[未校訂]海部郡内では、安政の津波のあと浦人たちの間にトンコロリ
(コレラ)が流行し、沢山の人が死亡した。
○
(出羽島の戸数変遷の条)
寛政の頃より移民がはじまり、享和三年(一八〇三)には四
〇戸、嘉永元年(一八四八)には五〇戸と年次増加していつ
た。安政元年(一八五四)の大津波の被害も牟岐浦ほど大き
くなく、かえつて津波時には島の生活が安全であることか
ら、其の後も更に増加して明治初年には八〇戸(○以下略)
○
安政元年(一八五四)十一月四、五日にわたる相模湾の豆相
震源地、十一月四日朝辰の下刻(午前九時頃)大地震あり、
五日夜明けまで五六度ゆれ人々林藪ににげる。五日午時三時
頃大地震となり、つづいて午後八時頃にも大震れがあり、十
四日午前一時に大震午後十時頃別段強い地震があり、潰家が
多かつた。加うるに十四日大雨、十六日には午後五時頃より
大雪が降り災害を大きくし沿岸に大津波の襲来となり、人畜
死傷甚しく老公(斉昌)一万両を救恤す。
「大地震樹木枝を鳴らし井水濁り水瓶に汲みおきし水、庭へ
悉くこぼれ、海には汐狂いたる由」の程度で津波も単に海水
が一丈余り増減あつた程度で大した被害もなかつたが、翌五
日の地震は四日のそれに倍したもので、これに伴つた津波も
すこぶる大規模で一部落全滅の所もあつた。その他潰家浸水
多く八〇三戸の中、わずかに六七戸のみが無難であつた。津
波の高さ三丈余山々の麓へさし込んだ汐先は五、六丈にもみ
えたという。
家屋流失状況
当時の家数流失家屋数
西牟岐浦一七五全戸
東牟岐浦三五七三五四
中村一二九三六
川長四〇三六
ナダ六六二九
内妻三六一三
四 付録
嘉永七寅年十一月五日大汐之記(訳)原文末綴
(この年安政元年と改号)出羽島貞之助
嘉永七寅年十一月四日朝五ツ半時頃大地震俄に潮之狂ひ有
候、当島湊の内指込潮常の潮時より高き事五尺余、引潮の低
き事壱丈余、其日の八ツ半時頃迄無止時。盈干之潮之勢如鳴
門潮時。夫より夕方に至りて少々宛治り候。右四日朝地震塩
の狂ひ有之候に付、当所観音様祈願致し御くじ入候処愈以用
心堅固にいたし候様との御事にて皆々有増山之上に仮屋を建
て家物網具財面々に運び其夜山之上に夜を明し候。尤右四日
之日天気殊更霽渡り結構成日並之事故、漁師ども沖出いたし
漁業いたし候程の事にて右変事沖間にては少しも相分不申と
の事にて候。漁師共四日の夜少々漁事いたし帰り候懸り、明
ル五日天気の模様前日の通霽渡り四面八方一点の雲も無之海
中至極穏也右之懸りにて候得共前日の運に就いては観音様の
御鬮何角故皆々用心いたし五日の日は沖出も致不申、不思議
之思ひをなし如何成事哉と皆人疑をなし、彼是油断いたし居
候処其日の七ツ半時頃俄ニ大地震無程海中鳴出シ其厳き事無
譬方、大木は如顚、大地は如破、海中より鳴出ス。其音如大
筒切ニぼんぼんと鳴出し半時余りにして海中波の高き事如大
山暫時大潮渦巻来り当島家宅大半流失いたし候。大潮の高さ
弐丈余其夜中に地震三十反余り就いては其夜月の入際に海中
又々鳴出し大地震其節の地震には当島抔ゆり込かと思ひし事
に候、明レバ六日当処漁頭林七船壱艘すの鼻の岩に巻付居候
に付其船に取付若者とも乗込外之舟流失致居候を助け帰り
候。翌日七日牟岐青木氏を尋ね候処青木は無事にて大汐は座
切りにて御座候。就ては当島見舞として米弐石被下。御上
様より御手当として拾弐石余被下置候。追々舟綱等も御借付
被遣候。扨其後早魃にて当処渇水に相及甚難渋致候翌年安政
元年と相改正月二日に至りて今以少々宛地震折々御座候。先
年宝永之大潮より当嘉永七ニ至ル迄年数百四十八年目也。右
は為後鑑荒増筆記之
別ニ曰く
当島は不思議成哉観音之御利益を以老少男女ニ至迄壱人も怪
我等無御座候。尤当島にても州鼻の方は汐も低く候て座上壱
尺五六寸にて居宅には少しも痛無之候、牟岐西浦は浜辺庄屋
辺庄屋を始流失いたし候。中村辺は格別の痛も無之候。東浦
は惣て流失いたし候。尤漸岡屋之土蔵快蔵店の土蔵外ニ家宅
壱軒尺(だけ)残り候
扨牟岐浦にて死人之数西浦に四人東浦に拾四五人程死亡いた
し候尤是等の人々は欲心に迷い右地震最中に山より下り或は
米或は僅の鍋釜金輪等に目がくれ候て取に戻り候人々にて御
座候故兎角にも大地震致候得ば飯米を壱番に用意いたし外の
物は見放し壱度山へ逃候上には弐度とは山より下り候儀等、
屹度致間敷事
右流死の人々は皆一旦山へ逃げ幸に命を助り居候に欲心に迷
ひまだまだ潮は気遣無之様云ひ候て山より下りし人々計りに
て返す返すも心得べきは此一大事に候。尤右等之変事の節抔
は山へ逃れる方上分別にて御座候。処により候ては舟に乗候
て段々流死いたし候
扨右等の変事には牛馬を壱番に追放し遣す事是又可心得
一時ニ右大変之中にても平生慈悲善根信心の人々は格別ニ功
徳之事有之候事段々見及候懸りにて御座候故子々孫々に至
る迄兎角信心可心懸事
一海部郡にては鞆浦日和佐浦此両浦は大潮入不申少しも痛無
御座候。宍喰浦は浜辺、人家大半流失いたし浅川浦壱軒も
残らず流失いたし灘目中にては大痛にて御座候。由岐木岐
も大半流失し死人も多有之候
右五日の地震にて徳島内町大火、稲田加島御両家丸焼、小松
島町も同断、丸焼にて御座候。安政元年二月下旬 書之
(出羽島スバナ貞之助所持)
出羽島観栄寺石碑
出羽島観栄寺境内に安政地震の事を刻した碑が建てられてい
る。此の碑は砂岩で四角柱状をなし地上の高さ四尺二寸、幅
七寸である。刻文左の通り
嘉永寅年十一月四日朝五時大地震一時計、潮狂ニ有之、高下
共弐丈余、同五日昼七時地震半時計ニ而大汐来、其高サ同断
出羽之嶋へ前日ヨリ山上リ致候事故、怪我人無之相済候、是
神仏之御守有ニ依而也、後々ニ至迄信心忘ル事不可有也 左
ノ通大汐之砌
御上ゟ壱人前米六升被下置候 廿八人 吉之亟
大震潮記念碑(牟岐小学校前道路に面す)
安政元年甲寅歳十一月四日辰刻午前八時地大ニ震フ。巳の刻
午前十時狂汐進退度無ク温度殊ニ高シ。人々恐怖ニ堪へズ山
頂ニ避難ヲナシ、憂愁裡ニ一夜ヲ過ゴス。翌五日晴天、風雲
無ク日輪朦朧トシテ申刻午後四時大地震暫ク揺リ丈余ノ逆浪
襲来陵ニ襄リ反覆三次ニシテ止ム。家屋ノ流失六百四十戸、
溺死三十九名。若シ夫レ天変地異ノ兆候ニ遭ハバ、油断ナク
避難ナスコト肝要ナリ
震歴
永正九年津浪 四百二十一年前
慶長九年海嘯 三百二十九年前 高サ十丈余 七度襲来ス
宝永四年大潮 二百二十七年前
安政元年大潮 七十八年前
昭和六年五月一日
裏面
世話人 西分団員一同
久佐木種太郎
目良有遠
亀田利夫
田原重一
石工 新開理一
㈥ 災害
安政元年(一八五四)の津波の記録によると、内妻村におい
ては、農家が一三軒流れ、二軒が潰れたと記されている。
このとき潮が現在の公民館の下、国道のところまできて、土
堤を越そうとしたので、今もここを「こえこえ坂」といつて
いる。
○
牟岐津神社(無格社)大字牟岐浦(西)字浜崎
安政元年津波のため流失し、時仮社殿を設けた。明治十年
過今の社殿を建造した。
○
法覚寺(真宗)大字牟岐浦字浜崎一六番地
古老の談によると、安政の津波の際本堂普請中で地盤が高
いので、カンナ屑が床へ上がつた程度であつたといつてお
り、寺院の裏の墓地にも文化安政以前の墓碑があつた。
○
この川から南半町位で渚となり、礫と白砂の浜が拡がつてい
た。時化や津波の為、この川は埋まり、中河原も浜続きとな
つた。安政の津波の被害は甚大で、西浦は殆ど全滅、法覚寺
の土地が高いので、カンナ屑が床上に浮かんだという。そこ
で郡代高木真蔵は、災害予防の為堤防を造り、松の木を一間
々隔位に植えさせた。そしてこの作業を通じて防災と失業救
済との一石二鳥の施策でその普請小屋が、六十年程前まで残
つていたことを、筆者は記憶している。
古老の話によると、安政の津浪では西浦は全滅し、災厄を恐
れてか浜崎へ家を建てることをためらう傾向にあつたので、
枡富の当主は「波を恐れていたら漁師の恥や」といつて率先
して現在地へ家を建てたとのことである。