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項目 内容
ID J2100071
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔永田村郷土誌〕下水内郡永田村(現豊田村)S14・12・10 松野新兵衛編・発行
本文
[未校訂](注、全般的状況など省略)
本村の被害
熊坂の抜出 熊坂新田 三月十四日晴夜
坊主山並法院塚等に一大音響あり忽ち崩落し五戸を押倒し
橋場迄抜出し来て此処にて留つたが人々泥中に押潰され惨
状目が当てられぬ有様で唯此に奇蹟にも孫右衛門の妻は翌
日泥の中ゟ這ひ出したる事にて他は悉く死んだ熊坂中無事
なりしは中島卯人唯一人のみであつた本村の被害程度も甚
敷く他郷に譲らなかつた家屋は皆潰倒した為め村民は小高
き処舞台大持平真宝寺屋敷等に集り寄つて小屋を掛けて居
つた
梨久保の抜出し 梨久保の字弥地の山抜け出し直右衛門・作
蔵・金蔵の三軒は泥の下に埋没された其時弥地山より物置
位の大石が顚び落ちた音は恐しかつたと云ふ。永江両村穴
田村各新田部落にかけて皆地震区域でどの家でも大概潰れ
死者の少しも無き家は無い位であつた
我祖父の弟金蔵なるもの善光寺へ公用で行つて宿泊中震災
に遇ひ折節二階に寝ていたが階下の者は皆圧死されたが二
階隣室の宿り客中十二、三歳の男の子の泣き居るを共に脇
差で屋根を突き破り助け出したが其父の見えぬので困り果
て善光寺堂前の松代出張役所へ頼んで帰つた又松代藩では
役所前で避難者中の裸躰のものに手紙(拭カ)一筋宛給与して居た
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1075
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 永田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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