[未校訂](表紙)
「地震
津浪
嘉永録
本主 津田 喜」
地震津浪記
夫、土地の興廃、一家の禍福、年々の豊凶、皆もつて天のし
からしむ処、何ぞ人力のおよぶべきにあらず。爰に阿波の国
海部郡牟岐東浦と言ふ其往古開闢は知れず。中古、慶長、宝
永の津浪も言伝へ継之にして更に是を信しかりといへとも追
年にして、いつとなく繁昌し、人家四百余軒其外土蔵納屋数
多出来し棟数六百余軒に及び春夏秋冬諸漁事絶る隙なく、元
来上方通路自由自在[都|すべ]て金銀融通何ひとつとして不足なく諸
人安堵のおもひにして、万代不易と[諷|うた]ひ楽しミけり、しかる
に満れハ欠る世のありさま、有為転変の時来つて又もや津浪
の為に浦壱枚流失する事、鳴乎天命とは言ながら誰か是を悲
しまざらん。されども世直しの声々人に通じ神仏いまだ捨給
わず、年々四百貫目、五百貫目の漁銀高あつて殊更ありがた
くも御上様御憐愍深く、前年に相替らず漁師へハ時々御拝借
仰付なれ船網多分に出来し、是に依て土地以前に倍して賑敷
繁昌しけり
安政三辰年三月吉日
海部郡牟岐東浦
津田屋喜右衛門自作
嘉永録
されは、去る嘉永七寅十一月四日毎例より、いたつて暖気に
て一天澄渡り漁師は[細魚|さより]網に沖出ありける内、昼四ツ時地震
動出し暫らく有つて汐先壱丈余の汐満干しけれ共此内、年に
よつてハ汐の狂ひし事も有けるゆへさしておそれもいたさず
其中にも[怖|おじ]おそれる人々ハ山へ食物着類鍋釜諸道具抔を持運
び何れも此処にて夜を明しける。其日暮方に及んで網漁少々
有けるゆへ魚商人は山より下り家毎に細魚三千五千壱万斗も
買取り、干物にしける。漁業に出たる人々は地方の者ども山
々へ逃行候。騒動をしらず何れも不思儀致し沖合にては、地
震潮のくるひ是なきよし其日昼七ツ時西に当り雲大に焼沖の
方一面に腰巻したるやう成薄き雲有、何とやら物凄く相見へ
其夜は火の用心を恐れ家毎に大体壱両人宛不寝の番を致し、
浜先ハ非人に言付篝火を焚、番を致させける処に、夜五ツ時
比より夜明迄に三四度も地震[動|ゆり]けるゆへ、井戸を度々見に行
ども替りたる事少もなく翌五日極晴天にて浪立なく風も無
く、殊外暖気なれども漁業には出ず、昨日山へ上置し家物諸
道具を我家へ持運び、大笑ひにていづれも家の掃除抔を致し
ける処に、其日は日の光りさへず[欝金色|うこんしよく]に相見へ有がたく
も、天よりの御告にてあれども、是に心付もの壱人もなく、
只毎例のことくに居ける処にされば昼八ツ時比、沖合震動し
て諸方鳴渡り天地も砕るばかりの大地震、前代未聞の大変諸
人魂も消入るばかり、スハ珍事そと思ふうち、瓦家根は瓦飛
散り、地中一円に響き[破|われ]、七ツ時に津浪に相成り、其烈敷事
中々言語に延が(ママ)たく、着類諸道具も打捨、命からがら八幡山
海蔵寺観音堂背戸山西岡畠或は灘村川長村其手寄々々へ逃去
り、山にて見物しける処に浜先の家々数百軒土蔵にいたる迄
黒煙り立、土石を飛し只ぐわらぐわらと将棋の駒を倒すごと
く、家壱軒も残らず、流失中にも土蔵四五ケ所[計|ばかり]、相残り、
風汐の高さ三丈余、又ハ山々の麓へ指込候汐先五六丈とも相
見へ元来津浪ハ大海乃高潮とも見へず出羽嶋小張のはな、ま
たハ浜先より相起り地中よりハ水を吹出し流死の人数弐拾余
人其夜は格別寒気強く夜四ツ時比亦々沖間鳴渡り大地震動出
し最早山々も崩れ今も命を失ふかと、其おそろしき事中々筆
紙にも尽しがたく、いかなる者も気もたましいも飛散、慾も
徳も打忘れ人毎に一心に南無阿弥陀仏を唱へ家内は手に手を
取替し、数千人の人々今も落入かと思ふうち夜明迄十四五度
も地震ゆりながし、又々津浪上りけれども夜の内故、見へず
翌六日強慾非道なる者は、夜の内より松明を燈し、人より先
に山より下り拾ひ物数々致し山々には流家の古道具を拾ひ来
り、小家をこしらへ候得ども、水一向になく谷々亦は灘村川
長村の田地の縁にて泥水を汲来り、漸相凌ぎけれども米、
酒、味噌、醬油、塩に至るまで、売手なければ、是に難儀い
たしける津浪は満干三度宛あり、是を一番汐二番汐三番汐と
先年より言伝へあるよし、然るに二三日経て御上様より粥の
御施行并壱人ニ付、黒米三合宛廿日間御救米、被下置、誠に
もつてありがたき事にて露命を繫ぎける。しかれども、此内
手元相応にくらせしものは帳面に赤印を致し、御役人衆よ
り、相渡不申、心なき人之然ハ、日々着類色々拾ひもの致し
ける処に、御上様より御吟味つよく、日和佐浦御郡代様より
御制道方御役人御配にて、小家々々を御改被仰付、捨主へ御
取返し下され候へども、拾ひ人ハ色々隠し皆々出し申さず、
大体は引汐に流れ出、夫々行方知れず、扨又浜先に登し置候
船、或は湊に繫し漁舟売船数百艘并網類またハ溺死の人々給
人共弐拾人余田の中谷々沖間へ流れ出、日々是を尋ねるけれ
ども茅葺の家根、山の如くへに流れ上り其混雑中々目もあて
られず富貴なる方、質屋には着類諸道具に至る迄土蔵に入
置、戸仕舞致し[逃|にげ]去りけるゆへ猶もつて大損、貧なる方には
何壱ツ流さず人々の捨たる物を拾ひ取、徳は得たれども年月
立にしたがひ矢張もとのごとくに相成何れも以前に変りたる
事なく是までの通り家業を致し暮しける。されども日により
絶ず昼夜に大小の地震三五度も動りける。其冬年号改元有て
安政元年と成、八九歩通りは山にて目出度越年致しけれども
兎角地震の気、相止りがたく折々動りける此時、米相場九拾
文金相場七貫文銀札百文土地通用壱匁ハ先年より九拾文遣
イ、扨漁方には流れ残りの海老網に海老おふく漁事有、大魚
小鯛なども有けるゆへ、魚商人も船に怪我なきものは是を買
取、南売しけるに上方も入船数なく相応の儲に相成り、其後
山々より地盤の我屋敷へ下りて、仮家小家をこしらへ、其道々
の家業を仕けり。春は大魚小鯛、夏秋鰹魚、冬は細魚鰯など
時々漁事相応に是あり。夏秋鰹節古来稀なる値段にて目方拾
貫目ニ付、銀四百目余も致し商人も相応の銭儲ハ何連ども商
売道具すくなきゆへ是に難儀いたしける。しかるに御上様よ
りそれぞれ御見分有て、漁師へは船網の御拝借浦々共に仰付
られありがたき事に候へども商人諸職人江は御借付是なく、
又壱両年経て建家料としておもたる漁師漁頭へ銀札四百目、
中漁頭へ三百目舟子人弐百三拾目、小商人にも弐百三拾目宛
是も浦々共御拝借被仰付、其上は分限に応じ[足|だし]銀ヲ以家普請
致し、これより町内なミよく御上様より御繩張有て、頭立商
売人居屋敷七拾五歩より六拾歩五拾歩三拾歩弐拾歩漁師漁頭
へ三拾歩舟子一円に拾弐歩半宛、其暮し方相応の割符に相
成、津浪以前に相求ありし屋敷は御取上にて買方の損となり
けり。且又津浪汐先懸りの田畠にいたる迄、其いたミに応じ
五ケ年四ケ年三ケ年と御年貢御免被仰付、百姓も豊かに暮し
ける。夫のみならず東西両浦とも浜先に数百間の浪除土手出
来しける。まことに未曾有の大変にていづれも目と耳には成
たれども年経るにしたがい地盤に少しも相替る事なく渡世を
たのしミ暮しけるとそ目出度けれ
時に慶長九辰年十二月十六日津浪にて汐の高サ拾丈余それよ
り百三年を経て宝永四年丁亥十月四日海部辺にてハ壱丈余と
いへども当浦にては三丈余とも往古よりハ言伝へ有り。則海
部鞆浦町内の石に彫付ありしを爰に写し置候。宝永より当嘉
永迄百四拾三年に相成慶長よりは弐百五拾年振に三度も有け
れども其前々に浦中に書記是なきゆへわかりがたく、右様成
大変数度ある事ゆへ中々百年振にかぎり申さず、いつれにも
大地震動出し候へば、食物ハ勿論着類、鍋釜、其外雑具心に
任せ草履、草鞋などを用意し逃退必々四五日ハ山にて見合す
べし。横道を構へ油断致し候へば不覚を取後悔すべし。後人
決して笑ふ事なく右一条を相守り可申と前文ニも[延|のべ]るごと
く、御上様より下々御憐ミ有て御手当または御拝借時々被仰
付候故、取続申儀ニ候間広大もなき御慈悲の有がたきを忘却
すべからず。是は子々孫々心得のため愚筆にて書記し置候。
実に此度の津浪も夜中なれば死人怪我人夥敷あれども昼中ゆ
へ死人も数なく怪我人壱人もなき事を思へば、弥神仏の御加
護ならんと、いづれも天を拝し有がたく喜悦しけり、前文に
も申如く大地震なれば、人乃誹傍をかへりミず、兎角山へ逃
退べしかへすかへすも相心得可申候扨津浪前嘉永六丑年四五
月比家毎に毛虫おふく生じ身より蜘の糸のごときものを出
し、日蔭なる家根または庇へ這出、折節は人をさすに其いた
ミ絶(ママ)がたし。是をいら虫といふて大毒虫なりといへり。五月
入梅のころハ猶もつて沢山に生じけるニ付、諸人奇意の思ひ
をなしける処に六月土用の[比|ころ]はいつとなく失けり(中略)
跡にてハ津浪の[前表|まえぶれ]にても有なんと皆々打寄咄し合致しけ
る。是に依て大変抔には前々に天よりしらせある事ゆへ無疑
惑、何れも正直をまもり信心あるべし。此度の津浪後にも信
心堅固の家の専、繁栄するを見て知るべし
一西浦分、人家弐百余軒、土蔵納家亦ハ漁船商船網類にいた
る迄、東浦同断に残らず流失、また中村の内五六拾軒ばか
り流失、出羽嶋人家六拾余軒、其外納家漁船網類流失、其
内居宅拾五六軒ばかり相残り申候
一大島家数弐拾軒余、此処ハ小高き場処ゆへ汐先漂ひしばか
りにて壱軒も怪我なし
海部鞆浦石文の写し
敬白、右意趣者、人王百拾代御宇慶長九甲辰季拾二月十六日
未亥刻、於常月白風寒凝行歩時分、大海三度鳴人々巨驚、拱
手処逆浪頻起、其高拾丈、来七度、名大塩也剰男女沈千尋底
百余人、為後代言伝、奉興之、各々平等利益者必也。
宝永四年丁亥之冬十月四日未時、地大震所、海潮湧出丈余蕩
々㐮陵反 三次而止、然我浦無一人之死者、可謂幸矣、後之
遭大震者予慮海潮之変避而焉則可
右は、海部鞆浦町内の石に切付ありしを爰に写し置ものなり
安政四丁巳年七月庚辰朔日、卯辰のかたより西のかたへ雲は
しる事矢を射る如く、五ツ時東風辰巳風吹出し其はげしき
事、古今稀なる暴風にて家々の家根は勿論、戸前まで吹とら
れ騒動大かたならず、一時のうちに高[南風|まぜ]にかわり、ますま
す大時風と成り、前の[辰巳風|いなさ]よりハ猶もつて烈敷、其比は津
浪後にて浦中七八歩通り新宅と成其余はいまだ小家に居ける
に二時程のうち数百軒ばかり、吹倒し山々の大木打倒れ小木
類枝葉に至る迄切放れ、まことに前代未聞の大風にて昼八ツ
時[比|ころ]より吹沚となり、七ツ時に漸静けり、其後、御上様より
倒家修覆料として夫々へ銀札四拾目宛被仰付、有がたき事ど
もなり。余り[珍布|めずらしき]大風故書記し置く
附録
時に安政五戊午八月上旬夜八ツ時東へ当つて怪星出現有、人
々是を[慧星|ほうきぼし]またハ豊年星なりと言り。此星九月上旬に至り宵
の中より戌の方へ廻り御光澄渡穂先壱丈四五尺斗も有て北の
方へ向ひ、月夜の如し話人是を怪ミ、何事の[前表|まえぶれ]やらんと案
しける処、上方より諸国一統[頓転離|とんころり]といふ異病流行有て、江
戸より東海道筋死するもの幾万人とも数しれず。当辺にも専
ら是を煩ひける所に夏向の惑乱に等しく腹痛吐逆有またハ暴
瀉して[病付|やみつき]よりわずか二三日の内に死すもの多有に付、医師
も右の手当にて療治色々手を尽すといへとも、極難症にて薬
力も届きがたく拾人に[漸|やが]て一両人ならてハ全快致さす。老生
不定の世の習ひ壮年の輩多、是を煩ひ老人小児なと煩ふ事な
し。元来移病にて看に打寄咄せし人翌朝頓死するも有て、其
危事薄氷を踏如く、実に希有成病也。[弥|いよいよ]世上物騒と成夜は
町の往来なく何れも怖恐、神仏を祈、家毎に門足ハ神社仏閣
の御札守を張付、専ら信心致ける然るに誰いふ[言|いえ]り赤きは海
辺に賊出来するといふ。また青黄色は天下に乱有と古書に見
へたり
されは去る安政四巳年に亥年迄七ケ年の間御上様より質素倹
約の御触仰付られ、尚又、隣家五軒組合にて[御究書|おきめがき]下置さ
れ、有難御示に候得とも是に心も付す、上方の風儀を学び時
節がらを弁へず、家宅衣類等まで花美を尽し、万事驕奢にし
て分限に応ぜせる事、[争|いかで]か長久永続有んや然るに当午年時節
黒白と替り、近年の不漁其上夏秋比より米高値にて白米百五
十文麦安百文金相場七貫三百文と成、去る天保年中の飢饉に
も異ならず、取分、浦辺ハ陰陽の年柄有て譬へ陽年たりとい
へとも土地の職がらにして希に諸事貯へる事なく、故に陰年
には自ら衰る事早し。[況|いわんや]津浪後卯辰巳年は相応の年にて有
ける処、わづかの年月にも、斯雲泥の相違有事恐れ慎ずんハ
あるべからず。是に依て諸国とも、諸色不景気と成、金銀不
融通にて地(世カ)中・以の外に困窮に及びけり。右、年柄にて倒家
未た弐拾四五軒も普請成就もせず、有ける所、其冬十二月廿
四五日比御上様より倒家の者共御役場へ召寄られおもたる漁
師舟頭へ銀札百八十目中舟頭へ百六拾目、舟人并に商人へも
百五拾目宛是を下し置れ、何れも有難く頂戴しけり。誠に以
御上様[御労|おんいたわり]にて当浦にかきらず、津浪後には尚更幾度か御
拝借仰付られ広大もなき御慈恵冥加に余る事とも也と、他国
人々是を聞て羨ざる者壱人もなし。諸国に勝れて格別に御憐
愍の御国成と心なき下賤の者迄御代万々歳と祝し奉けり
永正九申年八月津浪にて宍喰浦残らず流失有。其時、老若男
女三千七百余人死亡し尤浦の城主藤原朝臣孫六郎殿、此両主
領せし家数下屋舗御家中百三拾軒此間拾五軒ハ御城内分百五
軒ハ諸家中町家千八百五軒ハ拝地百姓地。此記宍喰浦に是有
しを[需|もとめ]て写し置もの也
夫より九拾三年を経て、慶長九辰年十二月十六日辰の半刻よ
り申の上刻迄、大地震にて大海三度鳴渡り戌の下刻月の出上
る比、大浪と成、海上以の外、すさまじく浦中の井泉より水
湧出る事弐丈余も上り、大地さけ泥水を吹出し、言語を絶す
る大変也。当所は、勿論、家壱軒も無し。人多く損し、其数
かぞへかたし。此時宍喰千五百人溺死有と筆記残る。誠に目
も当られぬ死骸也。久保在の間弐ケ所惣塚を拵へ、此所に埋
て石仏の地蔵を建置有之候。是も宍喰浦乃筆記の写也
宝永四年亥十月四日巳の下刻より午の下刻まて大地震にて其
日ハ殊更天に雲少もなく四方に風絶、何となく只暖気止事な
し。しかるに地大に震ひ所々多く地割れ人々歎く事限りな
し。[否|やや]有て、大汐来る何れも山々へ逃行、此時となく右星よ
り毒下て井戸へ入、此水を呑時は忽煩ふなりと評じけるに
付、夜分ハ井戸に蓋を致けり
是に依て当浦八幡宮御神前に於て厄病退散の御祈禱有、寺院
にては一般若経を読誦しまたハ、舟を造、一七日の間不動明
王の文を唱、昼夜町内を持まハリ、結願には、右舟を海中に
浮へ流しける。将に神仏の御加護有て、病気も次第に納、慧
星も九月末の比は戌より申未の方へ廻り薄く成て消失けり。
其比京都にての御歌、
[篁|たかむら]の空に出たる慧(ママ、箒カ)星はくもの(ママ)もなき君の御代かな
君が代になにゆへ出たる慧星、穂先白し是は難病生す印なり
と拾弐三端の廻船並に漁舟拾三艘、大宮の方へ流れ込、山ハ
東光寺山愛宕山手倉山山の神観音堂等。老若男女声を斗に子
を呼び、親を尋おもひおもひに呼歎事、何に譬ん方もなし。
此時汐の高さ壱丈余にして町ハ多善寺の内にて漸く六七才(尺カ)位
の事也。善祥寺近所は座上にて壱尺位也依て鞆浦ハ家の損し
なく人壱人も怪我なし然れども三度迄火起り、大勢して取消
納めしかども終に谷町三軒焼失せり。其後地震ハ幾日という
事なく昼夜の差別是なく動り沖の方ハ折々鳴渡り、山ハ大筒
の響く如く依て数日山にて住家居致し暮しける。大地震の時
ハ出火用心すべし。また大汐と心得べし。只山へ逃る事第一
也。必舟に乗るべからず、諸方にて船に乗て死たるもの多
し。此時、多(他)浦の様子を聞合けるに宍喰には死人拾壱人にし
て家壱軒もなし。浅川浦に百七十余人死して家壱軒も無し。
牟岐両浦百人余死して是亦家壱軒もなし。其余浦々家并に人
損したる事多しと言ふ是ハ鞆浦に筆記有之後年の心得にもな
らんかと宍喰より鞆浦迄の有様を撰写すもの也。