[未校訂]嘉永の地震
嘉永七年(一八五四)十一月五日の大地震で、安政の地震、
寅の大変ともいわれている。嘉永は甲寅の年であるため寅の
大変といわれ、この年十一月二十七日に改元されて、安政元
年となつたので、安政の地震ともいわれるのである。
この地震については貝塚浜田家に『甲寅大地震御手許日記』
という公的な記録があり、他にも『嘉永七寅年十一月五日地
震筆記』などの記録があつて、かなり詳しくその様子を知る
ことができる。『甲寅大地震御手許日記』をもとにして、そ
の様子を述べてみることとする。
(注、原文を次に掲載するので省略)
この地震は、宝永の地震に比べると、ずつと規模も小さく、
その被害も少なかつたがそれでも右にあげたような大被害を
与え、宝永の地震後の復旧工事が、ようやく完成されかけた
時点での、再度の地震であつたので、宿毛の人々に与えた心
理的な被害は、更に大きかつたものと老えられる。
宝永の地震、嘉永の地震、昭和二十一年の南海地震の津波を
比較してみると下のようになる。
吉良家に保存されている『嘉永七寅年十一月五日地震筆記』
によると
一丑ノ瀬、新丁、新町残らず焼失
但右新丁は当時諸奉公人住居、変后廓中御[取分|とりわけ]ニ成ル
本町南[ケ輪|かわ]、酒屋小野屋熊之助宅より下、升田屋寅蔵宅
迄、北[ケ輪|かわ]、町庄屋兼次宅より下、小野常次宅辺迄焼失
とある。この地震前は新丁(真丁)は侍の屋敷町であり、本
町と水道町が商人の町であつた。地震後これを入れかえて、
真丁を商人の町とし、本町と水道町を侍の町としたのであ
る。
小野梓の父節吉は、はじめ常次といつて本町の北側(現四国
電力付近)で薬屋を営んでいたのであるが、この常次の記録
各地震と津波の高さ
が前記二つの地震記録の中にあるので再び出してみると。
「(本町)北[ケ輪|がわ]町庄屋兼次宅より下、小野常次宅辺迄焼失」
(地震筆記)
「北手は石河より御趣向方立田、小野常次蔵、米屋銀次、
小野善平、御酒屋左平酒蔵、今升屋友蔵、清宝寺、大庄屋
等より萩原へかけて焼残り候事」(甲寅大地震御手許日記)
この文書で小野常次の家は本町の北側にあつて家は焼け、蔵
が残つたことがわかる。小野梓はこの家で生れ、三才の時こ
の地震にあつたのであるが、梓が少年の頃あまり勉学に精を
出さなかつたのは、この地震の時頭を打つたのが原因ではな
かろうか、といわれた位である。
この梓の生家、常次宅も地震後真丁に移りやはり薬屋を営ん
だのである。
常次の家の西隣、米屋銀次の家は現稲田氏の所で、これも地
震後真丁に移つて米屋を営業し、その子孫が米屋旅館の西村
氏である。ここの先祖書に「土州幡郡宿毛本町住西村姓米屋
銀次」とある。
小野善平はその西隣、現兵頭酒店の倉庫の所に居たと思われ
るが地震後同じように真丁に移つている、後年、小野梓が士
族をきらい、平民になるために養子に行つたのはこの善平の
家である。
このように本町と水道町の商人達は地震後真丁に移され、そ
れから真丁の商店街がはじまつたのである。
真丁に住んでいた侍の加河氏は、地震後水道町に移され、明
治以後元の真丁に移つて、現在に至つている。