[未校訂]⑵安政の地震
○上ノ加江の状況
安政元年十一月四日、午前九時頃、大地震があり、川筋にあ
ぶき汐が指し入る程度であつた。翌五日は青天日和で三月頃
の陽気であつた。人々は皆安心していた所、夕方五時頃にわ
かに山も崩れるほどの大地震が起つて、家ゆり動き、道をい
く人もころぶ程で、土煙立ちこめて、人々はあわてふため
き、泣きさけぶ者もあるほどであつた。やがて、ゆり止んだ
と思つていると、しばらくして大津浪が襲来し、前後十二回
も押し寄せたが、三番汐、四番汐と次第に引き汐が強く、浦
分の民家は全部流失した。人々は夜の深まるにつれ、一そう
恐れをなし、ただ神仏に祈つてひたすら夜の明けるのを待つ
た。両栄川をさか上つた汐は、あたり一面にひろがり、汐先
は和田ノ川関まで押寄せ、浦分の流失物は、そのあたりや越
の谷山際に多くかかつていたということである。
又大川内の原千代重氏が祖父兼作翁より聞かされたという話
によると、当日は丁度、山本屋敷(現在建石のあたり)で角
力をしていたが、土俵の上の角力取りが取り組んだままころ
んだ。又あたりの麦畑は畝がくずれて平地になつてしまつ
た。大汐が和田ノ関まで押しよせたが、来る時は、だぶ〳〵
とやつてきて、歩いてにげられる位だつたが、引き汐はもの
すごく早かつた。中山が汐に取り囲まれ孤立の状態であつ
た。と。
○矢井賀の状況
岡田牛太郎老人(九十歳)が、その父から話し聞かされた事
の口述によると、大地震の当日、父(半次)は祖父と共に、
田仕事に出ていたが、にわかに大地震が起り、山鳴動し、各
所に大山崩れがおこりその土煙り物すごく村中がくらがつ
た。急ぎ家に帰ろうとしたが動揺が激しくて、なかなか歩き
にくくて、僅か二、三町はなれた田から家まで帰るのに、ず
いぶん時間がかかつたという。帰つてみると、祖母は家の中
で、茶釜をそのふたでたたきながら、「カアカア、カアカア」
と大声で叫んでいる、(昔から地震よけのまじないといわれ
る)「早よう出てこんか」と叱りとばしておいて、馬駄屋へ
行つた。既に馬小屋は傾き木戸は動かない、柄鎌で棧木を切
つて馬をひき出した。
津波のくるのを恐れて一同山の方へ避難した。地震は其の
後、何回も起り、家に帰るのも心配で、三日の間山ごもりし
て、食料や衣類など時々家に取りに帰つたということであ
る。
又津浪の被害も仲々大きかつた。村中が津浪で洗われた。松
尾神社の上の方へ小船が三艘流されてきて坐つた。
海岸に大きな榎が生えていたが、当時[市艇|いさば]で上方へ通つてい
た戸田久四郎(戸田虎松氏祖父)は、港に碇泊していたが、
大津浪に乗つて、この梢を流され、三回もこの榎の梢を往つ
たり来たり流されて最後に田所の東の畑地に坐つた。
「この時ほど、こわかつた事はない」
と常に久四郎は語つていたということである。
⦿利岡清左衛門の安政の地震記録
(注、「史料」第四巻一八九頁下七行以下にあるため省略)