[未校訂]嘉永七年甲寅の十一月地震海溢の変災ありける、其の始めは
四日の朝、天気いとよく冬の日ならぬばかり温暖なりしが、
巳の刻の頃、天地俄に震動し海潮狂ひて港口へ満込める音烈
しければ、人皆驚き騒ぎけるが程なく治りぬ、その夜も又ゆ
りぬれどさしたることにもあらず、五日はとりわけ空晴れて
山に雲かからず、海に浪たたず、日の色少し黄みて光のよわ
きよう覚ゆけれど、前日よりも猶暖和にして小春のごとき天
気なれば、誰れも心を安んじ居けるに、申の刻の頃 大にゆ
れ出し、西山の方に当りて鳴音大砲声雷響の混するが如く魂
けるばかりなるに、海面もいとふくれきし高潮渤然と湧き騰
り 向ひの山をこえ満込来るにぞすは海溢ぞとあわてふため
き、とる物もとりあえず最寄の山々へ逃げのぼるに、潮勢鋭
く□漲して 他方は多善寺の門前、川筋は脇の宮へ来る、引
潮となりぬ、かゝること夜半に及びて四五度なり、地の震動
は夜の明るまでに三四十度はかりならむ その中にも亥の刻
の震は殊に大にして 申の刻にひとし、その間に海山折々鳴
り響くなん、天柱くじけ地いかりけるやと恐懼戦慄せるはな
し、しかのみならず其夜は寒気凛烈にして霜風肌骨に透り
満天澄み渡り星光冴つくし、その物すさまじき形勢いわんか
たなかりければ 山々に逃集りたる老若男女ひたすら弥陀の
名号を唱え、金銭衣食欲念を離れ、只命ばかり助かりなんと
願ふる外他事なかりしとぞ、この海溢に大荒の所には二三丈
も潮あがりて、命うしないし者も多かるに、鞆の浦にて壱丈
二尺ばかりなれば 屋舎もさまでいたまず、人はひとりの怪
我だになきこそ誠に有難きさちなりけれ、それより年の暮ま
では、夜ごと日ごとゆりゆりて、潮も折々狂ひつつ安き心も
なかりしを、ことしになりて春秋と移るにしたがひ、漸くに
間遠くして、はた微動となりぬさえ震潮の妖姿や、いにしえ
より百年の前後に必ずあるなれば、後年にも又定めてあるべ
し、□手岡沢行正此事を憂えりて、浦長高橋甫助とかたらひ
其の梗概を石に彫字普く後世の人に告志めさむと欲す、そは
唯この変にあわば 迅速に逃避して命を全くせしめんとの□
構なれば、是非とも□□の至誠□□べき、余にその事を記し
て□と乞むと欲すなり、余も亦感歎に堪えず その善挙を助
けんと思いて
安政二年乙卯の秋
高木宗□これをしるす