[未校訂]嘉永(安政)大地震
嘉永七甲寅(西暦一八五四年)一一月五日(一二月二四日)
申の下刻(一七時頃)の大地震を安政の大地震と云い伝えら
れ又俗に寅の年の大変とも称す(安政改元は地震後の一一月
二七日につき本震を安政の大地震と称えるのは誤り)この地
震は宝永の大地震と共に未だに世人の口の端に上る程で、吾
が国の特筆すべき大地震である。特にこの地震は四日、五日
と二回起つており双方共に地震規模としては最大級のもの
で、四日の地震は遠州灘沖で五日の地震は室戸岬沖であろう
と思われる。四日の激震地は静岡県で、翌五日の激震地は土
佐・阿波・紀伊であつた。倒潰家屋が伊勢湾沿岸から九州に
まで及んだと云うことは実に驚くべき大地震と云わねばなら
ぬ。而も震源地こそ違え二日も相次いでこのような大地震の
発生したことは後世まで戒めとして銘記すべきことである。
往時の白鳳に始まり仁和、慶長、宝永、嘉永、南海道沖等の
大地震は外側地震帯と呼ばれる吾が国太平洋沖と島弧に沿つ
て走る地震帯中に発生している。
(理科年表)伊勢湾より九州東北部に及ぶ、土佐・阿波・紀
伊甚し、大津浪は房総半島より九州東岸に及ぶ、震災地を
通じ住家全潰一〇、〇〇〇余、焼失六、〇〇〇、土佐・紀
伊・大阪にて津浪のため流失一五、〇〇〇、半潰四〇、〇
〇〇、死三、〇〇〇、震・火・水のための損失家屋六〇、
〇〇〇
(日本地震資料)高知にては二、四九一棟焼失し、徳島に於
ては約一〇〇〇戸、田辺にては住家三五五戸、土蔵寺院等
三八三棟灰燼となせり、房総半島より九州東岸に至るまで
の間地震後津浪押寄せ就中紀伊西岸及び土佐湾の沿岸中赤
岡・浦戸付近より以西の全部は非常の災害を被りたり。
(南海大震災誌)中村町の被害人口二、〇〇五、死三〇、全
潰一五六、半潰七〇、焼失一八九戸。
(真覚寺地震日記)七ツ半時(一七時)俄に一天薄闇と相成
り、近代未曾有の大地震、山川鳴り渡り土煙空中に満ち飛
鳥も度を失い人家は縦横無尽に潰崩し瓦石は四方へ飛び大
地破裂してたやすく逃走る事も成難く、男女只狼狽周章し
児童呼叫の声おびただし、間もなく沖より山の如き波入り
来り。宇佐福島一而の海となる。
今夜月の入迄に津浪入る事凡そ七・八度、一番浪より二
番、三番の引汐に浦中皆流る。惣して大変の時の汐は進む
に緩く退くは急なり。浪の入りし時諸道具打捨て置山へ逃
上る者は皆命を助り金銀雑具に目をかけ油断せし者悉く溺
死す。
(下ノ加江口碑)波浪の及ぼしたる区域。北方面は下ノ加江
小方川の小方堤を越えて市野々字下モカキウチに至る。西
方面は大川内川字長野堰を越えて新堰に至る。五味天満宮
の鳥居の元より石段五、六段迄を浸し五味の川より下田地
一面を浸して字小方上は小路の下迄、小方下の小路は全部
浸す。長野の一部正谷人家の庭に至る。
(溝淵素江手記)嘉永七年(安政元年)一二月大地震、津浪
浸入、下ノ茅損田高五〇〇石、流失家屋三二軒、潰家三一
軒、怪俄人アリ死人ナシ。鍵掛損田高壱町、流失家七軒死
人ナシ。
(記念碑)この碑は往時旧道伊豆田峠にありしが、伊豆田隧
道の開通によつて山中に埋れるのをおそれ昭和三六年清岡
光、楠目銀次郎両氏によつて下ノ加江五味天満宮の境内に
移転せられたものである。
(碑文)「頃は嘉永七年寅年一〇月より潮くるひ一一月四日
すすなみ来り、五日大地震となり間もなく大しほ入来る、
向後潮くるひ候時は大へんとこころがけ用心すべし」
(大岐)津波の及べる区域は南は大岐下港海浜より新庄田
(浜より約八丁)に来り竹の鼻通寺の下を経て坪の内に至
る。北より浸せる波は上港浜より屋敷通り万ケ谷(浜より
約八丁)に来りて玆に坪の内にて双方の浪相合し一大高波
を掲ぐ、田園の被害は弐拾町に及ぶ、この津浪の襲へる時
内沢鎮座の三嶋大明神舟に御して沖合遠く出づるが如く衆
目に映ず、衆初めは神職橋本某の乗りて出づる者の如く思
へり、後其然らざるを知るに及び皆是を以て三嶋の神の出
でし者と云へり。(幡南探古録)
(伊布利)天神の森南方に中嶋と云ふあり、此付近の人家は
津浪の為一戸も残りなく浚へられて北西方の田の中へ押流
さる。又中嶋海浜に曳き上げありし漁船の中の一隻は天神
の森にありし馬目木(水面より一丈斗りの高さ)に懸りた
り、田園一面海と化す。(幡南探古録)
(窪津)津浪は広小路迄、川はなばたけの付近迄及ぶ、貞屋
と云へる家の床を浸す。(幡南探古録)
(大浜)海潮は一回徐々に来り浜上に曳上げありし舟を浮べ
人家に及ぼし、川伝いに約二丁余の川上に其浮べたる舟
二、三艘を漂はし送りたり、里人は最上段の畠に避難し七
日間露宿す、退潮は渚より約二町余の沖合迄引き取りた
り。(幡南探古録)
文政一〇年土佐国幡多郡中ノ浜に生まれた池道之助清澄の
「嘉永七寅年地震津浪記」は当時の状況を知る貴重な資料で
あるのでその全文を左に記す。
(嘉永七寅年地震津浪記)
嘉永七甲寅十一月五日申の下刻大地震静る否浦々へ大汐入事
四・五度丈二・三度は就中高くあがる一丈或は二丈斗り。
右地震静まり一両日の内は一刻に四・五度斗りゆり候、翌
卯の年中少々の地しん不絶大筒の音の様になるも有、又家
の鳴るほどのゆりもあり、後々は少々のゆりはかまわず渡
世いたし候恐るべし〳〵
一右十一月五日の暦かのへ午やぶるちいミ天火ろうしやく
一大地震の前には急に井の水へる物なり、へらぬ井戸はに
ごる物なり、大ゆりには井を見るべし井の中にかわるこ
となければ気遣なし、但し此時の濁りはくまざれども濁
るゆへ地の底より吹出すと見え候、所により井の水干か
れる所有、然共地しんせぬ前に干ゆえ気つかぬ物也、地
震すれば猶又濁る或はかれる物也、此時五日の朝水にご
り或は水へり候へ共晴天打続事故水干候と思ひ気の付か
ぬもの也、大ゆりの朝は猶々へりにごる也、大ゆりの下
地なり
一汐のくるう時井戸の水にごれば必大地震の下地なり。
一大地震すれば大津浪入事ゆだんすべからず、此時ゆり静
る否湊の内の汐干く事おそろしき也、中浜浦など湊の口
まで汐引川原のごとし、真中くぼみやげんのごとし、み
ぞの所々小川のごとく汐ありて飯しのわく様にあわ立見
ゆ
一清水湊の内渡し舟なくして渡れる様に引かれ候
一一度引かれてすぐ大潮入くる者也、引は甚はやき物也、
入り来は少しおそし、幾度もさし引之時
一大地震する時は四・五年も前より天気不順するものな
り、此度のゆりの時も四、五年前よりせり日和のみいた
し四日より五日の朝までは風有、然共其風不定一いき吹
ては静り風の方角不定吹き様もそろわず
一大ゆりの時分は天に雲なく青空に風不吹、海上ひかり惣
分しづかにて天気とろけ実におそろし、此度地震する迄
は三、四月の心持にて甚あたたかにて寒きことなし、宝
永の地震は十月□□にて往来せしと聞候
一前日四日の朝より入江の所は津波入る。尤も常の津波と
違ひ惣分海底をまぜるごとくうづ立濁り入る也、此日の
終日不止入るゆりも少々あれ共不知人も有、高知辺は四
日家を出るほどゆりしとなり
一五日の朝津波もしづまり天気もよく甚だあたたかにて何
心なき所へ大ゆりになり大走動、尤も八ツの時刻なり、
実に此日大ゆりのする迄は誠に静に御座候
一大ゆりの時の有様野山惣分を見るに大風吹くごとし、大
木も枝をたれ或はたおれ竹のうら地をはらひ家のいたみ
山の崩れ火事の如く煙立、すべて世界おぼろ月夜のごと
く見ゆ
一大ゆりの時とび、からす諸鳥飛事あたわず地へ落てころ
び候
一中浜辺は汐格別不入、上ミの橋の下迄浪先あがり候、い
たみ家無、惣分山近き故すぐ山へにげあがり人いたみも
なし、ゆりも外々よりかろき由
一ゆりは国によりかろきおもき有、一ト存所にても地底の
かたき所はゆりかろし
一猪の尻浦宇どん屋の老人は此時亥の大変之記有て、前日
四日潮くるいを見て荷物等山へあげ用意致候故道具散失
なし、五日に至り少しも走動せざる由、此用意を見て隣
家共乱心者の様にいいしとなり
一五日の朝より昼過八ツ比迄何心なき所へ大地震になり人
々足元不立大酔えごとくはい廻ることも不成、たまたま
かきなどへすがり居候者は夫れなりにころび一足も逃る
事出来ず一統にうろたへ候、ゆり止り候より子を尋ねい
ろいろそうどういたし少し安堵の思いいたす所に、又々
湊に汐無き故大汐入ると云ふ、亦大走動になり有合の食
物をかかへ老人小供をおい、泣きわめき、右往左往に山
へ逃げ上り行内間もなく湊口山のごとく汐入り来り一同
死するは今かと相決し無欲になりしかども汐の干しを見
合、よふよふむしろ一枚、有合之飯きりにて、其夜は畑
のきしにもたれあつまり居る、朝迄は五、六十度もゆり
候、其内大ゆりすればなく者あり、夜の明るを待兼候、
無程夜明るよりゆりも少しはほそくなりけれ共、諸道
具、いも、米等色々山へとり上むしろ明表様等取寄己家
を作り我家へかへる者一人もなし、七日に至り少々ゆり
も小ゆりになり雨ふり出し迷惑いたし候故、思ひ思ひに
我家へかへり諸道具を取込み居候場合に、又少し大き成
ゆり致し一同さわぎ出し又荷物を元の山畑へ上、夫より
己家も丈夫に直し十五日迄居候、而十五日の晩迄に山よ
り下り我家々々へ入り候、然共ゆり出せば火けし飛出、
後々はくどのはたへ水をすえ置ゆり出せば水をかけ家を
飛出し事実になんの心もなく只只おぢおそれて、世渡の
業等も不致、実にあわれ成事どもなり、然れ共当辺は流
家死人等もなき故後日には悦び候
一山へあがりし五日の夜の寒さ甚し、翌卯の年には老人、
小児寒気にいたみ候哉、病人夥し
一六日に至り或は井抔へ水ましけれ共格別無
一足摺山伊佐村共はゆりもほそく別条なし
一松尾浦も右同断
一大浜浦も汐さき川をのぼり同所の下りつき迄入
一中浜浦も汐川をのぼり橋の下迄浪先入
一清水浦は町の家ののき限りつかる、此時塩浜海となる、
まきの浜小春と申女、塩浜の堤をとうる場合汐入来り堤
ミこげ、共共に流れ死す
一浦尻村も田へ汐入る
一川口浦格別無
一貝ノ川浦甚、余浦々同断少々の事
一大岐村、浜われ汐入損田あり
一下ノ茅浦汐大入流家有、えごの田へ廻船市艇干あがり
候、ごみの家の田に市艇あがる、下茅の浜分不残家流失
一此度の地震海辺斗り大いたみ、郷中は無難也
一御当国汐田損田多し
一どことも二、三年の間は月に一、二度づつの小地震不絶
事ゆりなをしと見へ候
一瓦家はつぶれやすし、別条なき家は柱のさし口いたみ出
来候
一茅家はつぶれがたし、大ゆりの所は茅家もかやり候
一大ゆりの時雨戸、障子を明る事、又火をけす事是第一
也、家の中高きしの下に居るべからず、此時家にしかれ
死する人夥式(ママ)候、家のひさしは一番にこける者也、角様
の時心得べきの第一也
一窪津浦より大谷、伊佐、松尾、中浜辺迄は地ゆりあがり
し様子、其内伊佐浦は爾来より五尺ばかり汐たらず汐ミ
ちの時見えざる岩つからず
一清水より以布利、大岐、下茅、間崎、宿毛迄は地下りし
心地にて爾来汐の来らざる所へ汐来るという也
此時流失物夥敷有し所盗ミかくす者いろいろありしゆえ御
上より右之通りの高札を津々浦々の辻々へ□立なされしな
り
此時御召捕ニ相成候盗人ハ辻のはたへくくり付食させずほ
しころせし也
「此度之時節を窺盗業いたし候ものハ貴賤にかかわらず召
捕勝手次第尤及手向候時は打捨たりとも不苦事 年号」
右は私儀前日四日に捕尻村へ用事に付参り候所、津浪入り
候事甚し、爾来の津浪と違い汐色赤土の如くにごり幾度と
いふ事なく差引あり、山きわにはへしたき木共なかれ行事
夥し、天気は不順なることゆへ気がかりにて翌五日甚気遣
亥の大変昨日の津浪等の咄いたし居候中大ゆりに成候故、
彼是に付後世心得の為に自力を以是を立る。益野村に石き
りありて是にたのみ為仕成候、清水浦へ越す峠道のかたわ
らへ立る。尤此所先祖墓ありけれ共祖父駒八の代に寺へ石
ひをとり申候、尤四国へんろ通行之時墓所にて休み候をき
らい夏は此所にて涼み候故是きらいし事也
宝永、嘉永の大地震では前述の如く土佐の沿岸地方には大津
浪が襲来して人畜、家屋、田畑の被害甚大であつた。この惨
状を後世に伝えると共に警告を記念碑に刻み今もなお県下各
地に現存している。当市には、
一中ノ浜海岸の小高い所にある記念碑
正面
安政二卯(以下判続出来ず)
浦中安全講中 中之浜浦
碑文
「嘉永甲寅十一月大地震静否大潮四五度入ル高サ二丈
斗リ諸国人多死ス」
一中ノ浜から清水に通ずる部落はずれの峠にある記念碑
正面
「嘉永七年寅十一月五日申ノコク大地
南無阿弥陀仏
震静否浦々大潮入流家死人夥シ」
右側面
「宝永四年亥十月四日未ノ刻大地震静否浦々大潮
入
流スルコト三度流家死人夥シ翌子ノ年中
少々ノ地震タヱス大地震の時火ヲケシ家
を出ルコト第一也家ニ志かれ焼死者多」
左側面
「前日より潮色にごり津浪入並に井ノ水に
ごる或は干かレル所モ有兼テ心得ベシ
是時諸人之悲歎難尽言語仍而為後世謹建
之 中浜浦 池道之助清澄」
裏面
「于時安政二年
乙卯三月建之
池家先祖墓所」
一右之文字を碑にかき付立申候、実に此時諸人の難儀言語に
つくしがたくゆへに後世のためにも相成るべき歟とぞんじ
誌之者也
一此時太守様にも御城をさがりて苫己家を御立被為遊一ケ月
程御己家住被為遊候
(清水)越と清水の間は双方より浸し来れる津浪の為陸地僅
に残りて帯の如き地陝となり、蓮光寺の下方にある家の仏
壇には磯魚を打ち上げ、塩浜の方より貝塚へ向て帰りつつ
ありし小春と云ふ女塩浜の往還にて溺死す。(幡南探古録)
(越)清水へ越す道路の石段迄及ぶ(此処は道路改修の結果
旧形を存せざるが、旧道路の石段は今の道路面最高点より
約二尺の上にあり)浜際にある家は軒を侵し或る家は蛭子
棚に海藻を打ち上げたり。(幡南探古録)
(加久見)加久見川を溯りて堀元に及び田園は旧街道の左右
を浸す。(幡南探古録)
(下益野)源左衛松のありしと云ふ下方の田迄、川は白皇の
前の堂の鼻の小川迄及びたり。(幡南探古録)
(年代記)五日七ツ時に大揺り夫より汐が入、一番の潮は格
別無く二番潮は堤を押し切り三番の潮は上神母大明神の下
迄、東は川限り西は田の内の田限り、昼の七ツ時より夜の
五ツ迄揺り日の七ツより人々は山へ皆遁込、五日より十二
日迄居り十三日にて内へもどり、大揺りは五日七ツ時に一
ツと其夜の四ツに一ツと其間一時に二ツも又三ツもこゆる
き有、其十三日の四ツ時に治世也。
大地震の時家を出る時は火を消して出る事第一也、大地震
の時は前の日の日の出入が前の日の出入より違ひ且潮色が
濁り、井戸の水が濁り三、四日前に津浪が入、此事人々心
得る事也。
(三崎村誌)安政元年寅十一月二日頃より海潮の変化を見
る、三崎川、益野川其の他の川流には小さき津浪のおしよ
せて遡流する等為に人心甚だ不安の状態なりしが同月の五
日突如大地震動し家屋の瓦葺決潰するものあり逃れんとす
るも立つ能はざるの体にて約十分間位にして漸く震動小さ
くなる中津浪襲来の蜚語頻々伝はり人々逃げ惑いて夫々最
寄の高所竹藪に避難せり。
爾後震動は一週間に亘り終には竹藪に小屋掛をなして雨露
をしのぐの様にしていとも哀れなる様なり、強震后流言あ
やまたず大津浪襲来する所となり益野川に入りしスズ波は
次第に遡流し川を溢れて河岸の田丁を侵し中益野山の麓に
及ぶという。
三崎方面は益野よりもはるかにその勢力を逞くせしものの如
く三崎浦の人家の流失は少なかりしも当麻の建物の流失する
もの甚だ多く当麻浦より打あげて津波は東に向かい三崎川に
至りしと云う、更に一説に依れば東の浜より上げし汐はオタ
ビを浸し西流し山本寅之助前の記念碑の地点にて当麻に上げ
し汐と出合いたりしぞ、津浪は一回のみならず三回に及びそ
の内二回目のものを最大なりとす。
天保二年正月幡多郡三崎村に生まれた矢野川正保の手記「大
変記」の全文を転載する。
(大変記)嘉永七甲寅(晴天元と改元)十一月四日晴天に
して暖なる事弥生中半のことくなりしか四ツ時比地震ス、
昼夜二、三度なり、此日所に寄りては津波入海上少シ濁り
けれ共何之気も付す、尤高知は大震にて潮余程高けれども
差したる事なければ只地震に驚き騒けれども地上静なれハ
元の家に帰りぬと云、同五日如前空晴暖にして一天雲なく
四ツ時比よりして西に風少し吹出し白雲坤方ニ有りて雲少
早けれとも何之心付十(ママ)民家のもの共は重ね着したる者も抜
捨て野方に出る者有、或は出漁なとして家内の者は夕飯の
構しけるが申の時刻頃より震出し煙草一、二服斗りの間有
之大震となりて俄に門倒れ家潰し石垣竹垣柴垣ニ至迄毎々
倒れける、其音百千の雷一度に落掛るが如くなれハ人々途
を失ひ足不立倒れ臥るもの多数いやが上におり重なり踏潰
さるるもの幾許人と云事なく潰家は猛火立登り白昼なれ共
闇夜の如くして焼死るものも有或は家にしかれ垣なとにう
たれ死もの挙てかそへかたく、同申下刻頃漸々地震静りて
少し人心しける所に井ノ水干上り滄海十四、五丁干潟とな
りけれハ是只事にあらずと大に驚き生残りたるものども幼
なるは背おい老たるを肩に掛け山上或は藪を目掛逃延ひて
本の家屋を見れは灰となりたるか津波入て滄海渺々となり
て一塵も不残して野原となりぬ、憐なる有様なり、其夜中
潮の差引八、九度に及ぶなり、初め三ツの浪甚強く四ツ目
より次第に減ず、宵より夜明迄震事廿余に至る、初の地震
ほとにはなけれ共度々に至ハ人々生たる心地せす其夜は古
今珍敷大震なりとて山中藪中にてふるいふるい夜明しす
る、同六日晴天少々震不止海上潮ふくれて指引なく常より
も静にして浪風も不立、この時海近のものは潮の行詰りの
所へ行き磯魚二ツ三ツ程拾ひける
同七日朝西風少し吹出小雨降る巳上刻一震にて半潰の家は
本潰となり五日のゆり程にはなけれとも中中歩行なと思も
寄らす人気何となく騒しく誰云となく山潮来ると大に驚き
暫く鳴り止さりけるか不思議なる哉枯川へ水五、六合俄に
出渡り難き程なり、地震は昼夜十五、六度に及べり、同八
日前日の如く晴天なり海上初の如くして差引なし、同九日
大震昼夜襲う、同十日地震右同じ、晴天十四、五日の間は
昼夜五、六度地震ス次第に潮もなをりゆることも大に減し
けれとも少々宛度々の事なれハ山藪なとへ仮屋を構へ我家
へ入るものなし、漸々廿日頃に家有ものは元の所へ帰る
也、所に寄て色々あれどもしるすにいとまあらずして書洩
しぬ。
(御城下分略)三崎分 寅十一月四日少震当麻に少々津波
入、同五日申刻大震下刻ニ止ルヤ否潮ハ当麻川尻御手洗三
方ヨリ入当麻ノ潮ハ川限リ北ハ寺ノ前迄、川尻御手洗西方
ヨリ入時ハ北ハ古川下限リ、御手洗ノ潮ハ北ハ御蔵ノ下限
田中地蔵ノ後ニ而行合当麻ヨリ潮入時ハ川尻御手洗之潮引
カハルカハルニ指引アリ、浦は中ノ四辻ヨリ西潮入西ノ端
ノ家ハ軒口迄流失ナシ田ノ中ハ益野川尻ヨリ入城ノ峯鼻限
リ北ハ岡崎山ノ後口迄、一番ヨリ三番迄之潮殊ノ外高ク次
第ニ減シ八、九度ニ及、最少々宛ハ夜明迄指引有鳴動スル
事ハ大風ノ吹カ如ク也。
当麻ヨリ西、当麻ハ海底トナリ竜くしセン源三往還入江ト
ナル市艇出入スル程ナリ、ヒエノ段奥迄大師ノ川入江トナ
ル、地蔵山右同田畠三百石余損田西ノ十畑毎白砂トナル。
(下川口)及べる区域は下町の裾を襲ひ向地の田園は高岸を
限り、西の久保より生玉の森の附近一帯の田園は全部没し
て奥の谷川に及び、川は大井出に達して波頭は尚之れを打
越したり、此際六十石積みの小廻り船一隻生玉の森の上ミ
道路に迄漂ひ行きて此所に擱座し別に三十石積ミの舟ハ米
を満載したるまま向地の田中へ迄流されて擱座したり、退
潮は主碆の処迄にて此間の海底凡て干潟となり、此際帰帆
中の漁船一隻主碆の附近にて擱座し乗組の男は直に船より
飛び下りていつもは海底なる所をひた走りに走りて逃れ帰
りたるが、途中に磯魚(エガミ)一尾の潑刺として砂上に
躍れるあるを認めて捕へて帰れり。
人畜の死傷なく又家屋の流失焼失なかりし。(幡南探古録)
(貝ノ川)浦分は庄屋々式の下段に達し、郷分は今川を限り
て左右の田園を浸し川は下より二番目の堰に及ぶ、退潮は
浦の碆を限りて海底干潟となる。(幡南探古録)