[未校訂]○津波と飢饉
新しい記録では安政の大地震による津波で、沢山の人々が流
されて死に、その後日には餓死者が沢山でた。又、三カ年続
いた天保の凶作の時は野山には食べる草木もなくなつて、こ
ばんを口にくわえて死んだ人もあつたと伝えられている。志
摩地方の古老に「申酉越えて戌のこわさよ」と云うことわざ
の意味を教えてもらつたが、戌の年を生き抜いた者が始めて
生きた心地になつたといわれている。
○安政地震と大津波の記録(部分的)
安政元年申寅十一年四日朝、五ツ半頃、俄かに大地震あり、
引きつづき大津波にて鳥羽御城内に於ても、諸々の高塀残ら
ずくずれ破れ、御玄関前は上の柱之根迄汐が襲来、尤も御門
は残り、又、御馬の儀は八幡山へ登り助け、尚、御家老始め
家中の御宅々も右同断、相橋門は残り、岩崎の家々も大方い
たみ、福泉坊はみぢんにくだけ、其他板塀割場の家々等残ら
ず流る。
本町口御門も打倒れ、その後、万力にて之を起す。本町は半
分位浪波につかり、片町は常安寺迄汐行き横町は光岳寺御門
の石面まで汐来りて、升形のみは残りたり、御堀の儀は行き
ぬけに相成る。中之郷は一軒も残らず戸障子、たんす、長持
ち等の類、皆々流れ行く様は大海に浮びたる船の破船したる
が如し。
勿論、始めの地震に恐れて船に乗りたる人ありて、此の時
五、六人死す。又、川岸ばたの家々は或いはたおれ、又はく
だけ、横町、藤も同断。
是によつて子供は申すに及ばず、老若男女のさけぶ声天地に
ひびく、此の有様は、この時こそ日頃の欲は更になし、只命
を願うばかりなり、是によつて町家の人々は家中が山々、谷
々に住居をなす、頃は霜月上旬のことなれば寒夜の凌ぎ憂う
事洵に目もあてられぬ次第にて加茂あたりより見舞として
来、藷の類を其のしるべしるべに贈ることあげて算へ難し、
且又、五日より日々御城内の人足に参ることが、加茂五カ村
より都合千人の御手伝いにてやらい竹並に繩等もかかる。
尤も其後その食米としてぬれ米のむしたる米を一人前に六合
宛下され繩竹の代も下り候。其他海辺あたりの村々先ず堅神
村の観音院は本堂計り残り余は沖中へ流れ行く、是よりひく
みの家々は皆流れ、玉泉寺は凡そ地面より八九尺程汐につか
り、其外、小浜、桃取、答志村皆同断、菅島村はさしたるこ
ともなし、坂手村は寅の前迄井戸へ汐くずれ込む、尤も家々
にはかまいなし、また船津村は三十四ケ所新田堤の破れ、木
場の木は残らず流る。
汐は森の下迄来りて大海を見るが如し、尤も加茂はこぶし山
辺りの川迄汐来り、さて又、安楽島村は十月二十四日の夜九
ツ時より大火にて伝法院も焼失致し、応永寺計り残り誠に難
渋至極の折柄、又候、此度の津波にて水火のせめ苦に逢うが
如し、其外今浦、本浦、是も寺計り残り田畑に幾千万という
魚流れ死す。
相差村は大方流れ、甲賀村はわけて死する人其数を知らず、
越賀村は普門寺も流れる。其外、海辺の村々は皆少々所(宛)の事
に不候、此辺も五十七日の間は地震度々やむことなく、此
故に麦畑等に戸板囲の小屋を建て我が家を逃げ去り居り候。
但し、火番等は村中替る替る厳重に相廻り、その後、三、四
月過ぎ候も時々汐の高満やまざりけり。又、卯年八月大じけ
に汐まぢりの雨ふり候。是末世に至り記録なくならんことを
思い今茲に書き置者也。
安政四丁巳冬改記 志州答志郡松尾村
(現松本玄之助氏祖先) 松本吉八拝持
舟津町
○安政の津波と火事 同年十一月四日の地震による大津波で
里は全滅したという。