[未校訂](注、〔恕軒日録乾〕の引用および「史料」第四巻一五七頁上七行以下の被害と同文につき省略)
これについて花園町正琳寺過去帳書入れに
嘉永七年、此歳霜月四日辰下刻大地震御城内大破損、市中
大破、御坊五ケ寺大破、築地等悉破損致し候故夜々衆僧賊
難を妨為に相廻る位之事也誠に前代未聞之事也
とある。この地震朝五ツ半時、或は辰下刻とあれば今の午前
九時頃で可なり急激な地震で、それにしても倒壊家屋に較べ
て圧死者は意外に少なかつたのは昼間であつたればこそで、
海嘯も他所程甚しくはなかつた様である。そして失火の全く
なかつたのは時間的にもよかつたがまた当時の人々の地震に
対する心懸けにもよるであろう。
この地震で大橋も少々傷んだが通行に差支える程ではなかつ
た。藩では復旧のため幕府に対し拝借金を願出た所金参千両
の貸付を受けることになつた。然しどこ迄復旧されたか、御
殿や役所向などは兎に角隅櫓石垣などには手が及ばなかつた
様である。
それまで吉田城には本丸の四方に辰巳櫓、千貫櫓、入道櫓、
鉄櫓の四つ、その西方に川手櫓、雷櫓があり、南方に着到
櫓、評定櫓とがあり、城門も二層で櫓の形式を備え合せて九
つがあり、この内潰、傾、大破したのが六つであるから満足
なのは残る三つで、これより十四年で明治維新となり、その
四年八月藩主は東京帰住を命ぜられて此地を去り、六年二月
には失火で御殿などの建物を失い、残つた建物二十棟は明治
九年八月入札により払下げて全くの空城となつた次第である
から完全な復旧をせずに終つたものと思われる。