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項目 内容
ID J2100072
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔瑞穂村誌〕下高井郡瑞穂村(現飯山市)S13・12・17 森山茂一編・瑞穂村役場発行
本文
[未校訂]弘化四年三月廿四日亥刻(夜十時)の所謂善光寺地震は、震
源更級郡更府村にあつて余り遠からぬので随分損害があつ
た。到処石垣崩れ石橋落ち、脆弱の家屋は傾き壁も落ちた。
幸に家屋の全潰がなく人畜の死傷も多くなかつた。併し中野
役所五万八千石の管内では潰家二千九百七十三軒、半潰七百
三十七軒、死者五百六十八人、負傷者千四百人とあり、折柄
善光寺開帳中で今の長野市や飯山町は倒潰・火災・焼死で目
も当てられぬ惨状を呈し、小菅村名主金井和助は公用で飯山
町に宿泊し殉職した。此の地震のため大菅溜池の堤防崩潰し
春水洋々たるもの一時に笹沢村方面に流下した。随つてこの
間接的被害は家屋二戸流失、一戸大破した。家人は全く寝耳
に水で六名惨死し、泊り合せた野沢人も死んだ。流末針田・
関沢両村を衝き千曲川に入つた。耕地の流失荒廃小菅三町七
畝、笹沢二町(高四十一石中十三石荒廃)、針田三町一反八
畝、関沢約一町歩計九町二反歩を滅失し、回復に四十年を要
した。溜池堤防の崩潰部七十三米、九月に至つて復旧し此役
夫延三千八百七十二人を要した。柏尾村でも千曲川堤防五十
米、上下両堰の堤防四百十米破損した。大正十二年九月関東
大震災には直接の被害殆ど皆無であつた。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1075
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 瑞穂【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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