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項目 内容
ID J1900462
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔赤岡町史〕○高知県S55・7・10赤岡町史編集委員会編・赤岡町教育委員会
本文
[未校訂]安政の大地震は、十一月四日関東地方に強震があり、土佐で
もその日の朝方かなりの震度を感じた。
翌五日午後四時過ぎになって突如大地震がおこり、ついで大
津波が襲来した。
前月の震源地は東海道沖であり、後者は南海道沖に震源地が
あったとして、このふたつは別々の地震として扱われること
になっている。
この地震は約百二十年程前の出来事なので、さすがの赤岡に
も何種類かの記録が残っているが、そのいずれもが、「ただ
ただおどろきうろたえて、平井、するださして逃げまどうも
の数万人」といったたぐいのものである。
赤岡とは町並つづきの岸本明神こと香我美町岸本の飛鳥神社
の境内に、「懲毖」と題して、安政地震記念碑が建っている。
(注、「史料」第四巻一六六頁上九行以下にあるため省略)
この災害によって土佐藩は、文政三年(一八二〇)以来地域
別商業圏に応じて定めていた物価・行商・相互交易の規則を
ゆるめた。
そして翌安政二年を限って、城下周辺、物部川限、奈半利川
限と区切って売買品目物価を決めていた交易制度を撤廃また
は緩解した。
たとえば穀物・雑穀類の赤岡から物部川以西への交易は自由
になり、雛人形などは城下から買いこみ郷浦の商人がその方
限地域内で持売りは勝手、[糀|こうじ]は座株をもっている者は方限外
で仕入れてきて地域の持売りが許可されるなどであった。
また商人が田畑を所有することは固く禁止されており、土地
売買の件については商人・農民とも禁止するむねの布告がく
りかえし出されていた。
しかし富有な商人は郷士の株を買い、田畑を所有する地主と
なって、ますます個人的財力を増大させ、町人層にもはげし
い貧富の差による特権層がうまれていた。
商人亡国論とでもいうべき農民救済、町人抑圧についての建
白書がいくたびか提出されていた。
「農をあげ商をおさゆること聖人の法也。然に只今御国内の
商人を以て百年以後五六十年前に比すれば十倍もふえ申候。
如此夥しき商人に御国人の者身上を吸取らるゝこと是非もな
き次第に御座候。是れ偏に商人に制度なく夥しく出店を弘め
我儘に売買仕る故今は如此。高知は不申及、山の奥、村のは
し迄満ち満ちて御上を奉初、御家中の御侍より以下迄の身上
を吸ひ申故、下も上も自然に窮迫にはなりたり。
御先代様の御掟を奉見に、商人郷中に往き商売仕る事屹度不
相成、農民も御城下へ出酒など漫に買ひ調候事堅く停止被遊
候。此れ永久の御謀にて誠に御賢慮の程今更感じ奉る御事
也。今は此法乱て商人種々様々の物を郷中へ持ち行き、戻り
にもまた様々の物を買ひ、扨諸物を郷中へ売付置て麦秋或は
秋米出来候節一度に取り込み、又百姓と申す者は商人と違ひ
利勘に疎き者故、当時自由さえよければ身上を吸取らるゝ事
も不知、果は分散仕る者も夥しく御座候。扨々百姓程是非な
き者は無御座候。年中力を出し骨を折り、作り出す物を唯人
に吸ひ取られ、小役人に取られ、庄屋に竊まれ、夫れのみな
らず身の夫役に出ること又夥し。先村々の川堤、関、井流等
の普請にも役人の私故無限なる夫役に使われ、さて諸役人郷
中往来之送り、これも役人の私多し。さて送り状、又留守妻
子への状一通にも夫役一人かかり、孫子へ送る釣竿一本も皆
人役ついへ其余様々之事共御座候。如此繁多なる煩しきもの
にて、其上大切なる御貢物上納能くも仕る也。か様に種々の
煩はしき事多き故農業手薄く相成り、御国内自然に窮迫に相
成り候。只当時は商人の権を擒き、百姓と庄屋との間、庄屋
と小役人との間ひとを正すこと緊要に御座候。
然れとも臣申す。商人の権を擒くとの言を当時町家の徳沢に
の中にそだてたる人承り候ては返てあやしく思ひ、且つ町家
の権を擒き候ては御用忽弁し難しなと申す人もあるべけれど
も、是は町家の尊き事を知て治の道にうとき人の申す事也。
又町家の権を擒ぐと申すも必ず彼が家職を打つぶして取るに
てもなく、只彼が妙術を行う所の手足の動かざる様にする。
其仕道は商人の手へ米を渡さぬ様に仕りたらば、自ら彼権は
衰ふ也。其権を渡さぬ仕道はほゞ下に郡奉行の事を記し候中
に御座候。只今は御侍も百姓も先つ一度は米を商人の手に渡
し、それより此方へ取る故商人主なり。御侍と百姓は客な
り。又米を商人の手に渡さぬ様に仕りたらば侍と百姓とは主
にて商人は客也。然れば彼が権は自ら衰へ申す筈也。書に曰
く農は国の本也。本固ければ国安しと御座候。然るに今は御
国の大切なる本を手薄くし枝葉をそだて候事、恐れながら御
仁政と難申候。」
しかしこのような上奏文や、離商帰農のさだめなどがくりか
えされていることは、如何にしても商人の力をおさえること
ができなかった証拠ということになろう。
安政四年(一八五七)の定目の中にも次のように示されてい
る。
「一商人は上下遠近事物之有無を通し候ために指置るゝ者
に候得は、世上日用之品々米銭等仲立を以有無互に交易の
取次いたす業に付、世話料として定置るゝ利潤を取り、夫
を以て家内を育候儀商家の本意にて、一生涯力を労せずし
て利を得候者に付、別して正直に心を放さず、奸術を慎し
み過分の利を不貪、実意を以取引可致候。商家の業は心術
の邪世に依て世上の利害に係るものに候へば、謹戒を可加
訳に候。仮令邪にして高利を貪り候共、其筋者しからずし
て世人其奸悪を不悟、一旦富栄を極といへども天鑑遁るべ
からず。天道は善に福し、悪に禍するの理明かなるものに
候へば終に天罰に罹り、身を失ひ家亡びて子孫に至り跡方
も無之様相成候者古今例し多く候。然に近年商人共身分之
職事を不慎、貪欲にして高利を取、有無通用之本意を取失
ひ候族も有之趣、是全く教諭の道明らかならざるより商家
に生れては利倍をさへ心掛候へば家業は勤まるものと相心
得(ママ)罷在候は、商人を指置るゝの根本を不知よりの流弊と申
ものに候得ば、向後屹度去を改め子孫の者へも無油断教戒
可致候。先祖の陰徳により、其身の幸によって巨万の富を
重候とも、有無通用の職業を顧み、全く自己の徳分と不
思、驕奢放逸之暮方無之様身を慎み財宝を守り有用之時節
を可相待候。是則本を報ずるの道にて天意に相叶ひ、弥子
孫永久の家業繁栄の基に候旨可相心得候」
このように商人は人道をかえりみず、額に汗せず、純朴な百
姓をだまし、侍との間にあって貪欲の暴利をむさぼって財産
を築くこと、天罰かならず到ること当然なりとののしられな
がら、世の中はその財力に頼るよりほかどうしようもない状
態にたちいたっていた。
安政の地震は、結局赤岡商人を個人的に高知城下の御用商人
以上の財をなさしめることになった。
逆にいえば、その近世的個人営利法に固着して、大資本によ
る商工業近代化の波に乗りそこねることになるのであった。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 2319
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 赤岡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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