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項目 内容
ID J1900305
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔牟岐町誌 一〕○徳島県S11・5・17牟岐町編・発行
本文
[未校訂]尤も安政元年(嘉永七年)十一月の地震は四日の分と五日の
分と別個の地震と見るべきで四日は関東方面に震源があり五
日は四国沖に震源があつたのである、それで海部沿海では五
日に大海嘯が起つた次第である、それから海嘯に対する記録
に出羽島のあたりより起り、沖合の高浪とは見えないと云う
意味を書いてあるが之は当然で、浪は湾内が狭くなる程高く
なり、又海底が浅くなる程高くなるのであるから、沖合では
殆んど感じないのである、湾の詰めの処が一番大浪を捲き起
すのである。
次に大地震の場合の心得に就て略記して置く、牟岐の市街地
に建てられた家屋は地震の震動に依つて倒潰するやうな事は
先づ無いであろう、尤も古い家や極めて粗雑な家屋は倒潰す
るものと予期せねばならぬ、又公会堂附近の如き埋立地は地
盤が脆弱で震動し易いから、安全な家屋であつても倒潰する
かも知れぬ、それで普通の家屋に居住する者は狼狽して逃出
さなくともよい、逃出しても町中では矢張り危険である、破
壊的の最大震動は僅に数分以内であるから、其間を経過すれ
ば先づ安心なのである、地震には火災の伴うのが常で水が無
く大損害を与へるのである、火災の起る原因は倒潰した家屋
より発火するのであるから、火仕舞を直にする事が肝心であ
る、但し之は理想であつて実行し難い、大地震後は頻繁なる
小地震があるが之は所謂余震で破壊的の働きはないから怖る
るに足らん、それから牟岐町として最も怖るべきは海嘯であ
る、海嘯は大地震に必ず伴うものと思はねばならぬそれで大
地震あらば一旦戸外へ飛び出しても震動止り次第家に帰り重
要物を取り出し手近の山に逃げねばならぬ、地震後海嘯の来
る迄は地震原地の距離に依り一定せぬけれども海部郡の経験
では一時間乃至二時間位の場合が多いやうだ、万一震源が余
程近くとも十分以上の猶予はあるであらう、波浪の進行する
速度は一秒間に十米位が普通であるから、若し海嘯の波浪が
南方より来る場合であれば、出羽島を襲つて牟岐に達する迄
には五分間位を要する、又地震後四、五時間以上も経て海嘯
が無ければ海嘯はないものと見て帰家してもよいであらう。
次に地震海嘯に関する記録を列挙する。
安政元年地震被害高抄出(省略)
木真蔵は津浪に鑑みて町区改正を断行した、東浦の整然とし
た道幅広きは是がためである、又現今の浪除堤を築かしめた。

嘉永七年十一月四日平日より暖気にして一天澄み渡り漁師は
細魚網に沖出したりける内昼四ツ時地震動出し暫くして浜先
一丈余の汐満干しけれども此の如く沖の狂し事は儘ありし故
左迄驚かざりき、然れども中には諸道具を山に運び野宿せし
ものもありたりける、其日暮方に及び細魚少々あり漁夫等は
少しも地方の騒動を知らざる由、其夜明迄に三四度地震あり
たれども別に替りたることなく翌日は極て晴天にて浪風なく
殊の外暖気なれば何れも諸道具を家に運びける、其日は太陽
の光さへず欝金色に相見えたり而して昼八ツ時比沖合震動し
て諸方鳴渡り天地も砕くるばかりの大地震、前代未聞の大変
となり、瓦家根は瓦飛散り、地中一円に破れ七ツ時に津浪と
なり、人々は命から〴〵山上に逃げ登りたり、浜先の家々数
百軒、土蔵に至る迄黒煙立ち土石を飛し将棋倒しの如く、残
るは漸く土蔵四五軒のみ、凡汐の高さ三丈余又山々の麓へ指
込みし汐先は五六丈とも見へたり、元来津浪は大海の高潮と
も見へず出羽大島の岬又は浜先より起り、地中よりは水を吹
き出し、流失人廿余人に至る、其夜寒気強く夜四ツ時比復々
沖間鳴り渡り大地震動出し、夜明迄十四度に及び且つ津浪上
りたれども夜中故見へず、翌六日何れも流木を拾ひ来り小家
掛をなしたれども、水少しもなく谷口又は田地の縁にて泥水
を汲み来り渇を凌ぎたり然るに二三日経て御上より粥の施行
並に一人に付黒米二合宛二十日間救米ありたり、其後時々小
震止まず故に八九分通りは山にて越年したり、此大変の為大
家は孰れも土蔵にしまひありしを以て大損害を蒙りしも貧家
に至りては何一つ流失せしものなく却つて多くの拾物をなし
たり、依て年立つに随ひ元の如くなりたり、其後御上様より
漁師へは船網の拝借浦々共仰付られ、又一両年を経て建家料
として重なる漁師へ銀札四百目、中漁頭は三百目、舟方へ二
百三十目、小商人は二百三十目宛浦々共拝借仰付らる、且つ
御繩張有て、頭立商売人屋敷七十五歩より六十歩、五十歩、
三十歩、二十歩、漁師船頭へ三十歩、舟子一円に拾弐歩半宛
割付に相成り津浪以前に求めし屋敷は御取上となりたり、且
又汐入地は五ケ年迄免祖となる、其上浜先に敷百間の浪除土
手出来たり西浦分人家二百余軒土蔵納家又は漁船商船類に至
る迄、東浦同断残らず流失、又中村の内五六十軒ばかり流
失、出羽島人家六十余軒其外納屋漁船網類流失、其内居宅十
五六軒ばかり残りたり、大島家数二十軒余此処は小高き場所
故、汐先漂ひしばかりにて一軒も怪我なし、東浦人家四百余
軒其外土蔵納屋共棟数六百余軒ありたり。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1868
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 牟岐【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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