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項目 内容
ID J1800474
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔尾三遠地震小史〕S37・9・5豊田珍比古著・発行
本文
[未校訂](注、〔恕軒日録乾〕の引用および「史料」第四巻一五七頁上七行以下の被害と同文につき省略)
これについて花園町正琳寺過去帳書入れに
嘉永七年、此歳霜月四日辰下刻大地震御城内大破損、市中
大破、御坊五ケ寺大破、築地等悉破損致し候故夜々衆僧賊
難を妨為に相廻る位之事也誠に前代未聞之事也
とある。この地震朝五ツ半時、或は辰下刻とあれば今の午前
九時頃で可なり急激な地震で、それにしても倒壊家屋に較べ
て圧死者は意外に少なかつたのは昼間であつたればこそで、
海嘯も他所程甚しくはなかつた様である。そして失火の全く
なかつたのは時間的にもよかつたがまた当時の人々の地震に
対する心懸けにもよるであろう。
この地震で大橋も少々傷んだが通行に差支える程ではなかつ
た。藩では復旧のため幕府に対し拝借金を願出た所金参千両
の貸付を受けることになつた。然しどこ迄復旧されたか、御
殿や役所向などは兎に角隅櫓石垣などには手が及ばなかつた
様である。
それまで吉田城には本丸の四方に辰巳櫓、千貫櫓、入道櫓、
鉄櫓の四つ、その西方に川手櫓、雷櫓があり、南方に着到
櫓、評定櫓とがあり、城門も二層で櫓の形式を備え合せて九
つがあり、この内潰、傾、大破したのが六つであるから満足
なのは残る三つで、これより十四年で明治維新となり、その
四年八月藩主は東京帰住を命ぜられて此地を去り、六年二月
には失火で御殿などの建物を失い、残つた建物二十棟は明治
九年八月入札により払下げて全くの空城となつた次第である
から完全な復旧をせずに終つたものと思われる。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1226
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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