[未校訂]安政元年十一月四、五両日の大地震は、祖父が先祖から聞い
た話を子供の時よく聞かされた。記録(土佐古今の地震、香
北町史、高知県天災年表)によると、「大地震あり、人畜の
被害大にして、死者三七二名、負傷者一八〇名、焼失家屋
二、五〇〇軒、流失家屋三、二〇〇軒、壊家三、〇〇〇軒、
半壊家屋九、〇〇〇余軒」に及んだ。「十一月五日御国中大
地震、その年十二月三十日まで昼夜ゆりやみなし。東西の町
々浦々大いたみ、地震ゆる四五日前は地がづんづん鳴る。大
ゆりの時泉の水増し、その後大峯谷水あき、正月末まで水一
滴もなし。正月末より水出来る」。最もひどかった十一月五
日には「家屋動揺し、壁や瓦落ち、戸障子はづれはじめる
と、人々驚きあわてて顔色をかえ、付近の竹やぶに避難し
た。杉田では大岩が飛竜の勢で杉田井に落ち、白川では大音
響と共に有ノ木谷に山崩れがあって人家が埋り、五日夜は一
夜の中に三十五回もゆり、地面に板を十文字に敷き並べて、
更にその上にむしろをしいて坐り、夜を明かすことになっ
た。夜中ごろ太郎丸方面から『盗賊が来るぞ。手道具をもっ
て出向え』『津波が来るぞ、大川の水が塩辛くなった』と叫
ぶ声も聞えた。地震をおそれおののいた人々は、松明をかざ
し、米袋を背負い山へ山へとにげ去った」(武内重意著、『天
地の間の覚付』)当時の人々のおそれおののき、逃げまどう
有様目に見るようである。地震の時は竹やぶへ逃げ板を十文
字に敷いてその上に坐ったらよいという話は祖父から子供の
時によく聞かされた話である。安政地震の時高知では柳原の
川原で相撲興行があり、見物の群集大混乱。当日潮位は三尺
四、五寸高くなり、城東、新町、下知一円は海となった。こ
の地震の影響で、翌安政二年には洪水、高潮が度たびあり、
殊に七月十四日の台風時には、潮江、比島、大津、鹿児、介
良、衣笠、下知、五台山の諸村は潮水が山麓までくる。大震
後八ケ月で海水の狂かくの如くである。一度地震おこれば海
水の平穏に復し難いことはこれでも知ることが出来る。(高
知県天災年表)