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項目 内容
ID J1800521
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔鳥羽誌〕M44 曾我部市太編・志摩郡鳥羽町
本文
[未校訂]此年十一月三日四日に亘り志摩国大海嘯あり、封内沿海の地
悉く荒壊し鳥羽最も甚し、海岸は通行し難く、城の矢狭掛塀
流失す、乃ち幕府に具申し時勢に鑑み、藩士一同の力役に依
り土塁を築く、又礮座を城の右に三ケ所、左に三ケ所、裏手
に(今の梅林の処)に一ケ所、城外の岩崎に二ケ所に設け防
海の要に供す、是亦役を藩士に課して農夫を用ひず
△菅島能登砦址 字城山に在り、海岸に接するを以て、怒濤
至る毎に地形を崩潰し、殊に安政元年十月海嘯のため其大半
を失ひ、今儘かに丘阜を存するのみ。
△汐溜池 相差字福中新田の汐溜池は東西六町四十間、南北
二町半、周囲十四町四十五間、面積二万百五十五坪、茅原新
田の汐溜池は東西二町五十間、南北三十間、周囲六町四十
間、面積四千八十八坪、池中の汐溜池は東西三十五間、南北
三十間、周囲五十五間あり、此三池はもと田地なりしが、安
政元年海嘯の為めに陥没して汐溜となり、今は只田圃に潮水
の入るを防くに供す。
△伊加賀池、相差字伊加賀に在り、鮒及び鮭を産す、安政元
年の海嘯にて海に通ず。
△千賀氏城址 千賀字城山にあり、永正年中千賀志摩之に居
り北畠氏に隷す、永禄年中織田信長、北畠氏を亡し、此地九
鬼嘉隆の有となるに及び、舟行して尾州の師崎に遁る、遺址
近世まで存せしが、安政元年(二五一四)の海嘯にて大半崩
潰せられ、其残余は東西十五間、南北三十間、今民家及び耕
鋤の地たり。
△浜島砦址 浜島に在り、全山城山と称し、樹木欝蒼たり、
所々に井あり、西方を湯殿谷といふ、往古小野田筑後(後九
鬼嘉隆に属し九鬼豊後と称す)之に居り後廃す、今地を開き
畑五六反歩を得、是より先き安政元年(二五一四)大波のた
め山地東西十五間、南北五十間崩潰したる中に、昔時其地を
掘りしものと見え、深さ二丈許土皆枯黒にして濠底の土の如
きものあり、仍て試みに其地を掘りしに、松樹の腐朽するも
の数本及び花崗石燈籠一基、古瓦数枚等を発見せりといふ。
△志摩橋 穴川字中街道より鵜方村に通ずる木橋にて一名座
頭橋といふ、池田川に架す、長三十間、幅七尺の欄干附、も
と渡津なりしが、慶長年中、旧英虞郡諸村の居民協力して、
始めて橋を設け、屢々水災に逢ふ、嘉永六年十一月震災に罹
り流失し再び渡船となる。
△先城崎字浅瀬に在り、海中に斗出すること一町余、万葉
集に見ゆる前記の佐堤之崎は此所なるべし、岬頭に武田左馬
之助の砦址あり、もと樹木繁茂し、林中八幡社ありしも、安
政元年十一月四日(二五一四)海嘯の時、土地大半崩壊し、
樹木神社為めに流失し、八幡社を内田に移す、今僅かに松樹
両三株を存するのみ。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1316
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 鳥羽【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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