的の御協力によつてかくも美事に
大業の完遂を得られたのであつた。これを思へば本堂は一層
大事に、有効に使用しなければならぬ事を思う。
 この大事業はいかなる経理の下に行はれたかを研究する
と、再建の翌年の嘉永二酉年三月、本堂再建奉加人別帖。同
月、本堂再建三会頼母子講帖。同月、観音彩色志帖。の三冊
によつて見ると、有志金を集めてから事業を始めたのではな
く、後で処置したものである。奉加人別帖の寄附者百六十九
名で、金額は最高が壱両で、弐分、壱分弐朱と次第に落ちて
くる。住良本以外では大川、味大豆其他の村からも寄附して
頂いてある。三会頼母子講は三十六名で合計金拾両である。
随分遠くから御協力を得たもので、田の頭、小屋の平、桐
山、押切の村の名がある。観音様の彩色の有志は、一寸変つ
てゐて、帖始めが古山、同衆徒、同納所、同家来、同寺内道平僧
と法蔵寺で五筆あり、明松寺山内祖量僧、金剛寺と御協力を
願ひ、次に村方近村十三名を除いては法蔵寺の重立つた檀徒、
帖元衆やその方達が世話人として村をまとめて頂いてある。
 こうして伽藍を再建した後を整備されて三年後の嘉永五年
の夏大江湖会を修行された。同年正月より法華千部講の有志
を募り、江湖会中法華を千部読誦して地震で頓死した亡霊を
始め、有縁無縁の追善菩提、子孫繁昌の為にするという主旨
である。この帖簿で法華六十六部寄進者は北尾村の北沢安兵
衛、中条村滝沢治平、古山村戸谷亀右衛門の三人で、続いて
奈良尾村富右衛門、古山村戸谷七郎治を始め法蔵寺檀中全部
の人が志す戒名と共に寄進してゐる。それと現在の檀信徒の
外では枌之木、越道、中条、赤柴、月夜柵、市之瀬等の村々
の名が見える。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1251
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
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