[未校訂]三 安政の地震
安政元年(一八五四)十一月五日午後四時また大地震がおこ
つた。下川口村誌によると、この日は頗る穏な無風の日で、
三日前より海潮に変化がおこつて毎日スズ浪が続いていたが
遂にこの日大地震がおこり、強烈な震動は約十分位であつた
が微震は少しも止まず、一週間も続いたと言う。
この事に関し弘見金積寺の僧、祖恵も筆の序に記しているの
で意解すると
安政元年、十一月の五日、午後三時、大地震がおこり、又七
日八時(午前、午後は不明)大地震がおこつた。宿毛は大火
事になり、大海、榊浦、泊浦、小間目、其他、近郷、近浦処
々家が倒れ、浦々には津浪があがり、諸人は心魂を失つて了
つた。前代未聞の大変である。と書き残している。
柏島はこの時大被害があり、当時宿毛安東家の家臣として柏
島詰役であつた一円嘉平次は次の如く書翰を以つて報告して
いる。
五日七ツ半頃(午後四時)ユリ出シ別而震強ク取アへズ御
用家ヲ立、裏口ノ畠ニテ四方見合候処暫時ニ惣囲ノ石垣不
残崩レ見ル中、庄屋ノ居宅モ一時ニ潰レ込、石垣ハ高六尺
余ニシテ上ノ石拓ママノ如クニテ其間二間余モ相隔候、畠へ飛
ヒテ頭上ヲカスリテ二ツ斗飛越、其石中々四人舁ニ而一貫
頃ノ石ハ彼是モ無ク微塵、巷事言計ナシ(ムシ)海上見合
候処湊内ニ掛リ居ル数十艘ノ漁船市艇ノ爾来目通見請候、
船市艇ノ屋遙見上ル程ニ成海フクレ行山ニ見へ、扨又沖島
ノ近辺ニ当リ海上ヨリ真黒キ雲と片面ハ火災ノ燃ル様ニ火
ト雲トノ気立上り、実ニ二タ目トハ見ラレズ、悪シキ景色
何共可申様ナク(ムシ)先其ノ難ヲ凌キ山上ニ登リ漸ク一
息継キ地震少シ静マリシ後、船中ニ出居候者上リ来リ、咄
承り申処海上ニテ見及申処騒動中三斗計山ノ如キ浪押入、
ソリヤ見ヨ柏島浦トモハ残ラズ押潰シタリト見ル所勿体ナ
クモ稲荷宮ノ安子木一様ニユルキ地ヲ撫ルカト見レバ、波
退キ右ノ危難ノ様ニ三度ニ及申ト聞云々
翌々七日頃迄震動絶ユル間ナク五日夜三十度程ハ数へ候得
共、其ノ後ニハ数モ知レ不申候(岡崎房松氏調査)
この地震津浪によつて災害をうけ、奉行及び弘瀬徳政によつ
て修築された。(土木工事参照)
古満目では夕方遠見山が火事となつたので男は皆消火に出か
けていた。ところが大戸沖合より物すごい音がし、やがて地
震が始つた。さあ大地震だとあわてふためいて帰ると既に津
浪は遙か奥地の平山頭集に上りその引潮によつて古満目全戸
は沖に引流されていた。昔の波戸(堤防)を二十間沖合に突
出し大船繫場の船溜りを構築しておつた為めに引潮はこの堤
防を越す事が出来ず全部古満目の町中に入つて押し流してし
まつたのであり、やがて部落評議の結果波戸が長すぎるので
こんな災害をうけたと皆異口同音に話し合い遂に堤防を取除
いて了つたのであつた。当時網頭をつとめていた泉漁吉は神
楽箱に入れていた水主の歳取金を責任上氏神春日神社に担ぎ
上げた。ところが失明の老母はこの時引潮の為めにさらわれ
て了つたのであつた。又安岡光次は三歳の時であり碇泊中の
大船に乗船しておりそのまゝ沖合に船もろ共引流され三日間
漂流の後古満目港に帰りついた、古満目部落は春日神社とそ
の下二三軒を残すのみで皆流失し平山頭集の親籍知己を頼つ
て仮住いしていた、安岡家族も親籍(ママ)の浜田家に寄寓して子供
を失い毎日泣いているところへ船頭が首馬に乗せてこの家ま
で連れて来たと云う。この喜び如何ばかりか、当時幡多最大
の富豪[布袋|ホテイ]屋こと後藤浅蔵も大船二艘を流失して了うと共に
浦尻住吉谷の畠全部を流失した。(昭和初年吉田によつて埋
立)
弘見馬路では馬路峠三の桜迄大海栄喜の小船が打あげられ、
中山勢以は芋壺の中で磯魚を三尾もとつたと語つたと云う。