[未校訂]㈣安政の大地震
安政元年十一月四日(一八五四・一二・二三)関東地方に強
震があり、土佐でもこの日の朝方震動を感じ、翌五日(二十
四日)午後四時過ぎになつて突如激震がおこり、ついで大津
浪が来襲した。前者の震源地は東海道沖であり、後者の震源
地は南海道沖であつたとされたので、学者はこれを二つとし
て扱つている。この地方にいちじるしい関係を持つたものは
後者である。ただ前日にもいわゆる鈴浪としてこの地方の沿
岸に異常のあつたことは事実で、小野桃斎(伊田)の書に
「嘉永七甲寅年十一月四日午前七時極々微小の地震ありて漣
(本義はさざなみ。ここでは「すずなみ」の意に用いたらし
い。)と云ふもの入来り、磯辺に干したる物など流るるとて
騒ぎたり」とあり、又池内寿之助(鞭)の記したものにも
「十一月四日、川の水大分狂が附候へども何の気もつき申さ
ず、只不思議なるは海の汐早朝より沖へ引きては又浜半ばよ
り上へ迄参り候事幾度となく、諸人不審に思い、是は鈴浪と
やら申す者と申候」とある。或は又安政津浪の碑にも「潮海
漘に流れ溢る土俗是を名けて鈴波と云ふ。是則海嘯の兆な
り」とある。しかしこの時の鈴浪は東海道中心の大地震に伴
つて起つた津浪の余波がこの地方の沿岸に波及したものであ
つて、別な原因で翌五日に土佐を中心として起つた大地震に
伴う大津浪の余波は逆に遠く東海道にも及んでいる。土佐で
の前日の鈴浪と翌日の大地震大津浪とは、別途の原因から起
つたもので、この両者の間には偶然はあつても因果関係はな
いものとされる。したがつて鈴浪が地震の前兆である如くに
言われるのは意味のないことであろう。
老助七(蜷川)の手記には、
「嘉永五子年より同七寅の年迄三年之間大日照にてツルイ
モ抔も手遅れに相成者は得植付不仕様なる事也。同六年丑
の冬は二月中頃のやうのぬくさにて岩つつじの花抔も段々
咲申所も有り」
とあつて気象の異変が地震の前兆となつた如く記されてある
が、科学的説明の根拠はどうであろうか。
さてこの地震の経過はと云うと、同じ助七の書に
「七年寅の十一月五日昼七ツの下刻大地震ゆり出し山川も
くづるるやうなる物音致し、石かけ・山のくづるる音実に
言語に述べ難き有様なり。夫より直ちに大潮入来り、半時
程之間に潮の差引五六度有り。初の潮少く弥増ふとり、し
まいの大潮こざき(蜷川の下ばなれの地)のすそきせがい
ち(同)并手中迄来る。(中略)地震はその夜五ツ時又初
のゆりより少しほそきゆり一度ありてより後、ほそきゆり
幾度と数を知らず。又三日目同月七日昼四ツの下刻に二度
目のゆり程のゆり有之。それより昼夜二十五度、四日目に
は二十二度、五日目には九度と申すやうに次第々々にゆり
遠くなり、卯の正月頃には日々一度又は二日に一度と申す
やうになり候。然るに右大ゆりより家の内に居る者一人も
なく、所々の田畑に、下にはしご抔を置き、その上へ雨戸
を敷き、家は物干ざわ又はおうくさすなどにて作り、その
上へむしろを張り、七八日之程矢番(のじくと振りがなあ
り)致し、如何様物さびしき事言ひ尽しがたき次第也。
(中略、避難の諸家人名等)都合十四軒の家内一小屋にな
り、人高六十余人、九死に一生は此時なりと恐れぬ者は無
御座候」
と記されてあり、また他の諸記録から抜き書きすると、
「伊田浦中一同は戎堂の上の畑に集りて避難し、振動の来
る毎に婦女子の泣叫ぶ声甚しく云々」(小野桃斎)
鞭方面では、
「七ツ頃不計大震、暫くも止り不申候処、内に居る者は庭
に這出て四ツ這に相成り、女子・童子などは泣叫び、野合
に居候者は野役捨置不取敢内へ帰候処、人家は皆潰込み又
は半潰し、無難の家は無御座候。大潮入来る由諸所にて声
立て、それより老若男女牛・馬に至迄皆岡の山へ逃去申候
処、早田町へ打込み天神の前まで来り、その次は上クボ迄
来る。その次は余程高く参り、□湊川村ニウジの前関まで
入り申候。夜に入りてカロウト坂石地蔵の少し下、森の坂
井戸の少し下迄参る。弁財天宮本社床まで上り申候(中
略)老少女人は十日程昼夜堂山に居り申候。五六日の間東
西徃来御座なく候(池内寿之助書)又吉田山城のダバ辺に
小家掛致し、四五年も居る。十年も居る。追々元の屋敷に
帰る者あり。新屋敷に移る者もあり」(宮地直知)
つぎにこの災変の被害状況を見るに、
「伊田の浜は一面荒磯の如くなり、小舟数隻六反の畑とい
うへ打ち上げられ、八十石積の市艇が二艘まではまへ碇を
引きながら打ち上げられ、人家は過半海上へ引き出された
り」(小野桃斎)
「上川口では大庄屋安光繁太郎方は諸道具・書籍・金穀一
切を流失し、その他浜の家は高いところは座敷まで潮に浸
り、低いところは押し流された。下田之口から入野・加
持・鞭村あたりの田地も多くいたみ、大潮のために入野で
は人いたみ数十人、尋ね人十余人もあつた」(老助七)
「八反芝・惣七川原・古川のスソ辺の堤防が壊れて一面の
浜となり、吹上の南に唐人山というお留山があつたが、そ
れもこの大変で流出した。それから西田地合わせて凡そ百
石ばかり浜海となり、吹上の舟渡しも三年程の間ヤモウヂ
・岩崎通りとなつていた」(池内寿之助)
「入野の中井・早崎では人家二三軒を残し、その外は全部
流失した。その家数六十軒。本村・芝・新町・浜ノ宮も人
家三ケ一位流失し、家のおしに打れて死んだ者も五六人あ
つた。本田・新田ともに大分いたみ、其内西ひじり沖前浜
田二箇年ほど海となつたが、七・八年ないし十年ほどの間
に元の地となつた」(宮地直知)
「入野地中半分より下も流失。中井・早崎・下田ノ口が流
失して野地となり、潮先は上田ノ口丸山の下手まで達し
た。かきせ川添口は幅広く切れ、深三尋も立ち、五百石ば
かりの市艘が出入り出来、救援穀類の移入に便した。」(中
村魚市場記録)
なお藩から幕府に提出した記録には
一死者三七二(男九六、女二七六)一負傷者一八〇(男
三七、女一四三)一焼失家屋二三〇一 一流失家屋
三八一八 一倒壊家屋四八二六 一半潰家屋一〇、二九〇
その他 田地破損二一五三〇石九斗余 船舶の流失又は破
損七七六 漁網三七七 米穀の焼失流失二万三千三百二十
二石余 死牛五 死馬三三
と記されてある。
安政津浪の碑(入野加茂神社境内)
嘉永七甲寅の歳十一月四日昼微々の震動有潮海漘に流れ溢る
土俗是を名て鈴波と云ふ是則海嘯の兆也其翌五日朝土俗海漘
に至に満眼の海色洋々として浪静也欣然として家に帰り平素
の業を事とす時に申剋(刻)に至て忽大震動瓦屋茅屋共崩家
と成満眼に全家なし氛埃濛々として暗西東人倶に後先を争ふ
て山頂に登山上より両川を窺見るに西牡蠣瀬川東吹上川を漲
り潮正溢る是即海嘯也最初潮頭緩々として進第二第三相追至
第四潮勢最猛大にして実に胆を冷す家の漂流する事数を覚ず
通計に海潮七度進退す初夜に至て潮全く退く園は砂漠となり
田畛更に海と成る当時震動する事劇しく曾聞宝永四年丁亥歳
十月四日も同然今に至りて一百四十八年今此石此邑浦の衆人
労を施して是を牡蠣川の辺より採て此記を乞来是を後人に告
んが為ならん鈴浪果して海嘯の兆なり向来百有余年の後此言
を知るべき也
安政四年丁巳六月朔
野並晴識
入野村
浦
若連中
註 碑文の冒頭に嘉永七甲寅とあるが、この年十一月五日は
太陽暦の十二月二十四日に当る。これより先き十一月二
十七日に安政と改元されているので、この地震は正しく
は安政元年のことである。
なお、碑面の刻字に磨滅の箇所が多くて正読しがたいと
ころがあるが、ここには他の書写文書に従い、著しく誤
写と思われる点は正し、疑わしいところはそのままとし
て掲げた。