[未校訂](地質学上より見た善光寺地震)八木貞助
(前略)
二 本地方の地形
由来本地方は西には糸魚川、静岡地構線があつて、西方中部
山岳と区別され、其東部はフオツサマグナと呼ばれ地背斜地
帯に属し、第三紀中新統以後の地層を順次堆積し、第四紀初
頭に於て隆起して陸化したのである。而して其東部には関川
断層線があつて頸城平野を作り野尻カルデラ牟礼等の盆を縫
つて善光寺平に及ぶ陥没帯を有し、其西方には飯綱・黒姫・
妙高等の錐状火山が列峙して、これ亦地弱線の存在を示して
居る。而して此等の地体は更に頸城、水内、更級等の地塊に
区別される。即ち頸城地塊は南に関川及中谷川の断層線を以
て水内地塊に接し、此処には妙高焼・天狗原・雨飾等の諸火山
を頂き、又水内地塊には黒姫・飯綱・高妻等の火山を有し、
犀川の下流及土尻川の断層線を以て更級地塊に接する。此地
塊は冠着隧道麻績川の断層線によつて、更に南部の四阿屋地
塊に相対して居る。此地塊には聖高尾三峯等の火山が噴出
して居る。此等の火山は富士火山帯の北端に其偉容を示して
居る。此等其底の第三紀層の走向は東北西南に走り、其間幾
多の背斜向斜を作つて褶曲し、日本海の方面から其圧力が及
んだことを示して居る。
三 長野市の地形及地質の地震との関係
長野市の地形を按ずるに、市街は湯福神社を扇頂として展
開するものがあり、東方善光下駅より新町、伊勢町、元善
町、桜枝町、横沢町にと登り行くのであるが、桜枝町の中央
部以西の西に下りて西長野に入るのである。これは湯福川の
押出しに由来するのである。更に後町の郵便局以南は裾花川
の扇状地の展開したもので次第に東南方面に陵夷するものが
ある。停車場より後町までは平均勾配三十分の一の微傾斜で
あるが、大門町より善光寺までは最急十五分の一の勾配とな
る。善光寺より北方は稍低平で箱清水の凹地を残し、嘗ての
湖沼を湛えたことを物語る。東には城山台地が善光寺とは二
十米以上の高低差があって、上松の狭隘を過ぎて三輪裏方面
に通ずるものがある。箱清水よりは断層線を以て往生寺台地
に連なり、往生寺台地は標高五〇〇米内外で地表は礫層に被
はる。之を検するに旧裾花川扇状地の一部で東は善光寺の凹
地を隔てゝ城山県社附近の礫層に連続するものがある。更に
南方旭山方面平柴台地表面にも裾花川の礫層の展開するもの
があつて、嘗ての裾花川が広大なる扇状地を展開したことを
知るのである。更に大峯山東腹には善光寺納骨堂より駒形神
社に続く椅子状台地があつて、階段断層の所在を示し北方に
延長するものがある。更に裾花川より東に通じた断層は城山
の南面を切断して居る。
長野市の地形は以上述べた様に複雑を極めて居り、又其構
成の複雑をも物語つて居る。地質上より之を見れば西北部山
地は大体流紋岩にて構成され、往生寺台地より城山にと千曲
層にて被はれ、其表面を裾花川の押出しによりて被はれる。
其後に於て城山の東西両面は南北方向の断層で切断されて城
山地塁を残し、又往生寺台地の東南は西長野狐池、横沢、箱
清水の断層を通し、善光寺凹地の地溝帯を構成した。此断層
線よりは竜宮淵、新諏訪、狐池、山の神、湯谷、和合台地上
等に鉱泉を湧出し、又清水の湧出する所も各所にありて其の
附近の飲用に供される。即ち瓜割清水、西光寺の清水、狐池
諏訪神社の泉等で此附近には湧水が多く、箱清水では箱池等
が著名である。又扇状地末端の泉には桜枝町車池及其附近妻
科の泉、諏訪町鳴子園等がある。
(中略)
五 川中島上中堰揚口の移動其他
⑴ 慶長年間花井主水によりて創設された川中島の田用水
は、上中堰其他は字犀口と呼ばれる地域に設備されて、約二
百五十年程は何等の異状もなく揚水し来つた。然るに弘化四
年の地震後には西方地盤の隆起に伴つて河道の侵蝕が急激に
進行して、揚水頗る困難となつた。よつて上堰は上流百五十
間中堰は百間の処に水門を移した。後又々困難となつて文久
年間には上流天狗沢の上より揚水するに至つた。其後更に明
治二年に至り又々上堰は既設の繰穴堰に合併して大工事を施
し、翌年には中堰も之れに合して上中堰と称するに至り、滝
訳沢の上流三十間の地点から揚水した。後明治九年には犬戻
しの三石から揚水し六十四間の隧道を新設した、明治廿八年
には花上の滝上笹原に移して隧道百八十間を穿つた。最近の
改修は更に上流七百五十六米(内六百六米は隧道)の地点に
取入口を新設して、信里村秋古の犀川の屈曲点に移して昭和
十九年に工事を完成した。而して此取入口の標高三六八・八
米である。之を要するに上中堰は揚水困難になつた為に、約百
年間に六回程上流に移動を行つた。而してこれは西部なる水
内、更級地塊が隆起したに因るもので、慶長年間の旧揚口と
は水平距離実に二千三七〇米で其落差は六・八米に達する。
然るに上中堰の勾配は一千分の一であるから二・三七米が其
勾配で、四・四七米が真の落差であつてそれが隆起によるも
のと認める。又現在の河道を見るに新旧取入口の中間に位す
る両郡橋より二〇米程上流に遷急点があつて、小瀑布状を呈
して居るが上流秋古の取入口までに遷急点が五―六に達す
る。然るに両郡橋以下は河床全く成熟して平坦で、水は穏か
に流れて、下堰取入口まで、約一千二百米の間は河道回春の
跡を残して居る。
⑵ 更に同じく犀川の北岸には小市用水があつて、両郡橋
の上百米の処で揚水したが、其後四百米及七百米上流に遡つ
て隧道で揚水した。後昭和十三年揚水困難となつたので、之
を放棄して下流より電気揚水を始めた。
⑶ 次に裾花川から揚水し長野市及上水内郡八ケ村一千七
百町歩に亘る灌〓水は、鐘鋳川及八幡川用水で長野市竜宮淵
から取入れるのである。而して該取入口は流紋岩の堅硬な地
質であるが、弘化地震には断層の為に地盤は支離滅裂となつ
て破壊し、其後河道一定せず、土砂の堆積著しく揚水極めて
困難となつたので、昭和五年善光寺用水組合を組織し、之と
犀川より揚水することを合同して配水設備を改良して昭和十
一年に完成した。更に北方の浅川及鳥居川等に於ても同様に
山地の隆起を証明し得る。
六 姫川構造線及頸城地塊の運動
大正七年大町地方の地震後に於て再検測された。明治二十
七年から昭和二年に至る三十五年間に糸魚川、松本間の水準
点の移動は、地盤の隆起及沈降を物語るのである。即ち糸魚
川に於ては(一)一二〇ミリの沈降を示すが、姫川に沿つて南
方山地に入るに従つて隆起し、大町に於ては最高(十)二八一
ミリとなつた。即ち此等地盤は傾動したのである。更に昭和
三年山崎直方博士の発表によれば明治二十七年に行はれた水
準測量を昭和二年の分と比較すれば頸城地塊は西端の糸魚川
では(一)五二ミリ沈降して居るが、東に進むに従つて次第に
隆起し、名立では最高に達し(十)二二ミリとなり、東端直江
津に至つて俄然沈降して(一)五三ミリとなり、此方面に於て
も地塊の傾動しつゝあることを示して居る。而して以上は何
れも緩慢なる地塊運動の総和であるが、一朝地震に際しては
急激に且大量の隆起現象を観ることは、上記の弘化断層及犀
口に於ける上中堰取入口の移動等に明かにされたのである。
七 結言
即以上を総括して弘化の地震は此西側日本海方面よりの圧
力が主動的で、頸城、水内、更級等の地塊が傾動したものと見
られる、換言すれば弘化の地震は従来形成された本地方の地
塊が、更に活動して山岳の生長を見るに至つたものと思はれ
る。然も当時経験された急性的な陸地変形と同性質のもの
が、古来継続したものと解し得たであろう。即ち日本の現在
の地形はこれらの急激隆起沈降の総和であると見られる。
擱筆するに当り今村明恒博士の懇切なる指導に対して♠に
感謝の意を表する。
参考文献
⑴ 今村明恒博士 地震及火山噴火に伴へる陸地変形、震
災予防調査会報告第二五号
⑵ 大森房吉博士 弘化四年三月二十四日善光寺大地震同
第六八号乙
⑶ 町田礼助 上水堰沿革史 同水利組合
川中島三堰は灌漑反別三千町歩にし、明治十一年明治天
皇北陸御巡幸に際し長野市大勧進に於て模型により楢崎
県令より奏聞した。
⑷ 善光寺平農業水利組合沿革史
⑸ 大森房吉博士 大正七年信州大町地方激震 震予報告
第九八号
⑹ 山峰直方博士 地塊の活傾動 地理学評論第四巻第五
号
⑺ 河原綱徳 虫倉日記 信濃教育会
⑻ 大日本地震資料 巻三 震災予防評議会
⑼ 今村明恒博士 本邦大地震年代表
第120図 犀川上中堰の取入口の変遷
(注、 『上水内郡地質誌』S33・八木貞助著・八木健三増補長野県水内教育会に掲載されている左記の図は、五節、六節の参考になる)