[未校訂]安政大地震(寅の大変)
宝永大地震後百四十七年を経た、嘉永七年(十一月二十七日改元)=安政元年(一八
五四)十一月四日・五日両日にわたり、東海・南海・西海に
かけて、M八・四の大地震と、それに伴う大津波が襲い、全
半壊、火災及び流失家屋の被害が、計七万戸を突破し、死者
三千人を出した。
土佐の被害(藩主豊信公から幕府への報告)
須崎地域
潰家 二九三九軒 九五軒
半潰 八八八八軒 四〇一軒
焼失 二四六〇軒
流失 三一八二軒 五五〇軒
浸水家屋一五一軒
死者 三七二人(
男九六
女二七六
五〇人
田地高 二一五三〇石 三六一〇石
船舶流失 七七七隻 一三七隻
漁網流失 三七七張 六七張
宝永大地震に較べると被害は比較的少なかつたが、当地域の
状況について、観音寺深阿の記録を中心に、各村誌、真覚寺
日記、円教寺記録、発生寺過去帳などによつて述べる。
十一月四日 朝四ツ時地震あり、桐間汐田新塘を汐切入
り、西崎古堤まで来る。
新荘でも大汐来り、安和では七回も来襲―流失家屋十一
軒。
同五日 七ツ半、砕ける程の大地震、しばらくして大汐乗
り来り、老若共泣き叫び、山々へ逃げ上る。間もなく茅屋
敷数軒流れ来る。其夜から隣家残らず祇園の社で野宿、汐
先は加茂宮馬場先の下まで来り、竹の端下小道まで流船来
たる。大間の店屋庄蔵、為蔵、亀蔵、紺屋儀吾郎、文六、
百姓浅次郎都合五軒流失する。
東西往来の道、所々大波汐先来り往来留る。
赤崎の下には数貫のうつぼが波に残されその腐敗臭は鼻を
ついたと。土崎真福寺等残らず流失、庄屋中平家も浸水し
長押に藻屑がかかつていた。神田村は福生寺下まで汐先来
り、押岡村天神近迄汐先来る。
吾井郷は為貞の正善寺の前まで来り、流家七・八軒、松ケ
瀬の上の方に須崎の船が流されて来た。野見、大谷夥しく
傷む。
新荘方面については次の記録がある。
強震後半ときにして轟然坤軸砕けんばかりの音響と共に、
山なす波浪襲来したれば、人々何物をも取り得ず、生死の
境をまつしぐら、最寄の山へと馳上り、泣くもの罵るもの
怒るもの、老を呼ぶ声幼をさがす声、遠近相応じて、其喧
しさ其悲哀譬へ難し、而して渦巻来る津波の猛く早きこ
と、比するものなく満ちては引き引きては満ち、都合七・
八回一進一退の家を漂はし船を浮べ来りて其光景言ひ難
し。而して此汐先は長竹・岡本角谷一円を洗ひて川を溯
り、柿谷堰(神母木堰)に止る、中氏にはさしたる害なし。
古屋造作氏の須崎志やその他の記録によると、
安政元年甲寅十一月四日朝五ツ地震あり、さ程強くはなか
つたが、長時間ゆれ動き、そのうちに潮が狂ひ、堀川に逆
流し港内の船舶を終日、西へ東へと漂していた。折柄この
日蛭子祭の相撲が、八幡様の前の浜で興行され人々が群集
していたが、この様を眺め一方ならず心配し、早くも山へ
逃げ上り、夜半に家に帰つたものもあつた。
翌五日は天よく晴れ渡り、一片の風もなく、人々安堵の思
ひをしたが、夏の様な暑さであつた。相撲の翌日のことと
て酒宴を張る家も多かつたが、夕刻七ツ半時に大地震起
り、忽ち暗夜の如く、大地は所々に三尺、四尺、五尺と裂
け、中から潮の吹く所もあり、土煙を飛ばすあり、一開一
合山崩れ谷裂き、住家や土蔵皆倒れて算を乱し、人々は五
人六人手に手をとつて、泣き叫び西に東に駈廻り、父子兄
弟互に呼び、或は俯伏せに或は仰向きに倒れ、二三間歩い
ては倒れ、歩行自由にならず、半時ばかりにて稍々小震と
なつた。
此時人々は宝永の大変の如く、大汐が溢れ来るかも知れな
い、早く山に登ろうと我先に取るものも取敢えず山に駈け
登る。稍々心豪なるものは蒲団等携え逃れたが、時しも大
汐天を蹴つて海門に衝いて来る。その物音凄じく、乾坤崩
れるかと思うばかりで、悽惨な光景であつた。
堀川の橋は皆地震に揺り落とされて、其上に潮水二・三丈
高くなり、数百の家や船を浮かして襲ふた。これを見て逃
げ後れては大変と、走り出したが堀川は渡れないので、早
く西の五紋中山へ登れと呼び叫けぶ。皆先を争ひ刈谷の方
へ走つて行つたところ、二つの石の堤防が破られて、大木
人家等を押し流す。数百の人々が打渡らうと水中の洲上に
躍る様は、誠に哀れであつた。しかし幸にも宝永の津波よ
りは潮嵩が低かつたので、潮の退く間を見て、辛うじて西
の山に登り、一命をとり止めた者もあつた。既に日が暮れ
暗夜に大小の地震が幾十度、人々は暁まで一睡もせず、神
に念じ仏に祈る。夜が更ける程に、着衣に凍る霜は雪より
白い、当夜山々で親子離れ〴〵になり、生死も分らず、親
は子を呼び子は親を慕ふて、泣き悲しむ声は哀れであつ
た。
六日 晴天 小震はまだ止まなかつたが、壮者は各々家に
帰つて見ると、家はあつても壁は落ち柱はゆがみ瓦は飛
び、一軒として完全なものはなく、我家に入つても衣類
や米味噌等、手当り次第に取り、また山へ逃げて行つ
て、不安のうちに日を送つた。
その後もほとんど毎日のように地震あり、特に十二月十
四日・卅日には大ゆりがあり、村人は家に帰へることも
出来ず山で暮していた。
宇佐真覚寺住職井上静照師は、地震を主として日記を残して
いるが、安政元年極月十三日、須崎よりかへつた人の話とし
て
「浦人三拾余人死失之由、、其中多く大汐入る事をしるま
ま、直ちに浜へ走り出船にのり、其難を遁れんとせしに浪
高くして、のる事も出来難く兎や角する内、船と船との間
にて摺きられ、五体半分に相成死せしもの多き趣云々」と
あり。
また、中田稔氏によると、発生寺過去帳には、
「五日七ツ時大地震半時ばかりたちて大潮入来、其時地震
に而家蔵潰れ地少し引さけ候に付、浜町五・六軒の者一
同、小船四・五艘に取乗り、地震の難を海上にのがれ候場
合、大潮押来り、右船中の者大凡流死す。後世覚悟の為記
置、右の内一艘の船無難に而、矢井賀浦江着、其余死人左
に記す」
と八家族三十二一(ママ)の名をあげている。
長谷川文書には次のように、地震による地盤変化について、
室津方面の隆起と西浦の沈降か記録されている。
「寅ノ年の大変津波に付、潮高くなり地形下り候事、左記
にも有。此度西浦之磯辺の石、潮に隠れ見えぬ様に成、又
室津之湊大船出入不出来様になり。東は上り西はさがりた
る事分明なり。」
翌六年正月二日から五日も大ゆり、鳴動烈しく人心競々と
して安き日はなかつた。家を失ひ職につくことの出来ない
もののために、郡府の明小屋、文武館及び発生寺の門前
に、大きな仮小屋を建ててこれを収容し、男子には三合、
女子には二合四勺を給し、漁民へは漁具を給与した。
一此度村々貧成者共、迷惑之折節に付御公儀より御救米被
仰付
高岡郡は当村役場御山方、坂元清太郎、御救役なり但し
漁士ハ男子ニハ米三合壱人前、女は弐合四勺後は沖漁ニ
参ル者五合ツゝ被仰付候也
この大変に際して家財衣服など流失したが、それを理不尽
にも「火事泥」が横行、その取締りのため次の様な布告が
出ている(長谷川文書)
一此大変にて浦々家財、被服等流し候所、是を幸ひ理不尽
に拾ひ取、人の哀をも不顧、目前の事柄御公儀より村之
荘屋、年寄に被仰付、急度御詮義有銘々江被仰付、依而
御国内一同高札立其文左之通、此度之時節を伺ひ、致盗
業ものハ其職に不抱、召捕勝手次第、若手向におよひ候
時は打捨有共不苦事
寅十一月
右之通御国中一同、村之取立や当浦ハ御郡方役人日々廻
番有之
一此時当地役人
郷浦大荘屋 川淵専平 昨年五月ニ村替に付久礼村へ行
此浦ハ北川より来る 御荘屋 吉村虎太郎
また久礼村浦荘屋より浦郷大庄屋、川田紋左衛門
古市町郷年寄 孫作
右弥作安政四巳四月郷浦惣年寄ト成
横町 浦老吉松屋喜左衛門
同 池吉屋宇太郎
(中略)
大野晟輔(神田村庄屋)の記録(高知市、大野精一氏蔵)
安政二年十二月、須崎御郡方へ被召出、去寅大変之節、米
穀諸品共寸志指出候趣、奇特之至依右御褒詞被仰付候
但し、前年嘉永七寅年十一月五日大変、地震大塩上村山
キド迄、北は吾井郷尾殿迄汐入、人家和田塩木七軒流
失、谷汐塚二十流失、土崎不残流失中平一軒相残ル
安政五年十二月、御郡方被召出、平常役方出精相勤、且前
役於納所場ニ廉々引負分束テ、米弐拾石五斗余先々払方致
シ遣不而已、去ル寅年大変之砌、流失家田地塩入等不詳、
追々今難渋者有之ヨリ成立之儀心ヲ配り、給主ヨリ金子借
入等ヲ以世話方行届、又今七月居村並土崎町困窮之者共へ
米五石余致配通遣シ、其ノ余難儀体之者へハ米銭少々充補
遣シ、惣テ地中之為ニ相成、地下人共一同今帰服候趣彼是
奇特之至依之御褒詞被仰付之
安政元年絵本大変記 著者不詳(県立図書館蔵)
土佐各地の被災のさまを軽いタツチでえがき、それに百人一
首を模した狂歌を添えたもの。
我家は戸島の沖へ流されて
潮見せたりまた隠れたり。
須崎浦人
地震に因んだ、狂歌と短歌
安政地震 千々川の住人 鉄弥
安政(安静)にしても地震は止まぬなり
こんなことなら嘉永(替)でもよい。
チリー地震津波 須崎 千頭泰
貯木場に雪崩るる如く寄せし潮
立直るべくひととき弛む。