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項目 内容
ID J1900479
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔中村町史〕○高知県S25・12・1幡多郡中村町役場編集・発行
本文
[未校訂]三地震
古来土佐の大地震として挙げられるものは、白鳳十三年(六
八四)、慶長九年(一六〇四)、寛文元年(一六六一)、宝永
四年(一七〇七)、安政元年(一八五四)と昭和二十一年(一
九四六)の南海地震であるが、中村町に関しては宝永以前の
ものについては何ら記録が残つて居らず、古老からも聞いて
いない。
【安政地震】
安政元年の大地震については、若干の記録を得たので原文の
まま掲載する。()内は筆者の註、又は補字。
[中村 魚市場記録]
一嘉永七寅年安政元ト年号替ル、右十一月五日昼七ツ時
(午後四時)大地震仕候、其夜大ゆり小ゆり共、又三日
目大ゆり是モ同七日之七ツ時ムカワレ目迄少々づゝ毎日
之事、其余もおり〳〵
一入野地中半分ヨリ下モ通流失、中井早崎下田ノ口一流
(れ)ニ流失カキゼ川添口ハゞ弘くきれ深サ三尋立千五
百石斗ノ市艇出入いたし穀物沢山ニ積入、田ノ口ノ助ケ
ニ相成申シ、田ノ口中井早崎ハ野地に相成、潮先キハ上
田ノ口丸山ノ下迄、中村之潮ハ崩岸ノ川一ぱいにて潮先
きは大用寺之下迄、渡川ハ築地ノ沖ノ瀬迄
一家々相崩れ焼失家数軒おしうたれ人いたみ四五十人、残
リ家山端ニ多シ、市中一統に山々へ己屋を打ち十日余り
居申候云々
[右山 猿田記録]
嘉永七寅年(安政元年)十一月三日ヂシン仕リ五日大地震
仕、右山村家皆マロビ村々土蔵不残、大シヲ馬渡リマデ
来、秋作ワ大虫ハヤリ、スドウシ虫クイツケ、コンキユウ
其上十二月一日大風大水ニナリ、ヂシン少々ツゝマイニチ
ユル、地ワレ申候
[中村 伊与田記録]
嘉永七年十一月五日夕七ツ時(午後四時)大地震津浪中村
町家九歩通潰込の上焼失。(この伊与田家は松久屋と云い
当時本町に住し組頭を勤めていた当主貞次郎妻たけは家屋
倒潰のため圧死している)。
[目代 横田記録](抜萃)
差出
一焼失家 九拾八軒
一潰家 百四拾四軒
一半潰家 六拾六軒
一焼失米 七百三拾六石弐斗五升
一焼金 四百七拾七両弐朱
一焼籾米 拾弐石
一同小豆 壱石壱斗五升
一同麦 四拾石六斗
一同大豆 弐拾石弐斗五升
一死人 弐拾九人
〆大変ニ而焼亡之品如此
右之通御座候也 以上
寅十二月 横田金次郎
御郡奉行所 町老代 善次郎
(これは地震後約一ケ月を経過して、差出したもので十分調
査済の正確なものと思う)
町別被害表(記録により筆者作成)
町名(現在の町名)全潰半潰焼失死亡者罹災者
本町(本町)三六(六)二一七一二二一七
上町(南、北上町)一九(二)〇一八三一三七
紺屋町(紺屋町)一七(一一)一三(五)〇一一二八
中新町(中ノ丁北半)一〇一一一三三一五〇
本新町(中ノ丁南半)三〇(九)一三〇(九)五二八八
京町(京町)一四二六六四三七八
今新町(新町)一六九(一)五〇二三七
下町(西下町)九四〇一三七〇
計一四一(二八)六六(六)八九(九)二九二、〇〇五
欄干(ランカ)南側、御貸家住拾軒分潰
新町西側 御貸家六軒半潰、翌卯二月風雨之夜潰家ニ成ル
記録には潰家(全潰半潰)と焼失家に区別し、町別に一々氏
名を挙げてあり、氏名の脇に細字で蔵、控家、裏座敷等別棟
と思われるものを書いてあるので()してそれらの数を示
した。合計が前掲の差出の数字と若干喰違いがあるがそのま
まとした。罹災者の応急措置としては地震当夜の五日から三
日間、山城屋清平、種屋富次郎の両家に命じて粥の焚出しを
行い、その後十日間は藩の御倉の貯蔵米の下げ渡しを受け、
一人一日三合宛分配(被害表の羅災者数は其の分配人数に依
つた)。また新町、上町、小姓町の麦畑などに五十軒分づゝ
の御救己家を建て、百十九軒四百三十一人を収容している。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 2340
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 中村【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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