Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2000091
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔弘化大地震見聞記〕川中島町昭和小学校文書長野県史刊行会収集史料
本文
[未校訂]大地震見聞記之事ハ我見聞と災難に逢し大略を記スのミ余人
之大難に逢し事ハ区々の沙汰なれハ記しかたしミる人変災の
相違をいふかり給ふ事なかれ所により場により大同小異あれ
共災難に逢し一条は大概如是ならんを志かいふ
小森新隠者
済翠主人志るす
大地震始終をたつぬるに弘化四年丁未三月廿四日之夜四ツ時
村内人未寝隣家有話声今夕は浄土真宗にて中興蓮如上人御正
月之迨夜諸人有縁之寺々江参詣致し我等茂可参詣之処両家共
無人ニて弟のミ参り申し両家之留主居旁未寝家内は着寝弟之
方同居之老婆壱人残り居既ニ難寝難眠其時忽聞西北之方ゟ鳴
動し来るをこは如何也事にやと驚愕し起座一心正念称名三昧
に堅身候暗々思ふに大地震なる事を屋傾頽瓦落手習児童机按
一時ニ散乱し東西南北鳴動之声は地に響き村内家之倒潰るゝ
音如破竹生し心地もせさりけり身欲起ントて起る事不能傍
に臥居家内之者如何ぞと呼起せしに一心死を覚悟して寝所を
不出震動も少しく静りける間漸々立あかり徐歩し出けるに戸
障子襖四方江散乱し門前之□水溢上り庭前江流来り立帰り先
灯を照し屋敷外回り見けるに居家已前之儘成事を悦び家内之
者呼出し本宅留主居老婆諸共囿中見回り西北之方見渡せハ北
は善光寺四ケ所飯山辺北山中弐ケ所西は新町辺ゟ中山中辺弐
ケ所或瀬原田村志のゝ井村稲荷山都合十三ケ所一時ニ火之手
揚天を焼勢ひ白昼に不異追々村内之者提灯を照し所々聞人語
土地神江参詣す扨ハ先に破竹之如き音のせしハ居家之潰る音
なりと先土地神江参詣せしに拝殿散々潰屋根斗ニ相成人々打
寄産神之身代りに立□給ふを恐悦ノ心持しぬ人命之無事成を
悦び村内之様子聞正しけるに名主駒之介処持之水車家潰れ外
ハ栄助塀物置吉郎左衛門土蔵之屋祢友之介土蔵屋根尼何某之
居家要八土蔵廂其外少々宛ハ壁落塀之倒レ許多なるハ不尽数
然共震動未静間心中不平庭中江床を志つらひ東方之白を今や
と相待けるかゝる折しも壱人呼小子者あり誰なるらんと近寄
ミれハ小島田村入西寺是ハ我妻之伯父にありける儘互に命之
無恙を悦ひ此変災之中早々訪ひ賜ふるを謝しけるに伯父法印
之曰く我早々来るハ不審之事を告るか為なり事村内之者の謂
るハ先刻之震動にて西山崩落犀川水堪て一滴も不流今ニも溢
来らハ此上溺死せんも図かたし早々立逃へしとて当村之老弱
女子ハ東山辺迄或小高き所江走集り居る此事不審なき共覚束
なきハ夜半頃ゟ一時ニ水之流泊りけるハ怪敷儘我等も外(ママ)去是
迄来れるなり如何被思哉と被申儘門前之小渓江至り見れハ水
一滴も無之然れハ西山之崩疑なしと荊妻ハ彼伯父法印江頼岩
野村を早々逃去へしと両人諸共東方之明る頃立去せ勢我等も
追々立去へしと家財衣筐不残取納けるに此時刻も善光寺稲荷
辺ハ燃上り火勢尚盛ニミへける夜九ツ時頃瀬原田村之変災事
細に相聞候追々所々之村之潰死亡之事松代江訴出者櫛之歯を
ひく如し先弟之義は翌廿五日昼九ツ頃西方御幣川村縁者始と
して志のゝ井瀬原田稲荷山江安否見舞ニ遣し両家ニ我等壱人
留主居にて家財取納岩野村へ親類市郎太方江大半送り届其夜
は我家を捨て市郎太方江逃去止宿頼ける追々縁者之人も寄集
り今や水来ん事を愁ひ夜之眼も不合居ける廿六日昼時松代ゟ
御家老恩田頼母様始とし諸御奉行諸御役人早打にて犀川水泊
り場所御見分あり川中島水ふせき御普請はしまる廿六日帰村
にて様子窺見ける村内之者も所々江散乱し爰かしこに壱両人
宛残り居西山中辺之大変災取沙汰区々相聞ける中ニ山中岩倉
村虚空蔵山大崩にて犀川江崩落彼大川泊切相成水湛り之説追
々松代江訴出る川中島は地震ニて潰或出火にて死亡之上又々
水難之愁眼之当り如何相成哉と人々心も散乱しける儘寝食も
不通愁ひ居ける無勿躰も善光寺如来様御立のき松代拾万石之
御領主様も桜之御馬場江小屋住昼夜受難被為在御家中諸士は
勿論下は我々ニ至迄上下之無差別非人同前之躰或ハ野ニ臥或
山に臥眼も当られぬ有様なり善光寺ハ後町ゟ上御堂山門之外
ハ不残焼失死亡幾千人哉不数知飯山辺之変災尤大成事と聞及
し未見間虚実さだかならす川中島は往来ゟ東之方ハ格別之潰
もなく死亡も稀成由松代ハ中町辺ゟ伊勢町かし町其外殿町辺
御家中大半潰れ死亡は是も纔之由旅人之義ハ余程死亡之取沙
汰善光寺往来ゟ西は南原北原ひかの辺ゟ高田御弊川辺ゟ西村
々潰志のゝ井大潰にて死亡之者も許多なり其内稲荷山宿ハ潰
にて出火致し死亡七百余人と申し西方村々寺院潰死亡もいく
ばくか予ハ聞見の儘を記し置瀬原田村七十余人小松原村は八
十人余夫ゟ山中辺ハ細に印しかたし笹平村不残潰四十弐人死
就中岩倉村ハ不残潰死其外ハ幾百人哉細ニ記しかたし虚空蔵
山のけ落にて廿七日新町村江水溢れ水内橋落犀川両岸村々潰
死之上溺死今十四日迄之中水湛り逆水して松本領境を凡七里
程犀川水湛り川中島ハ干潟と相成居事廿日と一夜也然る間人
々此度ハ水に恐れ居家を捨て東は大室山辺ゟ川田辺ゟ下山々
北は善光寺之北小高き辺南は岩野清野辺之山々土口生萱辺西
は岡田山辺石川山辺江不残小屋住居水を恐れ地震を恐れ人々
生し心地もせさりけり然共松代ゟハ恩田様御始として諸御役
人方陣鐘陣大皷にて日々御出馬或野陣にて諸々村々ゟ人足被
召出犀川水除御普請小市村之上舟場之辺ゟ川中島之用水之辺
高土手構数千之人歩にて昼夜御普請御懈怠なく陣鐘皷等御持
申し実ニ陣中之有様ニ不異然共廿日も留り居事なれハ人々或
ハ恐れ或ハ安心一様ならす既ニ御普請ニ付大丈夫なる者ハ耕
作こそ大切なれと申者あり虚弱なる者ハ今や水来らハ難逃去
と申者あり御上にても日数の積るに随ひ御普請も思し儘ニ御
出来ニ付若輩大丈夫成農人ハ先々村方江立戻り耕作致スへし
との御触たし故老弱女子山々小屋に差置帰村にて専ら農業励
ミける中には不安心之者ニハ村役人立添岩倉山切所見究も可
致との御下知故我等も三十日ニハ村役人金三郎忠左衛門久右
衛門其外藤十郎角右衛門米八なり同道にて到りける先布施高田ゟ五明
村有旅坂にて一見しけるに所々村々の潰哀を増のミ有旅村ゟ
真新田村ゟ虚空蔵山之東之方之崩落にて眼を驚かし向之方見
渡ハ上尾村水内村三水村ゟ下ハ湖水と相成新町辺ゟ上迄壱里
余一面に相見へ両岸には村々之潰家水に溢流寄木の葉を散し
如く或ハ湖水に漁舟の浮む如く[歎|ナゲキ]ても余りある有様なり夫ゟ道の志るへを聞伝へ虚空蔵山之南之方へ趣けるに其辺村々老
若男女或愁歎の色を阿らハれ衣筐飯籠背負立逃有様或人気逆
上り恐敷顔色の者阿り筆記ニも難相成躰人々虚言雑話も自ら
止ぬる斗漸にして犀川泊切場江到り東之方虚空蔵山見上れハ
三十丁斗崩落西の方水内之下にて高き山江突し村向の方山諸
共崩落拾丁斗之はゞにて岩倉村は不残犀川之中江崩落委細ハ
図にて志るし置左之通り
右図之通り我等水際にて写来り村役元江遣し置大方如此夫よ
り岩倉村崩落之辺にて暫く彳既に帰来んとせしに崩落様子聢
と見究之事なれハ此儘先之路帰り来らんも無本意と静〳〵と
たどり行先若男年廿五六歳成人柄之能男之人是ゟ先ハ岩倉村
死人多くして路も忘れ兼可申と謂し故何卒案内して被下べし
犀川通りにて帰り度由申し候得はさあらハ案内可申我等に随
ひ給ひとて先達にて漸々安庭村ゟ出けるに誠壱人も顔色青さ
めさるハなし此人之名前を問ば安庭村和吉忰健平と申と答ふ
同人謝し村はつれ之山際にて昼飯給夫ゟ犀川干潟之中下り来
ル路虚空蔵山北之方崩落の下にて休らひ崩落図に志るす川筋
に随ひ笹平村に着ぬれハ村ハ不残潰死人多し前に志るす右村
を過而小市村之上マガミ是は犀川三番目の崩落此処御普請所
なりマカミノ上の路家二三軒潰有此下犀川の中に不思議成場
所有り川はゝより十弐三間程水溜にて水中に七八尺或二三尺
位水湧出るあり川一面水音して湧上る立留り居けるに湯気鼻
を通しけれハ川端にて岩の間湧出る中江手を指入けるに温成
気も無之たゝさハ〳〵と湧かへる怪事にや有とて早々マガミ
ノ崩所江往けるに上ハ見上る斗の岩崩かゝり下ハ犀川の水溜
り誠恐敷事共にて漸々小市村之舟場江着舟番所ハ申ニ不及舟
もくたけて崩山之中程にあり犀川南之方へ渡り小松原村上茶
屋十五六軒潰れ其辺江大土手御普請所なり夫より四ツ屋村酒
屋を尋ね皆々無事なるを悦ひ一杯酌かハし日暮て帰村せし也
かくて後ハ十余日之間最早水見究来りけるまま、衣筐大半岩
野村より持帰り居家に住けれ共鳴動未止折々驚て庭中江も出
けるなり日数重り思けるハ此度之御変容易ならさる事なれハ
川中島江水溢ける共弐三尺位上ハ当村辺江上ハをし上水成ら
んと家財の用意も油断し若大地震或大雨にて異変阿る時は御
領主様御始松代之御城に被成御座候事不能ハ我等ハ物之数な
らすと落附顔にて既に十一日過帰村致し居ける十一日江戸表
弟文蔵事此度之変災江戸表へ三月廿七日相聞へ区々之説話に
て心不平なれハ国元之様子如何成らんと取物も取不合四月七
日出立し十一日暮に我等宅江着致しけれ共九日ゟ之大雨ニ而
岩野村逃去ける跡なれハ弟虎吉尋候而夜五ツ頃市郎太宅江来
り兄弟諸共無事なるを悦合ける十二日ハ市郎太宅江迎ひニ到
り昼時我宅江連来諸々評義致し其夜ハ諸共仮住居之中に臥け
り十三日隣家ゟ遠路尋来心切を感し人々酒食齎し訪来り一日
酒興ニ入廿日斗之愁傷も忘れ居けるに八ツ時過頃ゟ又々鳴動
西山鳴渡る怪今日ハ異変やあらんと思ふ折節七ツ頃市郎太騒
来扨々皆々ハ心得違之事哉廿五日ゟ此水騒にて我等宅江来り
今日ニ相成落付居けるハ何事そや阿の鳴音ハ耳に不入哉とわ
めき来る我等も不審ニハ思ひけれ共弟事[真上野|マガミノ]御普請ニも候
得は帰りを待居なりと申ハ今日ハ迚茂大騒成間用意しと被進
ける儘夕飯も急半給居候処へ米八宅之屋根に升り居最早水見
へける間人々逃去へしと大音に呼立ける儘すハやと椽の柱に
抱上り西北之方を見けるに北原ゟ西原の間一面ニ大波夏の雲
起る如く見へけるに驚き食餌も給かけ逃用意致しける荊妻ハ
先に村前之舟に乗へしと下知シ弟文蔵両人ニて取かた付虎吉
之帰り今や遅しと待けるうち片息に走帰る早々言語もなく舟
渡之方へ走行舟渡り安堵致し跡ゟ来れる人々の差図して市郎
太宅之裏之小家之屋根へ上り見居り節既に黄昏なり此節当村
之方へ水煙りたちて溢流来る音山之崩る如きなれハ迚茂村中
ハ不残流けんと一同申合岩野村も危く見へける儘妻女山ゟ赤
坂山江立退く六ツ時頃大菊車屋居宅土蔵一時に崩流音如破竹
聞えけれハ今や村中一同に流(る)らんと気も心も消入斗見つめ居
る松代御城之方を見渡せハ御城内ハ燈灯一遍に照し既に御城
御立退も阿る斗の風情此時節山寺様早馬にて赤坂渡し場江御
出土手之辺にてかゝり火為焼追々逃来る者舟渡し助へしと御
下知なり然る処水は増々盛にして危かりけれハいさ御引取可
有と告る者あり渡舟之者も無之間早々御城へ御引取被成候由
夜四ツ頃ゟ水乍忽落けり其夜ハ妻女山にて立の儘夜の明るを
今や遅しと待けり実に恐しかりし事共也是ゟ水難之一件ハ別
に志るす
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-1
ページ 442
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 川中島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.008秒