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項目 内容
ID J2000149
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔長野49号〕S48・5
本文
[未校訂](弘化四年善光寺地震の岩倉山崩について)高橋和太郎
(前略)
岩倉山の崩壊
 岩倉山は松代の西北十二㎞旧更級郡更府村字山平林にある
山である。岩倉山とは通称であって、虚空蔵山というのが本
当である。
 地震当時この山の西山麓にあった岩倉という部落の名称を
取って、虚空蔵山を岩倉山としたのであろう。この山現在は
標高七六四mである。善光寺地震前まではこの岩倉山の西麓
には岩倉と孫瀬の二部落があった。岩倉山崩れの後に出現し
た面積二万3mの湧池という池の名称をとって、この二部落を
併せて湧池と称して現在に至っているわけである。
 岩倉山の崩れた頂上の断層面は現在でもはっきりと見えて
いる。大方は雑木に覆われているが断層面の一部はよく判明
できる。地質的には水成岩に属する砂岩である。京大本間先
生調査による「中部日本の地質誌」による分類では第三紀層
中小川層の砂岩である。
 この砂岩層が岩倉山の頂上で東西の線に沿って真二つに割
れて、西下方に向って地辷りを起し、それが犀川まで押出
し、対岸の花倉部落の北方え突上げたわけである。
 ために岩倉山の山頂は標高は一〇m乃至二〇m位低くなっ
たであろうと想像される。この地辷り規模の状況断面は1図
の通りであったと思われる。犀川を堰止めた土石量は八百万
㎥と計算される。この地辷りの際岩倉部落にあった柿の木
が、対岸花倉部落にそのまま突上げて、最近までその柿の木
は花倉の北の山腹に残っていたが、近時伐られて株だけ残っ
ている。
 『むし倉日記』による堰止堤の大きさをメートルに換算し
て図面に示した犀川ダムの大きさは1図の通りである。犀川
河床からの高さ六五m、川の流れの方向に底巾で一〇〇〇m
上の巾で二〇m、堰止堤の横長は六五〇m、に及んだ、と考
えられる。この土石ダムが欠壊して一時に押出した時の水深
は六〇mである。欠壊はこのダムを水が乗越したのではなく、
高さ五m位を残して未だ水が乗越さない内に巨岩土石の間を
細流が滝となって流出し初め、それが次第に大きくなり遂に
一時に押出す結果となった事は報告記録でもよくわかる。
堰止堤の欠壊
 岩倉山崩による犀川堰止堤の高さは河床から約六五mで、
水深は六〇m位の処で欠壊して一時に押出した訳であるが、
当時松代藩の役人が何人も見分を行い、河原家老に報告し
ているのを見ると、大方の見方は、家の大きさ程もある巨岩
巨石が畳積しているのを見て、あれは一時に突破って押出
すとは考えられず、滝となって追々少しずつ流れ出すであろ
うという説が多数見分者の見方であった。然し佐久間象(修理)山だ
けは唯一人説を異にしていた。あれは一時に押出すと力説、
人力では及び兼ねるから地雷火を多く支掛けて早く水の流通
を計るべきが上策と報告している。然し費用を多く要するた
めに事止みとなった。
 綱徳も『むし倉日記』の中に「後にして思えば修理の説誠
によく当れり」と述べているあたり、さすが象山は当時の科
学者でもあったことがよくわかって興味が深い。
 やはり同じ地震で出現した、岩倉より上流旧信級村の柳久
保池は、周囲四㎞、深さ三五mもある湖で、現存している
が、この湖は地震後数年を要して満水したという程、流入河
川が少く小さい細流であったから、一時に押出すことはな
く、現在も細流が出ている位である。
 然しながら犀川本流の場合は柳久保池とは状況が異って、
大河である平時一秒間に一〇〇トン乃至一二〇トンの水が流
れているのである。高さ六〇m余の高低差を流れ落ちる勢は
直径一〇m位の岩石は吹き飛ばす程であったと思う。象山の
判断は誠に正しかったといってよい。
 欠壊は四月十三日午後四時頃で物すごい勢で欠壊したよう
である。天地をゆるがす鳴動は松代に居ても雷鳴の如く聞こ
えたと、記録されている。その激流が山峡から川中島平に出
る、小市においては水位二〇mに及んだという。平坦部に出
ては扇状に広がり、西側は小松原、布施高田、御幣川、を経
て横田に至り千曲川に入った。この時千曲川の水位は平水よ
り六m増水したという。
 夕暮近く松代より見渡した処、犀・千曲、両川の東西、北、
中野方面まで一円水充満して一大湖水の如く見えたという。
堰留湖の大きさ
 湛水の日数は旧暦の三月二十四日夜から翌四月十三日夕方
まで、十九日間である。堰止場所の水深六〇mに及んだ時の
上流の湖はどんな状況であったろうか。筆者は上流の各地の
古老を訪ねて、その時の水の来た場所をそれぞれ確めて見
た。信州新町の対岸旧牧郷村の竹房の高坂弾正氏(明三三年
生)の話では、この部落では一軒だけ浮上るのが助かったと
いう家を教えてもらったが、今も残っていて当時の浸水の跡
が壁にはっきり残っていた。この標高は四六五mにあたる。
 旧日原村の鹿道では宮崎芳文氏宅の庭先まで湛水面が来た
と、これは近隣の宮崎一氏(明三五年生)の話であるが、こ
の標高は四七三mとなっている。同じ旧日原村の日名部落で
は山岸文好氏(明三六年生)がこの部落の最も高い所にある
善竜寺の庭先まで湛水したという、この標高が四七五mにあ
たる。同村[置原|ちはら]ではやはりこの部落の最も高い所にある羽賀
康祐氏宅の床下まで水が来た由、隣家の高橋学氏(明三一年
生)が話してくれた。ここも標高四七五mにあたる。
 置原より上流の途中調査は確めにくかったが、最上流の湛
水地点である東筑摩郡生坂村の雲根では、吉沢寿治蔵氏(明
三六年生)の話によると、自宅の床下まで湛水したと、祖父
からはっきり聞いていた由、この家は国道十九号線が雲根部
落の中で峠になっている最も高い所である。この部落はやは
り大半浸水或いは浮上したわけである。この地点の標高は四
八〇mとなる。従って湛水の最上端は下生坂まで達したわけ
である。
 岩倉の湛水面と雲根の湛水面との落差は一五mあったわけ
である。通常急激に堰止められた大河の上流湛水湖の水面は
この位の落差はあるはずである。必ずしも水平ではない。
 以上の各点を基にして湛水湖岸線を入れた図面が2図であ
る。この面積は一七・五平方㎞となる、諏訪湖の一・二倍の
大きさの湖が出現したわけである。
 岩倉から下生坂まで河川延長で三二㎞に及んだのである。
山峡部に於ける平時犀川の河川勾配は約三〇〇分の一であ
る。つまり三〇〇mで一mの落差があるわけである。従って
岩倉と雲根との河川勾配差は約一〇〇mあるわけである。
『むし倉日記』にも見えているが、湛水の深さを新町辺で測
ろうとして繩に重しを付けて下げても底は流れが強くうまく
いかなかったと書いている。つまり湛水する様子は堰堤に向
って、水位はたたみ掛けるように或勾配を以て流れ押してい
るということである。
 今回の調査によりはっきりと、当時の湛水湖面は水平では
なく、三二㎞の距離の間で一五mの落差があったことがよく
わかった。
 参考のため現在の人造湖である水内ダムの上流湖面のこと
を聞いて見たが、平時で上流四㎞まで湛水面が行っている。
この落差は〇・六mある由、これは発電しているので流入量
と発電機を通る流出量とが同じ量の場合である。これでさえ
水平ではなく落差があるわけである。岩倉崩の場合は下流へ
一水も流出せずに溜り切りになっていたのであるから湖面に
第1図 岩倉山犀川横断図
犀川を堰止めた土砂堤断面図
この断面は「虫倉日記」の記載による寸法をメートル
にしたもので,欠壊時における最高水深は60mとなる。
相当の落差のあるのは当然である。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-1
ページ 805
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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