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項目 内容
ID J2000090
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔弘化四丁未年五月善光寺地震見聞図絵〕 大日方健氏所蔵
本文
[未校訂]絵図之内壱弐之印は多くいたミ候處之印
黒筋郡境 朱筋道 印壱軒ニ而壱ケ村
弘化四丁未年五月写之
善光寺大地震図絵
れゆくもあり変中の変信しかたしといへとも君子をも欺く
へし天災なしとも決しかたけれは家族の面色なさをとり鎮
めしはらく虚実の決断を待つかくて時うつりゆけは跡かた
もなき妄言なりけり信州の変に十死を出て遁れ来るもの多
しまたその難に横死せるもの高田にも多し藩は鴇田金次郎
その□二三輩善光寺詣の途中牟礼宿にて此変有鴇田氏旅亭
を出んとする時ゆり倒す柱に眉間をうたれそのまゝ即死す
抑此度の変信州に比すれは高田は軽し御城並御門詰所破損
あれともひた潰れたるはなし藩中諸士足軽に至る迄半潰大
破小破の不同あれとも是またひた潰れなるはなし町家も凡
藩中に同しその中に御フるむし木戸際の町家一軒中屋敷町
直江町四五軒ひた潰れあれとも是はもとより破損の家なれ
はなるべしされと藩中町方とも人命に恙なし郷中大谷山ぬ
け死人多し田井高野川流間町此辺高田よりゆれ強く一村半
はひた潰れあるは半潰れ死人もありとそ猶委しくは下に記
すべし未の刻はかり主水長屋仮屋より火をあけし近隣打寄
とり鎮めぬ
廿七日 快天時々小ゆりあれともさまでの事もなし人々日覆
露覆のみかりそめに造り立たる仮屋にかさなり伏たるいふ
せくもいたましくも譬んに物なし此日一丁通しあり書記左
の如し
此節居宅仮小屋共火の本別て念入候様可被致也且盗賊入
込候哉も難斗候条面々屋敷昼夜共無油断心付可被申候怪
敷者も候はゝ早速取捕其筋へ可被申達候且又此節の変事
に付彼是雑説有之騒々敷候哉にも相聞以の外に候条右等
の処も心付可被申之
廿八日 暁南風しはらく吹止む今朝もまた快天終日小ゆりあ
れとも記るすに足らず或人云妙(ママ)香山飯綱山黒姫山鳴動新井
駅迄其音聞ゆと居多辺裏山もまた鳴動す信州丹波嶋川水一
滴もなしいかさま此川筋上流に山崩して堰留たるならんと
その下流をうける松本松代飯山辺人心安からす此湛水一時
に来らは防くに術ならん事をはかり山手のかたへ遁れ行国
侯丹波島往来の旅人を危み当所を構へて往来をとゝむ侯も
また山手の方に野陳を張って不時の難を避んと構ふる
廿九日 暁二三度中ゆりあり半晴半曇朝ゟむせ暑し抑廿五日
ゟ今日迄昼夜とも空近く覚ふけふはとり已時空あひ烈し午
の刻また大ゆれす畑中砂水をふき出す事前のことくはしめ
大ゆれの後井水砂をふき出し水一滴もなし近隣皆同し聊か
水あるも濁水にして呑事あたはす予は外井戸濁水となれと
も砂なし二三日を経て半清水となる飲水に足らすといへど
も雑水の用に便すけふの大ゆれにまた濁水となりぬ山内氏
の井水此難なしすへて川原町辺大概井水の難あり余は井水
の難を聞かす近隣もよりあしきは川水を汲んて飲水とす酉
の刻また大ゆれ西山鳴動夥し終夜中ゆれ暫時も止ます此夜
家々戸々片時もいぬるものなし一旦活路を得しも今またこ
ゝに天地渾沌の時にあへるよと衆心死を決するに至る寅の
中刻地鳴して雨ふる卯の刻大風雨此夜一丁通しあり
 此度の地震に付居宅及大破難致住居仮小屋手充不行届候
面々急雨の節居所無之候はゝ大手前稽古場并在番長屋の
内にて入込御貸被成候間妻子召連勝手次第可被罷越候
以上
右の通御当番ゟ御通に付御通達申候
三月廿九日御目付中
晦日 前夜終夜のゆれ時々山鳴にて衆人面色なき折ふし大風
雨夜あくれとなおやます仮[初|そめ]に造りなせる小屋に大雨もり
滴り床上川の如し小家うちに傘さしかけて凌くといへとも
堪へかたし此節衆心おのか家屋に入るをさなから虎穴に入
る思ひをなせは居宅へ入らんもまた覚束なしとかくするう
ち空腹また堪へかたくせむかたなくて居宅の端近に立入朝
飯たふへて聊か空腹を凌く雨なおやますいかんともせむか
たなけれは町家出入のものを雇ひ六尺九尺の小屋に縮めて
たゝおの〳〵膝入るゝ斗りに此急難を凌く雇人の云僕きの
ふより終夜おのか小屋の雨凌かんと夜明るまてひたさわき
に狂ひまはりて夜明ぬれは眩暉して人事を考へさるに至る
よく〳〵思惟すれは前日より終夜食事をわすれて空腹に堪
へかねたるなりけりされはいま食事して参りたりと此節の
衆心実さもありなん巳の刻はかり雨やみぬ
前夜の荒れに妙(ママ)光山雪ふりぬいと寒し終日小ゆれ七八度斗
り覚ゆすへてきのふの大ゆれに藩中町家とも半潰多し町家
なとは傾きかゝる家を起し土蔵なんとつくろいかけたるも
皆むだ事となしぬ凡両度の地震にいたまぬ土蔵はなしま
して酒造家なとはゆりこぼす酒夥しされとも六尺をゆり倒
したる市中にはなし郷中には皆ゆり倒したるも多し直江津
両度の地震高田に比すれば尤劇しく潰れ家二百軒に過たり
されとも死人はいまた聞かす御蔵不残大破初度の大ゆれに
翌廿五日朝町主役竹田太夫領奉行杉村武兵衛御預所支配中
村九郎左衛門おの〳〵馬上にて今町へ出張新川端町尤地裂
夥し婦人一人盲人壱人地裂の中へ陥り這上らんとすれとも
砂かけ落て上り得さるをまたふき出せる砂水と共に両人を
地上へ吹き上けふしきに危難を免れたる出丸御蔵きのふの
地震に大破損御堀端の御蔵米堀中へ陥る事弐百表斗り地震
以来むく鳥夥し夜に入ても啼くその声耳たちて物凄し一丁
通し有書記左の如し
此節度々の地震に付各々虚説申触の向も有之哉に相聞以
の外に候条右等の風説決て信用被致間敷く全く虚に乗し
証拠も無之儀を申出し人気を騒かし変事中不埓の至にて
右躰跡方も無之虚説を申触候者は其本聞届速に差押候様
役筋へ急度申渡置候間此段可被致承知且下人等へも心得
違無之様厳敷可被申付候
四月朔日 半晴半曇けふも小ゆり折々あり先夜の雨漏りに懲
りて家々戸々なへて小屋かけかゆるそのうへ大ゆれたひ重
れはいつ果つへきや天変人智の及ふ所ならすもかりそめに
造り立たる竹からみの小屋とりこほちほり立柱にぬまぶき
屋根弐間九尺或は弐間三間おの〳〵家族の多少に従ひ数日
もこゝに凌んと構ふされは繩竹板木葭簀茅簀なんと伝てあ
しきは求め得る事難くわけてぬまふき蒿近郷に絶果たり酉
の刻過る斗り東の方近郷に螺貝ふき立鐘うち鳴らすすへて
此国郷中の風俗火災ある時は鐘うちならし夜盗あるひは臨
時の変に螺貝鐘うち交とてその変を伝ふ螺貝鐘うち交るは
火災ならす盗賊ならは時刻もあるへきにいふかしと近隣衆
誠決しかたきに螺鐘の音は漸々にひろこりて数ケ村に伝ひ
その珍しき事いふもさら也元亀天正の軍物語りさへ思ひ出
られ今や矢砲飛ひ来り白刃ひらめき出んかと疑るしはらく
ありてある人云賊数十人党して豪家〳〵に押入り財を奪ふ
そかために備ひをもふくと稲田橋詰に市中の長吏共とり固
め近辺の辻々階子を以て往来を遮ると夜あけてきけは酔客
壱人怪しけなるを野田村辺にて捕ふるより事興れりとそさ
きつ日津波の妄言にも悟らすかゝる変中一太虚を吼へ万丈
雷同する世の通情にくむへし
二日 快天南気むせ暑し昼にゆり六七度夜亥の刻一度寅の下
刻一度あり地震以来けふに至る迄諸商人壱人も来らす夜に
入また快天いと寒し壱丁通しあり書記左のことし
此度両日の地震に付一統難渋にて有之候得共御時節柄差
当り取斗置候間先づ一ケ月諸上納の分手寄にて拝借相願
御貸と成候間難渋の面々は明後四日五日両日の内勝手次
第御勘定所へ罷出受取可被申候尤上納の儀は月々諸上納
の外拾六ケ月割合を以当月御扶持方ゟ可被相納候
御目附中
右の通御大中老中御達有之候に付御通達申候
三日 快天昼地震なし夜小ゆり両度扨も大雨後膝入るゝ斗り
に取縮めたる仮家に家族八人住むへき様もなけれとも同し
仮屋造らんに便利なる事もあらんときのふ迄は思ひ居たれ
ともさせる工夫もあらねはたゝ気鬱を凌ん料小人並みより
高くほりたて柱ぬまふき小屋造らんと近郷知己の農家へぬ
まをたのみ東西九尺南北三間余に造りぬ通例転し根太なれ
と入梅の節近けれは湿気凌かん料に小壱尺ほと根太はりあ
けぬ雇人四五人申の刻はかり造り終りぬ昨夜迄一丁互に夜
廻り終夜一同いぬる人なし今四日より一同申合せ一時三人
斗にて夜廻りあり未の刻別役両人来る時節柄火の本別て入
念可被致様御当番より被仰出候趣演説す尤藩中一同廻る藩
中両度の地震に半潰れ家たもち難く追々取壊門家数多し初
度の地震稲田町尤劇し潰れ家四五軒あり野田村辺潰家多し
裏川原町表川原町居屋敷椽下或は築地地裂多し川原町御堀
際御長屋一棟椽下地裂夥しはしめにしるすへきを書落しぬ
れはこゝに記す
四日 朝快天昼前むし暑く昼後薄曇り申の下刻小ゆれ夜亥の
刻中ゆれあり藩中仮小屋手宛もなり難き貧家へ御上よりぬ
まを給る市の橋外舛形へ御使者請の仮屋懸り此節備後守様
御通行あるよし
五日 朝曇午の刻大南風夕方雨少し降夜に入り大風寅の刻風
やみ大雨廿九日のことし家々その備ありといへとも猶手薄
なる小屋雨もりに凌かねたる多し此度は予の小屋雨もり少
しもなしけふは小ゆれあるかなきかのことし
六日 雨霽れす巳の刻過霽る午の刻中ゆれ夜に入両度小ゆれ
きのふよりの雨にまた〳〵小屋造り替多し凡是迄藩中町家
とも小屋かけ直し三四度に至らさるはなし中には五六度に
至るもあり山岸半十郎藤屋市郎右衛門天満屋小兵衛三家米五拾俵
つゝ百五十俵町家の貧家へ救米出す一家壱斗つゝにあ
たる
よし
七日 快天小ゆれ両三度あり
八日 薄曇むせあつし未の刻過小ゆれありさきつ日加州大聖
寺松平備後守様御通行あるへきに高田表此変ありて御止宿
を危ふみ給ひ彼御止宿梶屋敷迄しはらく差留の使者として
小川弥助を遣さるされとも少しもおたやみあらは通行あり
たきよし度々彼使者まいる此方よりもまた御使者として山
川氏廿九日大ゆれの中より出立西浜辺山崩れ往来なり難き
所海上磯乗して往来す此頃させる大ゆりもなけれは今宵備
後守様高田加賀屋へ御止宿あり加賀屋裏の方弐間弐間の仮
屋弐つ造らる市中傾き家修覆家々戸々夥し子の刻過大雨
九日 終日雨夜に入両三度小ゆれあり夜山鳴両三度
十日 朝雨辰の刻小ゆれ巳の下刻西風を催す午の刻中ゆれ夫
より西風募る午の下刻稀なる大風手弱なり仮屋吹き倒すも
あり雨交り也暮頃少し風やむ夜に入りまた大風沖の方海の
音冷し十月頃のことし暁風やむ
十一日 快天市中商売すへくまた火焚くへしとの触あり銭湯
朝五つゟ夕七つ時迄いたすへきとの触あり未の刻酉の刻両
度小ゆれあり此頃魚類多く価安し
十二日 卯の刻はかり中ゆれ南風催しむせ暑し海岸防禦御備
として一統陳羽織野袴陳笠用意あるへきとの命あり藩中一
統破損見分あり
十三日 終日雨夕方大雨夜両三度小ゆれ一丁通しあり
此度の変事に付御用意の鍬(ママ)御上御入用を除き余斗の分御
家中下々迄御貸付に相成候様致度候得共何分員数少く一
統へ平等に行渡り不申候間其儀成兼候故御払立に相成候
に付入用の面々は御普請方へ申談相調可被申候
右の通両御当番御達に付御通達申候
御目付中
十四日 朝曇巳の刻快晴午の下刻中ゆれ夜に入り小ゆれ有
十五日 快天信州いまた日々大ゆれあり飯山なと一日十八九
度もゆれありとそこなたは此頃あるかなきかのことし信州
犀川の湛へ水十三日夜一時に流る下流所々死人多し
十六日 快天戌の刻小雨丑の中刻小ゆれあり
十七日 朝快天小ゆれあり午の中刻雷鳴未申山手かたより夥
しき雲立して東方へ流る夜に入稀なる快晴地震後日々晴雨
のあらましをしるすといへとも是とて空合すへて空近く晴
雨にかゝわらす空合あしく終日終夜暫時に変動あり北国例
年弥生半迄季候定らす夘月をもて他邦の春となすされは一
とせの内此月をもて季候一定最第一とする折から此天変に
季候を奪はる
十八日 快晴空高く此頃になき空色也きのふの雷後難波山下
差わたし壱寸余もの大(ママ)霏ふる善光寺大雨後霏壱寸斗りふる
よしけふは空色もよし日中ゆり少しもなく衆心ちと安し寅
の刻過る斗りまた中ゆれあり
十九日 快晴夜南風すこしふく
廿日 快天井さらひす吹あけ砂夥しく井水いかにやと思ひの
外はや夕方半清翌日清水もとのことし近隣所々井さらひあ
りはしめ大ゆれより十日も満たず近隣井さらひするものあ
れとも地脈定らすあるひはぬけ落ちあるひは砂石を吹きあ
けみなむだ事になりぬ此頃は地脈も漸々古に復するなるへ
し夜戌の刻小ゆれあり
廿一日 曇午後快天南気を催す暑し夜小ゆれあり此節嶋原一
揆の説あり虚実わからす
廿二日 朝快辰の刻曇午の刻過晴れる江戸表より御普請役参
らる横町に止宿近辺遠慮あるへき様御触有
三月廿四日夜四ツ時高田表大地震に付御足軽寺内米三郎
と申者三日切御飛脚被仰付廿五日未刻出立信州吉田と申
所にて往来差支一日滞留に付廿九日未刻江戸着右の者道
中見聞の説当人ゟ書出しの写
三月廿五日 未下刻高田出立茶屋町橋際損し馬足立不申候新
井駅無難二本木松崎両駅にて拾軒斗り潰村々弐三軒斗り潰
る関山宿四五軒潰二俣宿二三軒潰大日切坂大損し山少し崩
馬足立不申候田切宿坂損し関川御関所石垣崩御橋損し野尻
宿拾四五軒程も無難其外不残潰此間の村々少し潰柏原村四
五軒無難余不残潰古間宿四五軒無難余皆潰小山宿松の木枝
ともに折其外根こきにて倒れし木も有之小山村皆潰牟礼宿
皆潰半焼失平井村少し吉田村山崩にて家数四拾軒斗り土中
に埋む此辺村々潰新町宿少し無難宿外迄焼失善光寺本堂山
門無難宿端四拾軒程潰残り其外宿場町家共焼失諸国参詣の
人数多死亡の蹲御座候丹波島川上山崩に付水少しも流不申
候右に付今にも致出水候哉不安心に付水下の村々不残山々
へ逃登り小屋掛致し罷在候丹波島宿四五軒潰丹波島ゟ(の井カ)篠根
追分迄の間村々少々潰篠根追分不残矢代川端大割矢代川船
渡無難矢代宿七八軒潰戸倉宿無難寂莫(蒔)村無難横吹山崩に付
下道通行逆(坂)木宿無難塩尻岩山崩にて田畔道通行上田御城石
垣崩候噂承に其外宿々無難小諸にて松代様御飛脚ゟ承には
御家中并町家共七分通潰れ候様飯山様御家中并町家不残潰
其上焼失の由候様承候右所々道筋大割にて所々相見申候事
三月
竹屋平馬組
寺内米三郎
三月廿四日 夜四ツ時大地震にて当御預所大谷村地内蛇崩れ
山と唱候山地震と等敷崩れ落各山下に有之田端共一同押出
し百姓家土冠に相成拾五軒皆潰弐軒半潰右家内の者共五拾
九人男三十弐人女廿七人死亡致候右の内無難家の者潰家の方へ罷越
居不幸の死致候者又は潰家家内の者幸他家へ罷越居助命の
者有之見聞いたし候分左の通
一百姓小左衛門と申者居宅は地震と一同に土冠に相成皆潰
家内不残相果るゝに内同人娘当未九歳に相成候者庄屋茂
左衛門居宅は余程離居候所各方迄土に押送られ椽の下へ
押込れ候処茂左衛門居宅半潰右娘の押込れ候方格別の儀
無之助合也
一同六右衛門と申者妻同村百姓伝蔵方に風呂立罷越居候処
地震にて六右衛門は裸の儘表へ還(ママ)出山崩土押来肥〓の間
へ押込られ候儘押出され助る女房は伝蔵方にて死亡
一同清右衛門と申者家内一同臥居候処夥敷音に目覚候得共
居宅は押潰され壁外へ転び出居家内一同助命娘一人死
一同権六と申者居宅は土冠に成候得共其節弟七蔵倶々村内
伝蔵方へ湯に罷越居助命
一同重左衛門と申者同村三右衛門方より女房一同帰宅女房
は児を背負入口に罷在重左衛門は室へ入候処地震と等敷
家内ゟ欅の木突出て右木に衣類からまり裸に相成候儘家
内皆々引立裏口ゟ直に小山へ逃上り助命
一同伊右衛門儀は潰家下に成り候得共土冠薄く泣声を聞助
右衛門と申者参り掘出し助命
一同九兵衛と申者同断翌廿五日昼過冠り土掘り除け助命
一庄屋茂左衛門居宅崩土押来り半潰其節茂左衛門外弐人周
章表へ逃出土に打れ死す其外家内に罷在候者無難
一百姓四郎左衛門居宅土冠り潰れ家に成り家内不残死去内
忰源蔵歳四歳如何致候哉重左衛門と申者の屋根棟の所へ
刎上られ居助命
廿三日 朝曇昼後快晴辰の刻小ゆれ夜両三度小ゆれ
廿四日 快天一両日暑し単物着用昨夜の地震片町辺強く潰家
もあるよし此頃させる大ゆりもなければ何となく衆心安く
市中の商家店出し夜のみ仮屋に臥す藩中にもまれ〳〵日中
家室に入るものあり予も仮屋のいふせさに日中家室の端近
に入らんとけふは人を雇ひ家室とりかたつけ煤払ひす初度
の大ゆれ先月の今宵なれば衆心何となくその構へあり果し
て午の刻大ゆれ廿九日以来の大ゆれ也此時薄曇空あひ烈し
く午の下刻また中ゆれあり
廿五日 朝曇南風雨交り巳の刻大風小ゆれあり午の下刻風い
やまし申の刻雨になる夜に入雨やみまた大風戌の刻また大
ゆれうちつゞき二三両(日カ)中ゆれあり亥の下刻風やみ大雨丑の
刻に至雨はれる夜あけ迄折々山鳴動中ゆれ折々ありけふも
大ゆれに地中より砂水をふき出し井水濁る予の外井戸大濁
り内井戸は難なしすへて大ゆれある毎に市中の雑人火事の
火を追ふことく声を発する事夥し
廿六日 曇空色あしく卯の刻過中ゆれ辰の刻小雨辰の下刻晴
巳の下刻大雨午の刻過より未の刻過迄折々山鳴動小ゆりあ
り未の中刻中ゆれ夜に入り折々山鳴地震あり未の下刻また
風立つ此頃は何となく衆心安く市中半は居宅へ入り仮屋も
半とりこほちなるにまた此変ありて衆心安からすまた仮屋
の修覆夥し市中怪我人もあるよし田端町間嶋何某の妻屋根
石に当りて額をそぎ大怪我ありとそ御番通しあり書記左の
ことし
去る十七日御用番戸田山城守様ゟ御留守居御呼出の上御
書付を以左の通被為蒙 仰候
御名
領分地震居城其外破損に付大手御門番被成御免
同日御勝手御還り阿部伊勢守様ゟ御留守居御呼出の上御
書付を以左の通被為蒙 仰候
御名
御本丸御普請に付先達て願の上上納置被仰付候処領分
地震に付居城其外破損に付上納致置の分御用捨被成下
候旨被 仰出候
廿七日 快晴巳の刻中ゆれ折々山鳴動す酉の刻はかり四隣物
騒かしその故をきくに今宵子の刻ゟ翌廿八日終日井水に毒
ありそかために今宵井水を汲おき翌日の用に備ふへしと遠
近の相識かたみに伝聞するなりけり是は彼まかつ神の変に
乗して百人くさを尽惑せしむるなるへし夜に入なを快天海
の音夥し
廿八日 空うっとりとして日色紅の如し巳の刻過日の色薄く
未の刻また日色紅をなす此日の空色あしき事書とり難し打
つゝく変にまた衆心安からすけふもかくのことしなれはい
かなる変やあらんと衆心顔色なし日中両三度小ゆれ夜に入
なを小ゆれあり御堀中鯉鮒鯰の類死して浮み出る事夥した
ま〳〵活けるも酔るか如く手取になる後に聞く此魚を食せ
るもの食傷す直江津の者来る面色なし彼ものいふかゝる世
に生れあひて此変に合事よと歎息す何事にやと問へは直江
津日の色もっとも赤く朝稲ひかりのことく光り夥し是たゝ
事ならすと家々戸々雑具とりかたつけ逃け支度するその騒
動夥しとそ
廿九日 薄曇日赤しきのふに同し南風を催す酉の刻大風衆人
寝るものなし丑の刻過る斗り直江津新川端町そば屋と申娼
家ゟ出火折ふし大風防くに術なし此日朝小ゆれ有
五月朔日 けふも大風やまず巳の刻風少しゆるやか也小雨ふ
る午中刻雨強くほとなく晴れ夜南風少しふく夜中両度小ゆ
れ直江津の火事前夜より今朝迄大風に焼けひろかり類焼九
百八拾軒余に至る土蔵大概焼亡その数五六十也四年前の大
火に不残焼失してまた此災にかゝる実にあわれむべし町方
御借蔵焼亡御米壱万千六百三拾三表焼米になるその内四百
俵余焼飜米三千九百弐表俵入の儘残るその夜竹田太夫御領
奉行杉村武兵衛御預地支配中村九郎左衛門おの〳〵馬上に
て出張廿八日関川辺昼夜大ゆれ三月中両度の大ゆれに比す
れはもっとも劇しく御関所石垣柵破損の御届として前嶋甚
左衛門高田へ着来
二日 曇南気むせ暑し夜に入小雨小ゆれ二三度あり
三日 朝曇巳の刻晴れ未の刻より曇下風ふき寒し朝夕両度小
ゆれ夜戌の刻小ゆれ有此五六日前ゟ蚊多く〓釣始む
四日 曇小雨辰の刻雨やみ度々山鳴動す夜中四五度小ゆり
五日 快天朝山鳴動す小ゆりありけふは暑し午の下刻曇折々
山鳴動夜中四五度小ゆりあり前夜の地震青田村辺余程劇し
とそ
六日 快天午の刻過曇小雨ふる丑の刻中ゆれたはこ三ふく斗
りの間簞司の蕨手鳴りやまず
七日 朝小雨ふりつゝき大雨となる未の刻晴れ夜明方大雨夜
に入り北の方大に光る地震は昼夜なし
八日 雨辰の中刻霽る午の刻より大雨終日終夜やます朝ゟ西
山折々鳴動す
九日 朝大雨巳の刻はれる夜に入小雨ふる暁方小ゆれあり此
節微(ママ)疫流行痘瘡流行病人多し
十日 朝曇暁方小ゆりあり暮頃雨
十一日 朝曇巳の下刻より晴れる子の刻雨ふる卯の刻小ゆれ
あり新井駅辺ちと劇しきよし夜に入小ゆりあり
十二日 雨巳の刻晴れる小ゆりあり夜快晴小ゆりあり
十三日 快天小ゆり両三度あり夜曇る夜中鳥鳴たる事夥し
十四日 薄曇むせ暑し巳の下刻中ゆれ夜布雲出る
十五日 薄曇申の刻雨ふる夜中快天亥の刻小ゆれ此変事前ゟ
滝川茂兵衛椽下に狐子産む三疋日を経るに従ひ人馴れ親狐
もともに出て人を恐るゝ事なし児等の持遊ひものなりとそ
未年に此難を前知せるにやと思える
藤林梅仙宅に例年玄関台所共雀七八ケ所も巣をくむ今とし
玄関へのみ巣くみたり不審也と思ひ居けるか此変に台所潰
れ玄関の方恙なし不思議也と語りき
町家所々へ例年燕巣くふ今年巣くむ家なし此変後燕巣をく
みはしめたりこれも不思議のひとつ也
十六日 快晴巳の刻曇午の刻過小ゆり未の刻より小雨戌の刻
大雨になる
十七日 曇山燕夥しく出る未刻雨折々山鳴動小ゆり夜に入雨
此頃藩中町家共普請夥し
十八日 曇午の刻過晴子の刻寅の刻両度小ゆれ有
十九日薄曇小雨午の刻霽れるけふは終日ゆれなし上ゟ此度
の変事御手宛として米歳分限に応じ賜る
廿日 曇午の刻過小雨申の刻小ゆれ寅の刻小ゆれ有是迄御徒
目付御城下藩中御城内とも廻りありけふ限りにてやむ
廿一日 曇卯の刻南風辰の刻やむ申の刻小雨暮頃西風大雨戌
の刻過風止み雨ふる子の刻雨やむ申の刻過小ゆれ有
廿二日 快天市中過半本宅へ入る壱丁夜廻りやむ小ゆり三度
あり
廿三日 快天午の刻曇むせ暑し酉の刻南風戌の刻雨ふる小ゆ
り廿一日善光寺大ゆれ有信州渋の湯元田中辺初度の地震軽
ろし此頃漸々劇しくをの〳〵仮屋を造るよし
廿四日 快晴事無し
廿五日 薄曇午の刻晴曇定らす終日同し
廿六日 半晴半曇予九日より昼夜とも本宅へ入る老少足弱な
るはやはり仮屋住也けふは仮屋の椽とり払ひ屋根はかり残
し家族一統本宅へ入る申の刻はかり小ゆりあり未の刻雨ふ
る申の刻しはらく晴れ酉の刻雨ふる此節市中大概本宅へ入
衆心常に復す藩中も過半本宅へ仮屋住十中の二三なるへし
廿七日 終日終夜雨やます昼夜ゆれ無し
廿八日 終日小雨夜に入雨つよし丑の刻小ゆれあり
廿九日 雨終日終夜
六月朔日 雨午の刻霽る夜晴明
二日 半晴半曇此節下越後小千谷の者萩野常国寺を始として
藩中町家所々傾家を修覆す此者常に是を業とす道具類よき
故修覆に便利なるよし其党二組斗り一組七八人也
三日・四日・五日 半雨半曇此節家々戸々病人多し
六日 半晴半曇夜曇る今日頃多く袷を着る
七日 半晴祇園御輿市中を廻る此節人気一統常に復す
八日 曇天仮屋取払ひぬ
九日 土用に入る是より十日はかりの間半晴半曇あるひは小

廿四日 午の刻過るはかり中ゆれあり
廿六日未の刻また中震れあり
廿七日 辰の刻また中ゆれあり
廿九日 巳の刻中ゆれよほと強し
七月十一日 戌の刻大ゆれ
十二日 大雨大雷
十三日未の刻過中ゆれ大風大雨
十四日 午の刻過中ゆれ
十九日 丑の刻大ゆれあり夫ゟ四五日の間毎夜小ゆれあり
八月七日 快天午の刻過大ゆれあり
御手前並諸家御届書写(略)
他邦伝聞雑記
抑此度の変信州水内郡最第一たり三月十日より善光寺如来開
扉諸国の貴賤群参す時に本月廿四日亥之刻斗り遽に四辺鳴動
市中の家屋ひた潰れ火焔四面にひろこり老若男女のわいため
なく棟にうち砕かれそのまゝ斃るゝもありあるは梁柱にうち
囲まれあなたこなたと透間を窺ふうちに火焔身に迫りむなし
く此土に焦骨をとゝめ或は遁れ出んに術なく死を決して舌咬
切り自滅せるもありとかやたま〳〵破風口なんとの透間に一
活路を得て虎口を遁れ出るも全爪創を蒙られるはなしそか中
に御堂山門のみ依然として立てるはさすかに仏力の加護也と
浮屠輩のほこり顔なるも予は信せす衆生済度の本願同前の苦
を救ふ事あたはす片時に千万の人命を促しわつかに一宇の堂
をおしむはまた何の心そや善光寺を去る事三里斗り小市の渡
しありまた二三里をのほりて名たゝる久米路の橋をわたす此
あひたすへて両辺翠屛層々たる中に虚空蔵岩倉の両山飛んて
河水に陥り激流を絶つて下流に一滴をもらさす溜水のことく
積水漸々に山中拾余カ村を浸す山中は松代侯の領地也国侯困
民を恵む事厚しされとも天災の災人力の及ふ所ならす地理を
はかるに漸々余災松本に至らん事を怖れ松本侯もまた厳にそ
の備へありとそされは此下流をうける人民もし此積水不時に
押し来らは防くに術なからん事を怖れ家々戸々貴賤を撰はす
山手の方へ遁れ行く国侯も妻女山に野陳を張って不時の難を
避んと構ける侯また往来の旅人を危ふみ吏を出して厳に是を
とゝめしむ侯長臣に命して不時の激水を防くに浅間なる所を
見積り百千の人夫をもて数丈の土手を築くまた砲火台を所々
におゐて積水不時の変動を遠近に伝へんと構ふかくて数日を
経れとも来り湛ゆるは名におふ犀川の激流拒むは虚空蔵岩倉
の巌岳なり山川の戦ひ雌雄を決する事あたはす四月十三日夜
つひに厳力水力にまけて一時に積水を流す川中島辺此災にか
ゝり死亡するもの数多し激水めくって南原御幣川を押すある
人いふ信州松本地上暑つき事堪かたし竹木の類弐三尺土中へ
させはその先焼焦すかことしまた火燃出る山もありとそ廿九
日より浅間山の煙絶るむかし山焼の時もしはらく煙絶たるよ
しあたりの人民衆心安からす飯山の変もまた善光寺に譲らす
藩中市中とも家屋ひた潰れ焼亡死人多し彼地の地形城郭の方
高く市中は低し此災にかゝり市中の地形をもち上る事二尺斗
り城郭却て地中へ陥り市中より城郭を見下すに至る犀川の湛
水きれて下流を押す時砲火台の司機発を失ふ松代の藩中竹村
金吾馬上に激流の水先を乗って積水の変動を本陳へ告く人伝
にきくさへ見る心地せられていさまし高田城下を去事五里潟
町駅ありその豪家小林何某の男四人達に僕壱人善光寺へ参詣
す此変に生死斗りかたけれは村内機才あるものを撰み廿六日
早旦善光寺へ出立せしむその夜中信州路へかゝり行くに柏原
牟礼ひた潰にて所々潰家のうへを往来する処あり潰家下に憔
悴したる声して助け出し呉よーと喚るもの多しこは幸ひに潰
家下に命を全うすといへとも出る事あたはすたま〳〵遁れ出
るも痴人のことし或は健なるおのこも家多く人少なけれはほ
り穿ち助出さんいとまなきなるへしそれより荒町善光寺へ入
るに十か八九焼亡す焼残る家も皆ひた潰れなるに潰れ家の家
根を穿ち一人はその内へ入り潰家下をそこよこゝよと探り廻
り穿ちたる穴ゟつき出す死人夥しそのさまあるひは面部を打
砕かれあるは手足切れ〳〵なるあるは全身血まみれなる異形
異類のものを外の方に居るものうけとりて往還道筋へもち出
並へをく事夥しく足のふみ処もなしさきに持出たるははや二
三人つゝ菰包にして手近にあり合ふ焼草をあつめ所定めす市
中におゐて幾所ともなく是を荼毘す又近郷のものと見えて探
り出せる死骸を菰つゝみにして三所斗り繩にて結ひ背負ひ行
く者多し見るにいふせく魂も消る斗り也廿七日辰の刻はかり
善光寺へ着ぬ扨も我尋る宿は何の何屋とかねて定り居れはそ
の宿と思しき所へ行見るに焼亡して人なし側への標札に五丁
町何某方仮居とあれはその方へ尋ね行あるしに逢ふて事のよ
しを問ふに我命助りたるのみ家孫不残死したりとのみ外にい
ふ事なし痴人のことし理りなる哉此あるし此頃病んてその夜
近辺へ療治に出もとり来る途中此変に逢ふて幸にて死を免れ
したれとも憂心虚弱の胃隔に迫って健冒のことくなりたる也
けり仮宅のあるし親類なれは問ふに此ものいふ此宿のもの壱
人も遁る人なしこれ〳〵の坐敷に十六人の泊りありその内潟
町の人もありけるよしいまた焼跡そのまゝにあれは死骸なと
尋ね見給といふに任せまた焼あとへ来りをしへくれたる坐敷
見積よく〳〵尋ぬるに天窓八ツ焼残りありその下に手足斗り
あるひは手足は焼け失ひて胸のみるるも有り彼これ見積るに
凡十六人斗りの様子は合(カ)たりされとも誰を誰とも定めかたけ
れはまた五丁町へ立もとりさま〳〵尋ね問ふに夜前四人斗り
の若人遊所町へ往れたりもしそのうちにはなしやといふそれ
もいつくと定めかたけれはとやせむかくやと思惟するに人に
撰まれこゝを尋ね来り手をむなしく立戻らんもいふ甲斐なき
業也遊女町へ行たる若衆四人といふこそ耳にこたゆれよはく
我仕かたこそあれとて本人の国名俗名を呼り〳〵市中をめく
れは皆人狂人なりと目ひき袖ひき(ママ)♠り笑ふ扨彼四人はかゝる
仏都を出て生如来拝まぬも本意ならすと壱人の僕を宿に残し
遊女町の楼上に飲楽を尽す折しも此変に逢ふてふしきに万死
を免れ出たれともおの〳〵わかれ〳〵になりおのれは免れ出
たれとも彼達は必非業に死したるらんとかたみに思ひ歎き合
ひ今や知れ人に逢んもしや迎の来りなんとそことはかとなく
さまよひ居たる折しも彼おのこ他人の謗りを厭す例の国所を
喚り〳〵来けれはそこよりひとりかしこより一人終に四人の
若人再会を得てたゝ泣くより外さらに詞なし扨もかの残し置
たる僕死したる事疑なしを見て死骸尋んと彼焼あとへ来り心
積りの坐敷を尋るに小刀の焼身一本を得たり是はかの僕にあ
つけおきたる也またあたりを探るに家紋付たる縁頭焼残りあ
れは疑なしとよく〳〵探れは焦骨を得たるまた預け置ける百
文銭七枚そのまゝにありかの僕の非業を憐れむといへとも四
人の若人恙なきを悦ひ片時も留まるへきにあらんと夕暮に善
光寺を出帰路に彼牟礼駅へかゝるにこたひは横死の者をこゝ
かしこに焼立る火夥しく闇夜さなから白昼のことしそのいた
ましさたとへんにものなし急きにいそき翌廿八日かのおのこ
先たちて帰村し恙なきよしを語れは四人のものも程なく来り
一家こそりて蘇生の人に逢ふ事を賀す
此物語りは潟町ゟ善光寺へ行たるおのこは寺嶋六兵衛方
へ出入のものにてかの者直々の物語のよし寺嶋氏ゟ承る
まゝをしるしぬ
信州八幡社家の別家へ当藩中藤井梅仙二男参り医業を始む今
度の変に同夜同刻読書していまた寝すはたりと音して家室ひ
た潰れ一歩も出る間なし何たる事を弁へす忙然たりしはらく
して人音あり助けくれよと喚れは来りて穿ち出しぬるにこゝ
に始て地震なる事を悟りぬ此時はや寅の刻なりけり妻子不残
打砕かれて微塵になりぬその内弟子一人助命す日を経て当所
実家へ弟子召連来る
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-1
ページ 428
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
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