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項目 内容
ID J1800473
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔御隠居様〆殿様江被仰附候地震の説〕飯田市立図書館・市岡文庫四二ノ一
本文
[未校訂]昨七日五郎熱田へ参り一説承り候ゟは大変の由無躰にツフレ
候由能普請の家かゆら〳〵致し傾キ候上傾き候儘にて済候由
五郎うどん屋へ入うとん食候処高見(カ)の噺しに新井御関所人も
家も津浪にて取て余り候との実説にて東より来候旅人の説の
由津浪洋中にて弐つに割れ壱つは新井へ打掛壱つは舞坂江打
掛け舞坂壱宿泥海ニなり候由
五六万石大名熱田に泊りに参り被申候処本陳其外問屋二十五
丁橋辺に野陳の由二泊り三泊りの処藤川にて本陳へ入候のみ
其外皆野陳掛川大荒死傷多候而今度の参府木曾路に丁(ママ、ナカ)り大き
都合能マダ正月位にては東海道旅行迚も六ケ舗候得とも熱田
社内無事ドコソ損所は無之候と五郎余程気を付見廻り候得共
燈籠は勿論絵馬も動き不申不思議と申も中々の事也八剣宮は
モハヤ所々損し秋葉文珠に至る迄大破の由五郎東ゟ旅人の語
を聞候処此辺はマダ仕合也と申して過候由東向は余程大変と
相見申候
伊勢ゟ大荒町家二三丁津浪にて取て行候由也
案スルに津は海辺少し停り居候此説少シイカゝ
鳥羽城下二階迄水つき候由
案スルに鳥羽と多度と□近し何レカ信(カ)ナルヤ其一つは誤
アラン若クハ両山共ニ抜ケシニヤ
桑名ゟ渡海の船途中にて逆波高立を見て船頭云地震也夏ゟは
強し早く避クヘシトテ船ヲ地高へ付候中に海水忽ニゴリ来
□臭き事甚舗陸へ上り候頃船江波打掛ケ小船の砕け等流来
候由
案スルニ今度の地震南方洋底の大脉発動ヨリ起リタル事
ト見ユ南はイセゟ三遠甚舗西北美濃江州の様子ハイマタ不分東は大
久手辺迄凡四五十里の荒也何れ大洋の変也
建中寺所々損し候由寺内の費千両と申事也内々は 御石碑も
壱つ倒候と申説也 僖公か 懿公か不慥
其地山上にて百姓見候雲気の事此方にても説有之西方鳴り候
間雲弐つにわれ候と申候
寛之助様へ大河内存真毎日(カ)伺に出候由銀なども拝証相済候上
地震直ニ御庭へ御開其後其(ママ)後御庭へ御かり屋出来之由ニ候夜
気に御当も恐入候迚御入かわ端近の所に御座所しつらいおき
御開出来候様相成申候由
今日五郎上田へ参り 御城の様子承り候処 御天主はされと
無事の由其外御殿向御張付の裂け候処柱のわれ候処誠におひ
たゞしく言語ニ及ひ不申と申候由多門なと壁落アミト之様に
ナリ候処有之候と申事也
新井御関所の前の処江船壱艘死人六七打揚候由是は慥に注進
有之由
上田説に云是は同大洋大脉の変也前ニ認候われあ□□鳴に符合也早々大分ジ
ヤガタラ国辺大地震有之哉モ難斗左候ハゝ外大洋より事起り
候半も難斗何れ一大地毬の損し也誠に不容易と申候由此外上
田圭介等種々の説あり筆紙難及候
冨永にても損所六七万金之費と申こし候諸家多少は有之候得
共先ソコラコゝラの事と相見候此屋舗下地の破れ屋マタ此位
ニテスミ候は仕合と存候隣の桜井も土蔵大損しに付住居向に
損所多く候と承り申候得共是は見不申候
十一月八日朝ゟ追々相認夜六半頃書畢ル
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1225
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 飯田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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