[未校訂]S52・11 関七郎著・遠州出版社
島田宿の時計師大武清太郎は見付宿古田屋平八方で細工を依
頼され同家に逗留中この地震にあつた。避難した同家の中庭
の三方にあつた蔵も崩れたが、ようやく難をのがれた。
四日五日六日右三日の間昼夜とも揺れながし、六日夜、う
ちより迎い来り、七日に見付宿出立致し、見付宿七分通り
つぶれ、出火無し。袋井宿総つぶれ、出火にて残らず、焼
死百二十人ばかりこれ有り、宮寺は申すにおよばず、掛川
宿立残りたる家一軒もこれ無く、右掛川宿入口、十九首よ
り出火にて半焼の宿内総焼けにて土蔵一つ残りたるばかり
なり。御城みなくずれ、宮寺は申すにおよばず人死、二百
人ばかりあり。
秋葉山唐金鳥居、小松たおれ、往来には三尺ばかりの穴あ
き、又二町ばかりの内片道三尺通り地にめりこみ、また
四、五寸ばかりのエミ入り、ようよう日坂宿にまいる。
見るところ当宿は格判破そんこれ無く。峠茶屋皆つぶれ、
往来へ土より水吹き上げ道悪し、ようよう島田宿へ帰宅
す。 (島田宿 大武清太郎 年代記)
(中略)
佐野郡高田村(曾我若狭守知行所)庄屋大場庄兵衛が万代記
録の中に
嘉永七年甲寅霜月四日辰上刻古今稀なる大地震にて地裂
け、大石転落、大木倒れ、家居潰れ倒れ候、堤総て割れ川
水辺に涌出水差あるなり。海辺は大濤陸へ上り、黒煙は天
を焦し、諸人魂飛も只夢の如に御座、見付宿半潰、多く七
八分助り候、天竜川東総て見付西南乃倒潰し海辺筋は三ケ
野坂より袋井在東西南北、掛河在東西、横須賀西より掛塚
辺迄総て、皆潰れ、山梨東西、森町近辺迄、宇刈谷、各和
村辺、大概潰れにあいなる。掛河御城内天守一蓋崩、御門
残らず総崩れ、御殿は残り候由、町方八九分焼、袋井宿総
て焼け死亡数知れず、山梨七分焼失、横須賀御城門御天守
事なし、御門、御殿土手総崩れあいなり候よし、川筋又砂
地田面通家多く倒れ候、塀垣扉口動き皆倒斗りにあいなり
夫々来入致し候事、山手、奥手ことなし、村方永注寺境内
西より西、市三郎屋輔へ掛り観音堂西およそ六・七丁程、
図の如く地割れ、陥落にあいなり、東方凹み西の方凸くな
る、
家悉く損じ潰屋六・七軒ござ候
東日坂辺少破、金谷同断、府中迄同断、伝馬町焼失、江尻
宿焼失、蒲原宿焼、岩淵大破、野賀島辺大破、
但し曾我若狭守様より御救米 潰家 一俵
半潰 二斗宛
杉浦主税様より同断 潰家 一斗宛
半潰 七升
並 五升
久野福二郎様より同断 並 一斗宛
吉岡村御地頭様
本多丹波守様より吉岡村
御救米 潰家へ 一斗 金子一両
半潰 七升 金二分
並 五升 一分
ほかに領主様より夫々に御救米多少これあり候
松平美作守様より潰家へ米一俵 三十切宛
同月二十日頃近かく小屋掛致し住居致し候 霜月末迄大動
き候、後四・五斗小動にて打続く。
と周辺地域の被害と村内の状況、幕府直参旗本知行所の救済
状況を伝えている。
飛鳥村永江院の過去帳にも地震の被災の模様を記している。
十一月四日朝五ツ半大地震にて、当山諸堂大破損、その他
衆寮・禅堂・経堂・大門・長屋門・雑蔵など皆潰れ、未寺
壇中ともことごとくあい潰れ候
掛川宿は潰れそれ故十三町のこらず焼失也。御天守中段よ
り上はあい潰れ。家中までことごとく皆潰れ
御壇中内地震焼死二十一人死也
四日大地震より毎夜四十五返宛も相ゆすり候故、四日より
同月二十四日迄野宿致し候
此月二十五日より年号改になされ安政元年と御触になる
翌二年正月中地震日夜六・七返もあいゆすり候
(永江院過去帳書き込み二十七世水応真竜大和尚)
とあり、寺の過去帳には被災死亡者の記事と共にその書き込
みに災害の様子を克明に記したものがある。
次の広楽寺過去帳に見られる記事は後世読者を意識して市中
の被災状況をよく記録に留めている。(注、前出、省略)
大地震日記(了源寺)
四日 晴天 倉真村佐平治へ投宿、朝起話する、このとこ
ろ、辰中の刻と覚しき頃、大地震門前池水、半分過出
で、門・蔵・庇おちる、急ぎ帰る、このところ、火の手
処々見え、掛川と覚へしところ火の手見へ、老父兄急き
行き、惣蔵を連れ、帰る途中大地一尺又は二尺はば、深
さ五六尺程にえむ、御たん田辺へ来るところ、徳円寺家
内中来り、町中大変通行不成様に申すにつき、共に大変
の罷(ママ)を見合せ居り、七つ前頃西家中よりまわり来る。家
内の衆亀甲村叢中に居るこの由叔父に聞き亀甲村に到
り、文庫おき来る、このところ老父、兄御宝物を出し、
夜具を出し、居の処に来り、夜具二度はこぶ、飯無し、
夜明方迄火事不罷、夜西方雲気出(ママ)おち、領家利右衛門類
焼と申也
五日 晴天 かたつけ 此日大坂地震つ波とやら風評あ
り、鐘堂横霜よけ作
六日 晴天 家内亀甲より帰る
七日 晴 夕方少々雨落、鐘堂北仮室移る
十六日 大雨 大難儀家中傘なく終夜寝ず
十七日 晴 大風 仕事休止(十八・十九日晴)
廿日 晴天 地震遠間とは云へども間々に入
廿一日 天晴 地震間々あり、かたつけ
廿二日 晴天 夜中余程大き地震いる此日かたつけ
廿三日 陰天 障子張家内の衆屋ふき、倉真村より仮屋一
さし来る、夜屋舗取話
廿四日 晴天 瓦かたつけ、辻番つくろい張りあんどん張
る、此日倉真村より仮屋はこぶ、夜空□地震後ゆり猶不
罷
廿五日 陰天 大風、釘のばしさす、処々かたつけ夕方
迄、此日七ツ頃より雨ふり出し、倉真村惣同行仮屋た
つ、夜空□夜中余程大きい地震入るとかや寝入りて知ら
ず
廿六日 雨天、釘のばし、此日倉真村手つだい不自由、餅
つきくばり也、はたき餅、此日仮屋棟上酒買夕方村入用
取に来仕事、八ツ頃より少々晴、此日朝六ツ時頃大きい
地震入
(廿七寒空晴~廿八日大風寒空しぐれふる~二十九日~
十二月四日晴天まで略)
五日……地震来罷夜空□夜半四日の地震におとらざる大き
いのが入
六日 晴天 かべぬり大工・しやかん来
七日 晴天 大工床手つだい
八日 晴天
九日 晴天 瓦ふき、夜七ツ半頃中町うるしや出火松屋の
きし迄類焼
十日 晴天 地震一度 瓦ふき 夜地震度々入とかや
十一日 晴天 仮屋瓦ふき終る
十二日 晴天 夕方屋移三間也
十三日 晴天 障子張
十四日~廿日
廿一日 大風、しぐれふる、ひさし囲いはしごより落る
廿二日 晴天 地震大きな入る 板敷床作る
廿三日 雨 昼より晴、床作る
(裏表紙に地震後日記帳松本専□とあり、内容より了源寺十
世廓然和尚の家族の者の手記と考えられる)
以上十一月四日より十二月二十三日まで一ケ月半の記事があ
り、震災と仮屋の再建・余震等について抄録し、人の出入り
や私事にふれる事は省略した。たまたま本震の当時軟弱地盤
で大被害を受けた市街地より離れていたため記者は震災に対
して割り合い冷静であり、被災の中に暮らして災害そのもの
はあまり記録していない。
掛川市内での地震の状況については当日(十二月二十三日)
天気は晴、温和とあるから初冬によくある小春日和か、朝は
静かで昼頃よりの季節風が吹く冬型の気候であつたと考えら
れる。平穏な朝であつた。前震というべき小地震や前兆につ
いての記録はない。朝五ツ半頃(午前九時頃)突然大地震に
見舞われた。地震は鳴動と共に始まりその直後に本震が襲い
震源に近いため激しい上下動の揺れが数分続いた。「一間程
ずつも上げ下げこれあり海荒れ、浪荒れの如く、またまた大
地浪の如し、」(兼子氏文書袋井市史資料三巻所収)と表現し
ている。宿内の家屋は残らず揺り潰れ、建物はすべて崩れ壊
れた。地震の突き上げは地上で地震動の加速度が加わり瞬間
的に重力が異常な状態になり反動で物が飛び上り家がもち上
げて落すように崩れ、潰れるように転倒し、人も物も重心を
失つて立つていられない。平野部の市街地の町屋は軟弱な構
造で、大半は倒潰している。台地丘陵部の城と侍町もかなり
の被害を受けた。城郭や寺院は民家に比べると構造も堅牢で
掛川城被災状況
あり瓦葺土蔵造りの強固なものであつたが、屋根が重い上、
建物の振動に対する固有周期と地盤の関係から共鳴現象が働
いて大きな被害を受けている。
屋敷の土塀、板垣は各所で倒れ、石垣は崩壊している。掛川
城の天守台石垣は東面が崩れ落ちて天守閣木の下に集まり途
方に暮れ、其の夜は寒さを防ぐ方策もないまま霜露を頂だき
野宿、終夜眠られず、町は延焼夜明け頃ようやく鎮火し、余
震も遠間になつた。
翌五日 明方町役人達が藩の役所へ注進し、町内被災状況を
報告、城主よりの見分の役人も町々を見回り、御救の粥の炊
出しがあつた。町内では家々で片づけにとりかかる。処々で
行方不明の人を尋ね、焼跡より死人を掘り出し悲嘆にくれる
者もあつた。片づけの一方では雨露をしのぐ仮小屋を懸け掘
立小屋を作る仕事にかかつた。
晩七つ半時=午後五時大地震で人々が転がるほど揺れる。続
いて西南よりとほとほと地鳴が響いて人々は其の音を聞き、
立つている者は一人もなく、藪の中へかけ込み、今にどんな
地震が来るかと待つていたが被害を与える程ではなかつた。
これが中国・四国・関西に大被害を与えた南海大地震であつ
た。
以上諸記事による町内での地震の概要である。
掛川城の被害も夥しく、町屋の拡がる低地が軟弱地盤である
のに対し城山と、城西を除く侍町は第三紀層の泥岩の台地の
上にあり一般に丈夫な地盤のように考えられるが、固有振動
周期の関係から山地丘陵地の地盤が共鳴現象を起して城郭の
木造建築でも土蔵造りのような塗り籠めの剛建造物では、か
えつて被害を大きくしていると思われる。「御城内大破、天
守櫓をはじめ、城内外潰屋破損等数多くこれ有り、城内の儀
も、門々塀等微塵に裂砕いたし、御天守中段より上はあい潰
れ、御城矢倉はなかば落ち、御城は塀所々崩れ、御住居向瓦
屋根は所々見える。家中大半潰れ家にあいなり、その混雑は
言語に絶し」、と記されている。
掛川城の模様について藩の記録「役儀歴代」は次の様に記し
ている。
安政元寅十一月四日
一朝五時大地震、御城内天守半潰、御櫓二ばかり残りあと
残らず、御門残らず潰れ、御家中四ツ角より鼠穴少々残
る。大西・中西・金鋳場皆潰れ、二藤所々潰れ、竜華院
御霊屋損じ、宗林寺御位牌、御朱印、御系図は別条無
し。
翌五日御用部屋迄御裏門内より戸障子囲にて補い理る、
然る処未だ震動渡中に人家より入り候儀も相い成りて外
にまかり在り。 (役儀歴代)
被害状況については翌年幕府に提出された被害届、修復願の
絵図と説明の文書に詳細に記されている。
遠江国掛川城地震之節損所之覚
一本丸腰曲輪天守下石垣折廻一ケ所崩れ落ち
一天守半潰、櫓五ケ所潰れ
一囲塀数ケ所潰れ
右絵図朱引の通り、天守下石垣崩れ落ち候に付き築き直し
の儀、且つ又天守並に櫓門多門潰れ候に付き連々もつて元
の如く修復申し付けたく、もつとも天守の儀は大破につき
追つつけ取り建て候まで一先ずたたみ置き取り壊し候、跡
は土塀にて囲い置く、多門櫓向の内絵図掛紙の分暫くの内
仮の門建て置き、櫓跡は柵にて囲い置き、太鼓櫓の儀も追
つて取り建て候まで二階付の仮屋にて差し置き申し度く存
じ奉り候
右の段願い奉り候 以上
太田摂津守
安政二乙卯年七月
私在所遠州掛川城去寅年十一月四日地震の節腰曲輪の天守
半潰、同所下多門一ケ所、本丸銀杏門一ケ所、同所矢櫓一
ケ所、入口四足門一ケ所、中之丸不明門一ケ所、二之丸門
一ケ所、同所二重櫓一ケ所、同不二見櫓一ケ所、玄関下多
門一ケ所、三之丸鉄砲櫓一ケ所、同所太鼓櫓一ケ所、松尾
曲輪入口四足門一ケ所、同所南方水之手門一ケ所、外曲輪
追手門、二之門、二藤門、中西門、北門、都合五ケ所、其
外城囲塀□の潰れ申し候に付き、別紙絵図面朱引の通り連
々の如く修復つかまつりたく存じ候、もつとも数ケ所の儀
にて総体修復行き届き兼ね候につき多門櫓向きの内場所に
より追つて取建に換えつかまつりたく、右箇所は暫くの間
仮の門を建て置き、櫓跡は柵にて囲み置き、太鼓櫓の儀も
追つて取り立て候迄は二階付の仮屋にて差し置き申し度く
存じ候。かつまた天守の儀上の一重潰れ二重は大破にて、
石垣も崩れ落ち危なき体にまかりなり、とてもそのまま修
復あいなり難く候につき、ひとまずたたみ置き取り壊して
跡は仮に土塀にて囲み置き申したきことと存じて、追つて
取り建て候儀もござ候節はなおまた伺い候べき事、これに
よつて以下絵図奉り候、宜く御差し図所願い下し候 以上
月 太田摂津守
とあり、町奉行所と郡奉行所に報告された市中と領内郷村の
地震被害について藩の記録「役儀歴代」は詳細に記してい
る。
一朝五時過大地震町方十九首より新町迄のこらず潰れこの
上出火町方の者食物これ無く御米百五十俵取り下す。御
城中を除き町在潰大略左の通り。
一総町十三町家数千百十六潰れ焼失
内 五百四十二軒 焼失
三百七十四軒 潰れ家
内 百三ケ所 問屋七里助郷人足留場
四十五ケ所 厩
一土蔵 三百十四ケ所 寺院土蔵 二ケ所
内 百五十七ケ所 焼失
百五十七ケ所 潰れ
一物置 二百四ケ所
内 九十四ケ所 焼失
百十ケ所 潰れ
一寺堂庫裏 十八ケ所
内 四ケ所 焼失
十四ケ所 潰れ
一死人 五十八人
一怪我人 四十三人
一死馬 二疋
在方町方ハ同十一月二十四日にあり
一本屋別家小屋潰 六千八百八十一軒
内 本屋 三千八百五十七軒
別家小屋 三千二十四軒
内 四十五軒 焼失本家ばかり
一本家別家半潰大破 三千八百三十九軒
一土蔵潰れ半潰大破 六百七十四ケ所
内 四百五十八ケ所 潰れ
二百十六ケ所半潰 大破
一寺堂宮庫裏潰れ半潰大破 百七十六ケ所
内 七十六ケ所 潰れ
百一ケ所 半潰大破
但内一ケ所 焼
一御蔵潰れ半潰大破 六十七ケ所
内 四十六ケ所 潰れ
二十一ケ所 半潰大破
一怪我人 百三十六人
一即死人 五十人
内 出家一人
一番非人小屋潰れ 五軒
一□切付長吏小屋潰れ 五十八軒
内 二軒焼失
御城附小夜中山久遠寺并門前百姓
一諸堂潰れ
一本家小家潰れ半潰大破 二十四
内本家 十三 小家 四潰れ
本家 七 半潰大破
一土蔵半潰 一ケ所
(役儀歴代)
藩は直ちに市中と領内郷村の被災者に対する救済を始め宿場
町の機能の回復をはかつた。次の文書の内宿場、町方関係の
お下げ金米、貸付金米については「大地震極難日記」にその
内訳の明細が含まれている。藩の記録と庄屋の記事はその概
要を伝えている。
同月二十四日 震災に付き左の通り町在へ御下げ申し渡し
書略々
一金五百両 掛川町々下俣町十九首町共、内金二百両 本
陣旅籠屋共、金三百両町々一統焼失家潰家の差別渡、割
渡すべき事
右の外
米三百俵取り敢えず御下げ米。
米三百俵拝借□卯十二月返上。
金四百両当座あい借り当十二月返上。但し直利なし。
金二百両右同断来卯二月返上利付。
在方
米二千俵、遠駿御領分之内、細田村外百四十ケ村々の分
(役儀歴代)
大地震災害に急場為御救御上より被下金米
一金五両 御上より御救金被下高
本陣旅籠屋残らず焼失、本陣二軒、旅籠屋二十五軒へ
金二百両
総町家数およそ九百六十軒焼失および潰家へ 金三百両
一米三百俵 十三町へ被下
この配分方(省略)
右の外米三百俵の御貸し下げもありしが記事ことごとく省
略 (袴田銀蔵掛川城略年譜「鈴木家文書」)
覚
一米二千俵
駿遠御領分の内細田村外百四十ケ村へ
右は去る子丑両年旱魃にて御収納減にあいなりその上異国
船渡来たびたび豆州表へ御人数出張御用入用筋少なからず
候、今般稀なる大地震御城中御櫓ならびに御座敷向は勿論
御家中住居も潰家おびただしく、御城下とても潰れの上焼
失、御領中村々おびただしい人家潰焼失の向もこれあり、
川除・堤・溜池その余田地ことごとく笑み種々変地にあい
なり、御普請御入用高少なからざる儀は在々に於いて□察
もこれ有るべく候ところ両年の旱魃にて村々難儀いたし其
の上異国船渡来につき郷夫等お遣い立てにあいなるべく難
儀をなし候ところ、今度災とは申しながら大変の儀にて村
々一統艱難いたすべき義は両殿様深く御心痛なされあり候
段、精々御沙汰もこれあり、この上とも面々丹誠をつくし
農業なるたけ精出し申すべく候、明年とどこおりなく植え
つけあいならず候時至とさしつかえ申すべく候間なお厚く
あつくあいたまり当年より田地その外手入方精出し候よ
う、地方御用達どもは勿論、庄屋組頭そのほか長立ち候者
共、もつぱらきもいりいたすべく候。右莫大の御物入り多
にて御手操も甚むつかしき御時節と承り中々御手並届かず
候、さりながら格段の災難にて村々艱難の義等捨て置き難
く、いささかながら書面の俵数御手当となしくだされ置き
候。焼失の者へは余分に割り合い其の外潰家向へ洩れなく
割賦いかようにも取斗い相続致すべく候。
右の趣き御用達共は勿論庄屋組頭はじめ長立ち候もの共申し
合せよろしく差配いたすべく候 以上
寅十一月
(袴田銀蔵掛川城略年譜「鈴木家文書」)
城中で藩の執務のため応急の建物を設けている。
十二月十五日 これまで御居間北の方明き地に仮小屋で
き、年寄共はじめあい詰、御用向とりはからい候ところ、
御時計の間までが取繕でき、それに今日あい移る。
(役儀歴代)
とあり、漸時復興の策が進められており、江戸の藩邸におい
ても領主の太田摂津守資功は幕府寺社奉行を勤め、隠居しい
た前藩主太田道醇は幕府老中を勤めた実力者であり領国の震
災復興の費用六千両を幕府より借下げられている。
被害状況の考察
安政東海地震の掛川宿の被害状況について記録によつて幾分
かの相違が見られる。藩の公式の記録である役儀歴代は町奉
行所に町役人より報告された記録を書き留めたもので、掛川
宿の記録「大地震極難日記」にある報告が基になつたもので
あろう。総家数で一一一六軒で被害軒数は一致しているが、
被災救難の為の金子の交付と米の貸付については総家数一〇
一九軒となつており、これは住家、非住家の相違によるもの
か、集計の基礎が明らかでない。公式記録以外のものは「大
潰れ焼失」とか「不残焼失」「立ち残りたる家一軒も無し」
とあるだけで数字で現してはいない。人的被害は死者五八
人、負傷者四三人が公式の記録による正確な人数で、他の記
事は二百人から八十余人まで様々で、菊川鈴木家文書の八十
余人が家中侍町を含めたほぼ正確な人数を伝えていると考え
られ、他の記事は風聞の書き留めで、誇張されたものであろ
う。(表1)
宿内の十三町(現在の区・町内)について各町の被害の明記
された記録は発見されていないが、極難日記の中に領主より
救難のため五百両を宿と各町に配分した記録があり、これに
よつてほぼ推定できる。但し、当時の正確な各町戸数の記録
がないため前後の記録(天保一一年・明治五年)の数を増減
して当時の戸数を算出したため厳密な意味では正確とはいえ
ないが、充分参考となし得る数値と考える。(表2)
地震による死亡者五十八人の各町別についてのまとまつた記
録も見つかつていない。死者発生の位置により或る程度被災
状況を推定する資となるから、死者を埋葬した寺院を訪ね過
去帳によつて地震当日の死者、宿内五十八人中四十六人の身
許を知ることができた。市中十ケ寺の御協力をいただいて集
計してみると宗旨により寺によつて記載のしかたが異なるが
大人・子供・男・女と詳しく知り得、当時の記録の裏づけと
なる証拠である。(表3)この表から、死者の大半は家屋の
倒壊による圧死か、広楽寺過去帳に見られる家屋の下敷にな
り逃れ得ず焼死したと思われ、特に八割焼失した仁藤町(笠
屋町を含む)は十七人、全町焼失した肴町も六人と多くの死
者が出たのは救出できず火にあつたためであろう。当時の市
街が町幅も狭いことから一旦逃れ得た人々が避難途中又は避
難地で火にまかれて死亡したことは考えられない。
女・子供の死者が多いことは当然かも知れないが地震対策の
面で考えなければならない。記録の発見されていない侍町に
表1 諸記録に見られる掛川宿の被害状況
資料名
書名
件名
総家数
焼失
潰家
死者
負傷者
備考
役儀歴代
1116
742
374
58
43
大地震極難日記
御尋ねにつき 11/5調
1116
742
374
58
43
内人馬役町
834
538
296
51
41
年貢地両町
137
59
78
7
2
人馬留場厩
145
145
〃
御注進 道中奉行へ12日調
1116
742
374
58
43
人馬役町と年貢地両町の総数及び焼失潰家数には資料原本の筆写に誤記があると思われる
内人馬役町
806
538
268
51
41
年貢地両町
165
?
?
7
2
人馬留場厩
145
145
〃
焼失潰家書き上げ
1116
742
374
内町屋全体
971
597
374
人馬留場
100
100
厩
45
45
〃
即死人の覚
58
48
〃
下金五百両分配
(1019
28)
(597
28)
991
569
422
〃
借米三百俵分配
1019
597
422
内本家
418
317
借家
179
105
続地震雑纂
140-150
(島田)大武清太郎年代記
200
(菊川)鈴木文書
80余
松下良伯記事
100余
表2 安政地震 掛川宿内町別死者・潰家・焼失戸数
総戸数
総数A
同率
焼失戸数
焼失数B
同率B/A率
潰家戸数
潰家数C
同率
C/A率
死者
人数
率
軒
%
軒
%
%
軒
%
%
人
%
西町
中町
仁藤町
連尺町
肴町
塩町
喜町
新町
紺屋町
研屋町
瓦町
下俣町
十九首町
計
165
84
158
60
65
73
45
91
48
51
50
57
72
1019
16.19
8. 24
15. 51
5. 89
6. 38
7. 16
4. 42
8. 93
4. 71
5. 00
4. 91
5. 59
7. 06
80
73
127
55
65
64
44
1
26
1
3
0
58
13. 40
12.23
21. 27
9. 21
10. 89
10. 72
7. 37
0. 17
4. 36
0. 17
0. 50
0
9. 72
100. 00
597
100. 00
48. 48
86. 90
80. 38
91. 67
100. 00
87. 67
97. 78
1.10
54. 17
1. 96
6. 00
0
80. 55
85
11
31
5
0
9
1
90
22
50
47
57
14
422
20. 14
2. 61
7. 35
1.18
0
2. 13
0. 24
21. 33
5. 21
11.85
11.14
13. 51
3. 32
100. 00
51. 52
13. 10
19. 62
8. 33
0
12. 33
2. 22
98. 90
45. 83
98. 04
94. 00
100. 00
19. 44
6
1
17
4
6
0
1
3
1
1
3
1
2
46
13. 04
2. 17
36. 96
8. 70
13. 04
0
2. 17
6. 52
2. 17
2. 17
6. 52
2.17
4. 35
100. 00
大地震極難日記目録「領主より総町へ下され金割附」より算出。
戸数Aは天保11年,明治5年資料を参考として推定した。
市中10ケ寺過去帳による。
実際死亡者58名にて12名は他の寺のため不明。
表3 1854年安政東海地震 掛川宿及び周辺被災死亡者内訳
地域
大人
男
女
計
子供
男
女
計
合計
家中
―
4
4
1
4
5
9侍町(藩士族)
西町
―
3
3
―
2
2
5
十王町
―
1
1
―
―
―
1(西町内十王町)
中町
一
―
―
―
1
1
1
笠屋町
―
3
3
3
0
3
6(仁藤町内笠屋町)
仁藤町
3
3
6
2
3
5
11
連尺町
1
3
4
―
―
―
4
肴町
―
4
4
1
1
2
6
塩町
―
―
0
―
―
0
0
喜町
―
1
1
―
―
―
1
新町
―
2
2
―
1
1
3
紺屋町
―
―
―
1
―
1
1
研屋町
1
―
1
―
―
―
1
瓦町
―
―
―
1
2
3
3
下俣町
―
1
1
―
―
―
1
十九首町
1
―
1
1
―
1
2
町計
6
21
27
9
10
19
46
佐野郡
谷ノ口
―
―
―
1
―
1
1
下西郷村
大池
1
―
1
1
―
1
2
大池村
大鋸町
―
1
1
―
2
2
3
増田村
水垂
1
1
2
―
―
―
2
水重村
馬喰町
1
―
1
―
―
―
1
馬喰村
上張
―
1
1
―
―
―
1
上張村
五明
―
1
1
―
―
―
1
五明村
松原
―
―
―
1
―
1
1
下俣村
成滝
―
―
―
―
1
1
1
成滝村
原川
―
2
2
―
―
―
2
原川町
加茂村
1
1
2
―
―
―
2
城東郡加茂村
近村計
4
7
11
3
3
6
17
合計
10
32
42
13
17
30
72
永江院・真如寺・正願寺・神宮寺・天然寺・蓮福寺・広楽寺・了源寺・円満寺・徳雲寺・以上10ケ寺過去帳による。
ついて死者が九人も出ている点、城郭の被害に合せ考えると
比較的地盤の良い台地でもかなりの家屋が破壊され、町と同
じ低地の城西の侍町は全部倒潰していると思われる。
周辺近村でも死者があり、今回の寺院調査が市中に限られた
ため周辺及び村部の被害者について正確な数字を得ることが
できず、更に拡げて調べれば地方全体の被害状況を知ること
ができよう。
掛川宿の建物の被害の内焼失六六・五パーセント、潰家三
三・五パーセントで、合せて全戸焼失又は倒壊しており、潰
れ掛り、破損、小破といつたものや、無きずで残つた建物は
皆無であつた。焼失家屋が建つている建物が焼けたか、倒れ
た建物が焼けたか明らかでないが、大地震極難日記の東海道
沿いで掛川宿周辺の郷村の被害状況から見て地盤の状況の類
似した地域では九〇パーセント以上が倒壊し、潰れ掛り(半
壊)は一〇パーセント以下である(表4)、役儀歴代の「十九
首より新町迄残らず潰れ、この上出火」という記事はその模
様をよく表現している。
救援対策の考察(附当時の物価)
嘉永七年十一月四日突然の震災によつて潰滅的な被害を生じ
た掛川宿と周辺の郷村に対する救難の事業は領主側(藩)と
地方組織としての宿場から非常に備えて蓄えられた金銭と米
穀が無償又は貸付の形で配布され、急場をしのぎ、藩と宿役
人の指導によつて復興再建と進んでいつた。
まず天災に対する藩の財政上の負担は平常の歳入により支出
する事は容易ではなく、幕府からの特別の融資によつて救
難、復興の対策を講ずる資金源とした。幕府は領主太田摂津
守資功に対し藩領国の非常の事情につき救援のため金子六千
両を貸付られ、これを裏付けとして救難と復旧のため活発な
活動が可能となつた。六千両という金額は記録のある慶応三
年の藩の財政に較べると、当時藩の正金保有高六千五百七両
余に相当し、年収納年貢米から藩使用分を除き売却換金高に
諸借入金を加えた歳入金額六万三千七百十一両の十分の一に
相当するものであり、慶応三年は幕末の混乱期で諸物価も高
騰して財政規模も拡大しているので安政元年の六千両は更に
高価であつたことが考えられる。
領主(藩)より領民に対する救済について特に被害の大きか
つた掛川宿では地震発生の翌朝から藩の手で乾糒の炊き出し
を手始として救難のため金銭や米穀の交付貸与が行われた。
金五百両交付 内二百両は本陣、旅籠屋へ、三百両は宿
内十三町へ、軒数割に焼失、潰家ごとに
下げ渡す。
金四百両貸渡し 但し無利息同年十二月返上
金二百両貸渡し この分利付き、安政二年二月返上
金五百両 この分別口として本陣、旅籠屋に八分
利、五ケ年賦にて貸付けられる。
米三百俵交付 十三町へ本家、地借、家借の別に焼失、
潰家ごとに軒数割に下け渡す。(一〇七七頁
に続く)
参考(2)
文化2年戸数 宿村大概帳
46 家居弐町四十六間程
100 家居少し
19 家居少々有之
77 家居少し
56 家居壱町程有之
60 家居之無
58 家居少し有之
133 家居壱町半余有之
(内51)―大池村
20 家居少々有之
( 58)―全村 家居少し
63 多分家居
145 家居之無
26 多分家居
60 家居弐町程之レ有
25 家居少し
16 家居少し
62 家居弐町程之レ有
47 家居弐町半程有
15 家居少々
55 家居少々
73 家居壱町半程
55 家居少々
68 家居飛々に有之
1022
A+B+
C+D
死人
怪我人
計
その他
地割
%
人
人
人
100
2
3
5
土蔵潰1
〃1
100
1
1
阿弥陀堂潰1
寺 1潰
76間
100
1
1
〃4潰レ掛リ
43〃
100
50〃
100
100
1
1
2
寺 1潰
橋 1崩
130〃
100
7〃
2
2
100
100
100
4
4寺 1潰
橋 1潰
100
1
1
100
100
地蔵堂1潰
100
16.66
100
土橋1ケ所外
埋樋1ケ所
8間
100
100
78間
12
4
16
橋8ケ所
内3潰
7ケ所
100
58
43
101
寺潰3
70
47
117
表4 嘉永7年11月4日大地震極難日記目録 掛川宿関係東海道沿被害
総数(1)
焼失率(A)
潰率(B)
潰掛り率(C)
小破率(D)
戸
戸
%
戸
%
戸
%
戸
%
原川町
48
24
50.00
24
50.00
各和村
4
10
沢田村
20
19
95.001
5.00
領家村
12
細田村
60
56
93.334
6.67
高御所村
2
長谷村南側
8
8
100.00
大池村
96
91
94.79
5
5.21
〃北側
57
53
92.98
4
7.02
新村
5
4
80.00
1
20.00
下又村松原
7
上張村
6
5
83.33
1
16.67
仁藤村
1
道脇村
19
13
68.42
6
31.58
増田村
53
48
90.57
5
9.43
馬喰村
24
24
100.00
印内村
10
10
100.00
成滝村
37
37
100.00
薗ケ谷村
23
13
56.52
10
43.48
池下村
30
4
13.33
1
3.33
牛頭村
千羽村
28
26
92.86
2
7.14
本所村
17
4
23.53
7
41.18
6
35.29
伊達方村
14
2
14.29
12
85.71
村計
555
28
472
59
7
掛川宿
1116
742
66.49
374
33.51
宿村 合計
1671
777
819
59
7
(1)総数は東海道筋に沿った戸数と考えられる。
(2)参考戸数は全村戸数であり掛川誌稿による。被害は街道沿の低平地に激しかったと考えら
れる。
嘉永7年11月4日
安政東海大地震による火災延焼区域
米三百俵貸渡し 安政二年十二月返上
また遠江、駿河の領内村々の被災者に対しては、
米二千俵交付 村々焼失、潰家ごとに下げ渡す。
以上、藩より金千六百両、内千百両は貸し渡し、米は二千六
百俵、内三百俵は貸し渡し、その余は下付され領民の急場を
しのぎ再起、復興のための基とした。この藩の要を得た対策
の裏に平時に非常のための備蓄米があり、「御用米蔵、二千
石、此の俵五千俵、但し四斗入り、」とあり、また、「御囲籾
三千七百四俵三斗一升七合、此現米七百五十石五斗六升七
合、御囲籾六百十七俵一斗八升九合」という記事もある。掛
川城仁藤門内に御用米倉という大きな土蔵が二棟あり、代々
の城主は米五千俵倉とも、旧城米ともいつたが、享保十五年
から用米倉と呼ぶようになつた。このような蔵はどこの城に
もあり、幕府が諸侯に命じて設けさせたもので、将軍の御代
替えの折にはその都度巡見させていた。と掛川誌稿にあり、
掛川第一小学校の東南に位置し台地の辺に沿つた沖積地にあ
つたため土蔵造の堅牢な建物が破壊を免がれ、非常備蓄の役
割を果した。天明、天保の飢饉、凶年に領民救済のため役立
つて来たものであろう。この備蓄米五千俵は掛川藩表高五万
三十七石八斗の歳入米五万六千二百四十六俵二斗八合四才で
一俵四斗として二万二千四百九十八石で四割二分上納、四公
六民が豊作年の基準とされたが、地方の状況やその年の作柄
により減免されるのが例で慶応三年の実収は四万七千六百六
十二俵三斗一升七合一勺一才で二割八分が上納、藩の歳入と
なつているから、歳入米の一割を常時保有して非常の備蓄に
あてていたと考えてよい。尚掛川藩の年貢としての収納米の
俵の容量について遠州領分では、一俵四斗一升山五合、この
内三斗五升御勘定表米、四升御城附御法延米、二升土用欠
米、山五合俵の目こぼれ。とあり、駿河領分では四斗一升
入、伊豆領分では三斗八升入とある。年貢米の外に歳入には
銭による年貢の収納もあり、また種々の名目による冥加金、
運上金の営業税、免許税のような収入があつた。
領主(藩)の領民に対する救難対策とは別に掛川宿伝馬役、
人足役町及び年貢地両町の十三町については、地方組織とし
ての宿が宿場の備用金、社倉積立金その他の資金を非常の災
害に際し宿の構成員の為に取りくずして配分する形を取つて
交付した一種の災害保険共済金的な性格を備えていた。
金千両 宿備金下げ渡し
内金五百両は人馬役町の草高に応じて、金五百両は当時
勤め人馬に対する割合にてそれぞれ各町に配分
別に天保八年非常備金として領主より下げ渡された五十一
両に年々利息を加えて積み立てた百一両余と、社倉積金二
百十一両、合せ金三百十二両余 この内九十五両を別途使
用、残り二百十七両余は十三町に割渡す。
金五百両 宿内その他にて無尽により拠出し本陣、旅籠
屋に貸し渡す。
金六十四両、年貢地(下俣町・十九首町)の住民に対し
年賦貸渡された。
以上三口、千七百八十一両が交付或は融通されて宿の復興、
再建の資とされている。
掛川宿ではこれより前、享保十年から貸付御役所という金融
事業を設けて明治維新まで継続運営していた。これは幕府が
東海道の各宿に助成金を交付され、掛川にも三百五十両が下
付され、その一部を宿場の施設の整備にあてたが残額を基金
として掛川宿貸付御役所を設け領内外の近隣の村々へ、その
要に応じて村単位に貸付け、利息をもつて宿場運営の助成に
充てた。この融資の金利は年一割、期限は一ケ年、担保に土
地や高目を表示した目録を附け、庄屋、組頭、村年寄が連署
し、領外の村の場合は宿内町方の庄屋が保証人となつて融資
していた。安政地震の復興融資と掛川宿貸付役所との関係に
ついては明確な資料が見つからず明らかでないがこうした経
済活動が非常事態の融資に役立つたことであろう。
明治以前の金融事業の主流は頼母子講、無尽の相互掛金によ
る積金、抽選による融資、年賦償還によるもので、一定の目
的で資金を調達するもの、順番や入札により貸しつけ利子を
合せて割賦返済するもの、一回限り掛け捨てのもの等種類方
法も千差万別で近代的な金融機関の普及する明治後期・大正
期までの庶民の金融は大概、頼母子や無尽によつた。大地震
極難日記の最後の記事に、
十三会積金 金五千両取 会元三ケ年一分掛け増し、用捨残
十会籤取り落し札入れ、一分形掛け増し。右は殿様十三会積
立御講事、年々十一月二十七日会合定日
とあり、これは震災復興資金捻出のために設けた藩営の大型
の無尽である。このような種類の無尽について断片的な記事
が「役儀歴代」に「安政元年七月、在方備蓄積立講事、併
せ、陰徳講金都合二千両、去る嘉永六年下け金、講事積戻、
代官まで申し出ず」とありました。「積立金、御貸付、籤にて
落札、八分利」という記事もあり地震以前より行われていた
ことが知られる。十三会講は一口五百両十口とし半口又は更
にこれを細分して藩の御用達を勤めた豪商や大庄屋、出入り
商人、庄屋、資産家が配分し、一部は江戸表出金、町方、豆
州御領分、郷中、といつた配分があり、無尽により拠出及び
分配に与つていたと思われ、その運用についての記録がなく
明らかでない。こうした大型の無尽は万延元年二千五百両、
慶応二年三千五百両が知られており藩の必要な資金を地方の
資産家より無尽の形をとつて拠出させ藩の債務として割賦償
還されたものと考えられる。
当時の貨幣の価値、米価について「日雇年給、嘉永安政の
頃、男日雇一日百文位、女日雇一日三十六文位より五十文
位、一ケ年男給料二両二分、女同一両一分より三分位迄。米
一俵代、嘉永安政の頃、嘉永の頃は一両に米二俵高迄に御座
候、一両に付一石直段私共承知致し居り候、安政の頃より一
俵一両と云う直に相成候」と袋井市史資料三所収山田氏文書
にある。安政元年の銭と米価を前後の文化・明治と比べる
と、
文化元年 安政元年 明治元年
一両につき米
一石二斗三升五合 七斗七升八合 一斗九升七合
米一石代(円に換算)
三十三銭七厘 九十八銭九厘 四円二十三厘
米一石代銀
五十一匁三文 九十一匁二分 六百六十三匁
一両につき銭
六貫七百文 六貫六百文 十一貫文
と複雑に変動している。また当時の物価は
米一俵 一分三朱九二文 一升 六八文(白米九二文)
麦一俵(四斗五升入)一分
大麦一升 六五文 小麦一升六〇文 大豆一俵(四斗
二升入)一分三朱一一〇文 大豆一升六八文(一両につ
き九斗二升四合) 塩一俵七五〇文 一升二七文(上塩
六四文) 粟一升三二文~三三文 きび一升四〇文
もろこし一升五〇文 そば一升四〇文 ごま一升一五
○文 小豆一升六四文 醬油一合六〇文 澄油一合
六四文 水油一合六六文~八五文
鍬 拵賃二朱四〇〇文 鎌一丁一三三文 鎌砥一丁五
六文 砥石一丁一〇〇文 手桶一〇六文 柄杓一本
五〇文 箕一ツ一二四文 笊一ツ五六文 うちわ一
本一八文 手拭一すじ一一六文 下駄一足七二文~一
〇〇文 男たび一足三二四文 白たび二五〇文 木
綿半天一枚一分二朱 木綿襦ばん一枚一貫五〇〇文
傘一本三二四文~四〇〇文 冠笠一蓋二〇〇文 野笠
一蓋五〇文~八〇文 湯銭四文
以上は二宮尊徳全集駿遠地方の仕法に見られる掛川周辺の嘉
永四~六年頃の物価で、嘉永六年金一両が銭六貫五百文であ
つたと記している。
復興についての考察
地震後の復興の状況について充分記録の調査されていない
が、前掲の了源寺の大地震日記に、地震発生より十二月二十
三日まで仮屋の建築屋根瓦を葺き床を作るまでの模様が記さ
れている。その他の寺院の様子は過去帳の添書に記されてい
る。真如寺は地盤の丈夫な台地にあるが本堂庫裏等が全壊し
た。「去霜月地震以来永々薪部屋仮住居也、安政二卯四月十
八日今晩長屋え家移り……」 「同十二月衆寮柱立、同二十二
日棟上、年内漸く瓦杉皮伏のみ、辰年礎本建家二宇併て継家
取片付など……」とあり、本堂の再建は明治十七年に完成と
のことである。同町正願寺は庫裡が全潰、本堂も大破し八年
目の文久二年ようやく庫裡を再建本堂も大修繕を加えてほぼ
旧状に復した。西隣にある神宮寺も寺中の建物が倒潰し本堂
の再建は六十二年後の大正五年とのことである。
紺屋町裏にあつた広楽寺は本堂、庫裡共潰れ庫裡は安政二年
に再建し本堂は明治に入つてから再建された。仁藤町の天然
寺は寺の建物二十四棟のすべてと塔中(小寺)四ケ所も全部
倒壊したが幸い火災には免れたので翌安政二年古材を集めて
本堂を再建している。西町の円満寺は「嘉永七寅年十一月四
日巳刻地震堂宇悉属烏有悲哉」と安政二年から記された過去
帳の中にあり、本堂・庫裡その他の建物も焼失している。
本堂は安政三年三月に再建された。天然寺と円満寺が被害が
大きかつた割に翌年或いは翌々年に本堂が再建されたのはこ
の二つの寺が掛川宿の東西に位置し藩の民政や文教、宿場施
設の補助的な機能を備えていたため早期に復興したものと考
えられる。
掛川城の建物の被害と復旧の状況は文久二年の「震災に付御
城中普請ケ所書付」に詳しく記されており年次別に分けて建
物の被害と構造を示すと次の様である。
安政元年(一八五四年)十一月四日地震当年
二の丸入口四足門(修復)大破・四足門
蕗の門(修復)大破・四足門
水の手門(再建)潰れ・四足門
中西門(再建)潰れ・四足門
仁藤門(再建)潰れ・四足門
安政二年(一八五五年)一年目
本丸門(修復)大破・櫓門
御殿 玄関・御広間・御書院・鎗の間(再建)潰れ
平屋建各棟建継ぎ
中西番所(再建)潰れ・四足門
北門番所(修復)破損・平屋建
仁藤門番所(再建)潰れ・平屋建
二の門番所(再建)潰れ・平屋建
東町番所(再建)潰れ・平屋建
西町番所(再建)潰れ・平屋建
安政三年(一八五六年)二年目
蕗の門番所(修復)破損・平屋建
北御門(再建)潰れ・楼門造り櫓門
大手厩(再建)潰れ
土蔵四棟(修復)大破
安政四年(一八五七年)三年目
玄関下門番所(再建)潰れ・平屋建
本丸三社(再建)潰れ
大手二の門(再建)潰れ・楼門造り櫓門
大手馬見所(再建)潰れ
大手口使者取次所(再建)潰れ・長屋造り平屋
安政五年(一八五八年)四年目
腰櫓(修復)大破・二重櫓
大手門(再建)潰れ・楼門造り櫓門
安政六年(一八五九年)五年目
三の丸揚厩(再建)潰れ・二階建櫓造
会所(再建)潰れ
大手番所(再建)潰れ・平屋建
万延元年(一八六〇年)六年目
御殿 諸役所(再建)潰れ・一部二階建御殿建継ぎ
松尾門(再建)潰れ・四足門
文久元年(一八六一年)七年目
御殿 小書院 長囲炉裏の間(再建)潰れ
平屋 御殿造り建継ぎ
鉄砲櫓(再建)潰れ・単層櫓
富士見櫓(再建)潰れ・二重櫓
文久二年(一八六二年)八年目
二の丸二重櫓(着工)潰れ・二重櫓
本丸入口四足門(着工)潰れ・四足門
二の丸中門(着工)潰れ・四足門
玄関下門(着工)潰れ・楼門造櫓門
不明門(着工)潰れ・楼門造櫓門
天守台石垣(積直し取り掛り)崩れ
文久三年(一八六三年)九年目
矢櫓(着工予定)潰れ・二重櫓
荒和布櫓(着工予定)大破・単層櫓
城郭の建物は総て被害を受け大部分が倒壊したが、火災の発
生は無かつたようである。城郭は新第三紀掛川層群に属する
泥岩の地層の上に立つていてこの丘陵部は本来丈夫な地盤で
あるが、こうした固い地盤の上では柔構造の木造建築は比較
的被害が少なく、逆に石垣を始め剛構造の土蔵造りの建物、
天守閣、櫓、城門、塀等城郭建造物は被害が顕著であつたこ
とを示している。
城郭の建物の復興もまず早急に必要とする門塀の類より手掛
け次いで番所、役所、蔵、櫓等を再建しこれに併行して家中
士族の住家を再建した。天守を始めとし再建が困難なもの必
要度の少ない建物は再建されなかつたものもある。
市中一般の町屋の建物の再建の状況の詳しい記事は調べられ
ていないが慶応元年には宿場町の機能も完全に復旧しており
城と同様町も震災直後の仮設家屋から十ケ年徐々に本建築の
家屋が建設された。直後の建築には柱はわりに細いが屋根を
極力軽くした耐震構造の建物が設けられ、やや後に堅牢に重
きをおいた剛建造の建物が設けられた。明治中期以後対震的
配慮が薄れてきたようである。
周辺農村部の被害と救援、復旧策の模様を掛川藩領分豊田郡
深見村、昭和十九年東海地震でも甚大な被害を受けた今井
村、現在の袋井市深見では壊滅的な被害を受けた。二宮尊徳
全集所載の文久元年御仕法御請書に被災から藩の救援対策の
様子を知ることが出来る。
(前略)同七寅年十一月四日、大地震、村中居屋小屋潰れ、
川通り堤等悉く滅所にあいなり、所々変地致し、極難は言語
に申し演べ難く候ところ、御仁恵を以て、御救米等下され置
き、川通りの儀は翌卯年国役御普請成し下され、変地場は御
引地に成し下され、有り難き仕合せに存じ奉り候(下略)
と記され、地震直後の藩の救援米の交付、翌年の藩の事業と
して行つた河川及び堤防の改修復旧工事、田畑の被害による
作付け不能或いは不作に対する年貢の減免等、藩のきめこま
かな対策が知られる。もつとも深見村は同年七月集中豪雨に
より水害、秋の気候不順と台風による塩風と大雨による大凶
作、翌三年八月稀有の台風による風雨の被害があり引き続き
連年災害がつづき、その都度藩より御救米、拝借米、金を受
け藩の指導による普請が行われたが、村も経済的に困窮にお
よび文久元年掛川藩の郡奉行の配下にある仕方役を勤める地
方御用達岡田佐平治に報徳仕法による村の建て直しを願い出
たのであつた。