[未校訂]さて、本村の被害状況をみると、『旧村誌』に次のように記
されている。
「(前略)幸に家屋の全潰がなく人畜の死傷も多くなかっ
た。併し中野御役所五万八千石の管内では潰屋二九七三
軒、半潰七三七軒、死者五六八人、負傷者一四〇〇人とあ
り、折柄善光寺開帳中で、今の長野市や飯山町は倒潰・火
災・焼死で目も当てられぬ惨状を呈し、小菅村名主金井和
助は公用で飯山町に宿泊し殉職した。この地震のため大菅
溜池(北竜湖)の堤防崩潰し、春水洋々たるもの一時に笹
沢村方面に流下した。したがってこの間接的被害は家屋二
戸流失、一戸大破した。家人は全く寝耳に水で六名惨死
し、泊り合せて野沢人も死んだ。流末針田・関沢両村を[衝|つ]
き千曲川に入った。耕地の荒廃、小菅三町七畝、笹沢二町
(高四一石中一三石荒廃)針田三町一反八畝、関沢約一町
歩、計九町二反歩を減失し、回復に四〇年を要した。溜池
堤防の崩潰部七三メートル、九月に至って復旧し、この役
人夫延三八七二人を要した。柏尾村でも千曲川堤防五〇メ
ートル、上下両堰の堤防四一〇メートル破損した。」
『笹沢区誌』にも、「弘化四年三月弐拾四日ノ夜ノ地震ハ
小菅溜池ノ堤防ヲ決壊シ池水氾濫シ震・水害交々至リ笹沢
住民ハ他ニ比シ幾倍ノ困難ニ遭遇シタルヤ思遣リテ悲シキ
極ミナリ。一とある。
笹沢村の被害状況は前記のとおりであるが、小菅池の堤防を
破った水は、一気に笹沢村を直撃し、旧村社境内の南に押し
出して、賢司、栄作、新三郎らの家の間を貫いて柏尾山(笹
第24図 弘化四年大菅池出水見取図
沢では向山と称す)に激突、左右に分れて北流したものは金
之助宅の前の崖下に達し、左折した泥水流は屋株方面通ずる
沢を進んで針田沖を浸蝕した。耕地の流失、潰等は前記した
とおりである(第24図)。
笹沢村では、三月二四日夜さっそく名主藤三郎百姓代半兵衛
の二人が、災害実状報告をかねて、救済願に中之条代官所へ
出発した。十月になって、中之条代官川上金吾助から次のと
おり手当金として金一二両下付があった。
御請仮証文之事
高井郡笹沢村
一金拾弐両也 百姓代 七右衛門
其方村方地震水害ニ付相続拝借相願候間、下戸倉村柳沢儀
右衛門施金之内を以而金拾弐両手当として相渡す。小前江
申聞連印之証文差出候也
前書之通被仰渡候者地震水災ニ付極難之者江御手当として
被下置難有頂戴仕候品々小前江割渡追而本書連印奉差上候
以上
弘化四年未十月十三日
高井郡笹沢村
百姓代 七右衛門
川上金吾助様
中之条御役所
右ヲ十二戸ニ割当之明細左之通
清右衛門、七右衛門、又右衛門、藤左衛門、庄左衛門、久
兵衛、源右衛門、文蔵、要左衛門、林右衛門、常吉、長左
衛門娘かつ 以上
笹沢村の潰減的な被害に対し、中之条役所でも極難小前救済
のため、一戸当り一両の手当を下付したが、その資金は、埴科
郡下戸倉村の柳沢儀右衛門の義損金のうちから割当支払らわ
れたものであることは、前記一御請仮証文之事一に明らかで
ある。なおこの件について、村役人から中之条代官所へ請取
証文が差し出されているが(笹川区有文書)そのなかに一御
手当金右之者江被下置難有頂戴仕、往々家業出精致シ尚又役
人組合ニ而も万事心添致一とあるように、組合村の役人和栗
村の長助、犬飼村の弥右衛門、小菅村の役人中が世話人と
なって、水内郡柏原村の中村六左衛門から九〇両、柏尾村の
川久保伊兵衛から五〇両、いずれも無利子一〇か年賦を借り
受け、荒地復旧の工事費にあてた。荒地復旧工事には、組合
一三か村内、また他組合村むらから人夫を出して復旧工事を
助けている。復旧工事は安政二年(一八五五)に着手、安政
四年一〇月までには一応の起返工事を終ったが、劇しい水勢
のために耕地が押し流され、石砂ばかりの所が多く、小菅村
から山畑土をもらい受けて土盛りをしたが、これもまた新土
のために稔りが悪く、売米にもならず村内一同極難渋してい
る、と安政五年(一八五八)笹沢村では、中野代官所へ訴えて
いる。これは、代官所が起返地に年貢上納を命じたのに対し
「乍恐以書付奉願上候。」(笹沢区有文書)と、増米免除を願
い出た書付の内容の一部である。
しかし笹沢村では、その前年安政四年には、一応の復旧成っ
たとして、中村六左衛門、川久保伊兵らの恩に報いるため村
社境内に「荒地開発供養塔」を建立している。
笹沢村は次いで大きな災害をこうむったのは柏尾村である。
柏尾村の災害は主として千曲川の洪水によるものであるが
『柏尾区誌』によると、
田方浸水段別約一五町歩
畑方浸水段別約二町歩余
計約一七歩余町
家屋浸水一三戸 同流失二戸
堤防破壊二か所一三間一四間同流失五四間
防水工事費 人夫五〇〇人 土俵一、〇〇〇俵余
とある。