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項目 内容
ID J2000144
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔藤岡屋日記 十九〕東京都公文書館
本文
[未校訂](注、他出ある箇所は省略)
善光寺地震の落噺し
〽当春ハ諸商売共ニ殊之外ひまニ付取つゝき兼候ニ付地震共
大勢ひ集りて相談ニ及ひ候処一人の地震被申けるは
〽今度善光寺の開帳ハ諸国ゟ参詣多く大当りニて大金もうけ
致し候間何卒彼の如来ニ金子をねたり而ハいかゝと申けれ

〽皆々尤と存し右之内ニて四五人選遺し候ニ付善光寺ニ至り
阿弥陀仏ニまみへ金子千両むしん申ねたり候処如来大きに
迷惑致しいな〳〵断り金子三百両遣しかへしけるとそ
〽然ルニ地震ハ是を持帰り大勢の地震中へ右三百両出しける
に皆々申けるハ
〽此大勢の中へ三百両ニては中々たらす所詮三四人位行ては
埓明ず日本国中の地震残らす揃行て千両ねたるべしと相談
一決して善光寺へ参り大勢の地震共阿弥陀如来を中ニ取巻
て是非〳〵千両貰ひたしといたぶりければ善光寺如来の仰
ニは
〽そふゆすられては信州がたゝぬ
横山町二丁目
喜世留問屋 橋本吉之助
右老母善光寺参り致し候ニ付みせの若者廿二才ニ相成実躰ニ
相勤候ニ付初登りがてらニて右開帳之供を申付出入之鳶の者
を荷持し遣し候之処大地震の夜ニ善光寺ニ泊り合せ老母并ニ
若者も打殺さるゝ也、荷持ハやふ〳〵の事ニて逃出し候得共
主人を助る事も不叶翌日と成ても火事故ニ死骸一向わからす
無是非右之趣知らせながら江戸へ帰り来り右一件相知らせ亦
々大勢ニて信州迄尋ニ参り白骨を江戸迄持帰り五月十三日ニ
江戸ニて本式の葬送有之寺ハ浅草新堀はた永見寺也
右不思義なる事ニハ善光寺出立之前にいつの間ニやら自
分着類ニ残らす形見分の□を付てたんすへ入置しとなり
亦ハ大丸へ死装束を誂置て出立セし共云也
善光寺開帳之節大地震其夜藤屋平左衛門方ニ止宿致し候
江戸深川永代寺門前山口卜水母十三人連ニて参詣其夜不
思儀ニ命助りし次第
弘化四未年三月十日より信濃国善光寺□三尊之阿弥陀如来
開帳ニ付私事何卒存命の内是非〳〵参詣致度年来之願ひニ御
座候処同町ニ日頃懇意ニ致候□連三人有之私共四人外ニ粂蔵
と申者供ニ召連又同行之内親類京橋桶町ゟ連八人有之都合同
行十三人連ニて同月十五日出立致し、道中風雨なく道々の神
社仏閣を拝し同廿三日善光寺ふじや平左衛門方へ止宿致す、
其夜旅人五百人程も泊り之内なれハ廿四日ハ善光寺御堂ニ終
日伏拝ミはる〳〵参詣致し年来の心願相叶ふも全く如来の御
手引と難有御事ニ付誠ニ此世から極楽へ参り候こゝちニて威
儀をなし伏拝ミ候又廻檀めくり致し御地内悉く見物致し暮合
ニ宿へ帰り候処、其夜ハ旅人も大きニすきニ相成三百人程の
泊りと申事ニ候扨爰ニ難有御事は如来の御助ニや其夜宿ニて
申候ハ今宵ハ御客様もすきニ相成候間奥の別間へ御越被成候
得と申ニ付、則同断十三人右の別座敷へ引越申候処、其夜四ツ
時頃ニすさまじき音致し何事の出来致し候わんと仰天致し中
々地震とは不心付夜着を引かぶり候程の事ニて大地震と申ニ
付逃出候処、最早あたりの家ハ一面ニ潰レ私共泊り居候座敷
計残り居夫故ニ皆々逃出候得共勝手ハ不案内殊ニ廿四日闇の
夜ニ候得は逃出し候先は奥蔵の行留りゟ庭へ出跡よりハ潰れ
候家々火事と相成候事故八方ゟ類焼致し中々一命助り候とハ
夢〳〵存不申候処、不思儀や此蔵ニ階子の掛て有を見付召連
候粂蔵介抱致し呉蔵(ママ)の屋根へ私共を上け呉また〳〵蔵の向へ
階子を懸私共三人を下し候処潰家の家根へ下り候処ニ御武家
方十人居合共〳〵御介抱被下漸々之事ニて麦畑へ出、此夜ハ
爰ニ夜を明し同廿五日昼は地震強く八方出火致潰レ家の屋根
を越死人を越て漸々丹波川辺へ出大きなる百姓家一軒残り居
爰ニて一飯を貫ひ此処ニて連の者ニ引合互ニ涙なからに悦ひ
また同行の内三人見へ不申誠ニ〳〵心配致し候処又々丹波川
ニて連三人ニ引合漸々同行十三人無別条相揃車座ニなり有難
涙ニ呉ニ(ママ)けり、夫ゟ丹波川を渡り度存候処、此川上小市と申
処の山崩右の川へなだれ込丹波川ハ浅瀬ニ相成処の百姓衆申
候ニハ此川渡しきらずして水出候得は押なされ(ママ)一命無之由
申、渡呉不申跡ゟハ八方出火致誠ニ途方ニ暮漸く命限りニ丹
波川を越危き場所をのかれ勿論持参致し候荷ハ不残焼失致
候、誠ニ右之場所ニて一命を助かりし事全誰(唯)事ニあらず両三
人の同行すら怪我の無ハ稀なり、夫ニ十三人同行皆々無別条
事ハ偏ニ如来の御恵ミに預り有難仕合ニ感涙をなし候、同行
之者宅ゟ飛脚追々出し中々存命ニて帰り候とは夢〳〵家内之
者も不存候処同四月朔日目出度帰着仕り余り有難き御事又前
代未聞之事故子孫へ伝へ記し〓
山口ト水母
本郷春木町三丁目
松吉と申料理茶屋
家主七兵衛
尼母 ふミ
姪 よし
同処同丁五人組持店
薬種屋
太郎兵衛
母 まる
同処真光寺門前
家主ニて衣屋
真七妻
とく
右四人同道ニてふミ亡父為菩提之当三月十二日江戸出立同廿
日信州善光寺着甚妙坊江逗留致候所、同廿一日夜夢に善光寺
如来の霊前江花やかなる花類を相備有之ふミ亡父相顕れ如此
御花等相備ル上ハ最早外ニ用事も無之間早々帰府致し可申旨
亡父申也、夢覚右ニ付江戸之方気ニ懸り頻ニ帰府致度同行へ
相咄候処気ニ懸り候程之義も無之趣ニて止メ候者も有之候得
共不相止同廿二日朝同行一同出立致し、同夜坂木宿泊、同廿
三日小室(諸カ)江泊、同廿四日夜ハ初戸谷江泊り同処ニて彼地地震
之趣及承候由ニて、亡父之夢知らせを思ひ出し不思義ニ命助
りし事難有一同歓帰府致セしと也
古郷へかえる知らセのふミもよし
金も命もまるとくニなり
越後信州地震くどきやんれ節
〽天地サアてひらけてふしぎといふは近江水うミ駿河の冨士
ハわづか一夜ニ出来たといふが夫はさて置昔のことよ今度
ふしぎハ信州の地震。花の三月下旬の頃と廿四日の夜の五
ツ頃扨もあわれや地震の場処ハかミは飯山松本迄もあわれ
なるかやあまたの人が親も小諸(ママ)も皆打捨て。のぼる間もな
く上田の城下越後の辺迄五十里四方。まちも城下も只一面
ニ家はつぶれる大地もわれるどこもかしこも出火となれバ
焼る町家の其場処知れす夫をあら町尋て見れハゆるぐ地
震も長浜宿よ扨もあやうき水内の郡藪を目当ニあら柏原牟
礼野尻ハ越後路なれハ心関(カ)川なか山越て荒井こゝろももふ
叶ぬと神や仏ニ両手を合せ助けたまへや。神〳〵さまと老
し我身はいといハせぬがいとげなき子を助けてたべとさけ
ぶこへさへ高田ニひゞき渡るちくまの川中嶋よ。爰に飯山
御城下辺ハ前ハ川也後ろハ山よ、山は崩れる大地はわれる
水を吹上どろ一面ニ町も在郷も溜池のことく聞も恐しおと
さゝ山の麓辺ニて十二ケ村ハ。家も立木もかげかたちなく
しぶや田中に流れの身でも此や地震て潰れた身なりなんと
ミかわの万歳楽と。なミだ流して皆たおれふすヤンレイ
〽そこてサアて信濃之善光寺サマよ当時開帳其中なれバ諸国
近辺参詣の人よ。このや門前藤屋の宅へ旅宿致せし余多の
同行ここや内ニて千人計り。御堂へ籠りて談議の中で。ゆ
らり〳〵とゆすられ出し。夫に地震よ火事よと聞て見れハ
坊中一時ニ潰れ。水が出るやら火がもゆるやら。昼夜地震
の七日に七夜其や中ニて御地頭様は種々の御手当有之程
ニ。一家親るひ尋て見ても。とこにとうして居られるやら
と思ひあんじる心の内を。ほんニ聞くのもあわれな事よ。
夫ハさておき善光寺サマの表門ゟ半丁はなれ酒や裏ニて飛
脚の茂兵衛家内六人有其中ニ。老母一人乳のミがひとり外
ニ幼き子供か二人妻のおやすハ懐胎致し。最早お安もりん
月なるが地震あるとハ夢ニも知らす。夫茂兵衛ハ主人の用
で花の京へ飛脚ニござる。こゝや留守ニて驚く女房子供二
人を両手ニ引て腰の抜たる母親サマを。せなにおぶいて内
をバ出たがなにをいふにもりん月なれば。我身うごけず母
親様も。親子五人を助けてたべと。なげく間もなくあわれ
なさいご是を夫の茂兵衛ハきいて男ながらもなげくハ道理
中でぶなんの其人々ハ古木あつめて仮家を作りせまき住居
て雨風しのぐ其や内ニて御堂ハ残り。誠ふしぎや三国一の
如来様かとよろこぶ同断こ(ママ)のや御堂へ籠れる人ニ怪我のな
いのハ是御利益ぞ。こゝやあすこの怪我人なるハ是も此世
の自業と自得さてもあわれな事さヤンレイ
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-1
ページ 795
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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