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項目 内容
ID J1800209
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔長野県史 近世史料編四ノ三〕S58・3・31長野県編・長野県史刊行会
本文
[未校訂]一九〇四 安政二年二月 地震修復職人工賃値上禁止触
昨寅(嘉永七年)年十一月稀成大地震ニ而、家居・土蔵破損所夥敷ニ付、
右為修復職人多分相雇可申、就而は工代・手間料等引上ケ候
義致間敷候、諸人難渋之時節、心得違為致迷惑候様之申合せ
致候者於有之は、急度 御咎可申付候、并相雇候者共も、仮
令有徳ニ候共、並之外雇代相増候義は不相成候、若相背候
ハゝ是亦急度可申付候、右之趣、末々小前之ものニ至迄不洩
様可申聞者也卯(安政二年)二月廿四日
右之通相触候間、早々順達致し、留村ゟ早々返却可申候 以

二月廿四日 熊谷茂太夫
(下伊那郡上郷町飯沼 岡田匡平氏所蔵)
二〇二六
自嘉永七年十一月
至安政四年
 浅野村佐々木求馬地震記
(表紙)
「 異国船到来之筆記
嘉永七寅年十一月四日大地震
安政二卯年十月二日大地震 筆記」
○以下異国船到来之
筆記アレドモ省略
嘉永七年寅十一月四日四ツ頃大地震之記録
一寅十一月四日四ツ頃大地震と成、其日晴天なり、誠ニ家毎
大騒き、所々山くつれ岩落、古家抔ハつぶれるもあり、内
にハそとにハみぢんにわれ申候、戸棚たんすニ入置候焼物
類ハみぢんにこわれ、たかき所江上ケ置候物ハ不残落、鍋
もちやうまもこわるゝやら、家毎に人々子供かゝへてそと
へ出も有り、子を捨我身斗り出るも有り、馬を出スも有り、
そとへ出こけるも有り、人々立てもいられづ、地にはい付
て念仏申スも有り、なくも(ママ)者斗りなり、漸々ゆりさしうれ
しやと思間もなく、又ゆりしきりにゆり事六日程、家々そ
とへむしろにてかこいして、其内にて飯たき、米抔取ニ内
へ入者わ、家内中の大ぢやうふのものとひこみ、米持ては
しり出、野に居事五日目夕方、追々少しゆりさし候上(故)、家
々内へはいり候家も有り候処江、又候ゆり候上(故)又々野へ出、
二日斗り野セたいいたし候、都合七日程野ニ居申候、最早
寒近く候へは、朝抔家内中かたまり寐て居る上江霜など白
く降、さむいやらこわいやら、咄しにするもおそろしや、
七日目昼頃ゟ雨降出し、無拠家へはいりこわ〳〵と居申候、
日々地震昼夜之中七つや八つハいり候へ共、気もおうちや
くになり候へ共、供(ママ)子らハそりや地震と云へハ、持たるは
しも捨置てそとへかけたし候、馬にハおもつなをはめはつ
なを長クし、おもてそとの柱なとへゆい付置、そりやと門
にて引候へハ出る様ニしかけ置候、誠ニ土蔵なとハ不残土
落、微塵にわれ申候一日影向之地免(面カ)ハ不残二三尺程引わりひつば口出来、田畑抔
ハ余程つふれ申候、水抔も水口違イ候所数多御座候、此近
辺にてハ粟野うしろ山、家も半つふれ、田畑不残ゆりわり
申候、先年ゟ此地は別にうこき候と云つたいニ御座候
一深見淵抔ハくろ廻り之田三ツ一通りゆりこミ申候、其上水
うごき立、松葉前海道迄水まし候上(故)、鯉抔田へ沢山出、水
おさまり候ニ付鯉のこり居候へ共、其鯉取人無之、淵ゟ下
の家の衆ハ不残、上とふし之上宮下江人馬共村中あつま
り、飯たき・馬食物等取ニ行もこわし、藪のかきね抔ニ馬
くいしり青物少しも無之上とうじ江親類ハ不及申ニ、村方
七分通り米俵・味噌桶等并大切な物等追々はこび、家蔵不
残つまり申候、此も七日ふり寄居申候
一同十一月五日八ツ時頃又大キ成地震ゆり候と、夫より南へ
あたり雷の如大キなる音しきりにいたし、西江なり行、空
とも地共不相知、人々いきたるこゝちハ少しも無之、皆々
色青さめ食物たべづ、世にこわき事地震ニはにげ場も無
之、寐ても起ても不居大難わなし、夫ゟ寅冬中ハ(毎、以下同ジ)前日二つ
三つ宛々地震ゆり申候、翌卯(安政二年)の春とても折々ゆり候、二月
中旬之節一日ニ二つ大き成地震ゆり申候、此近辺ニハ即
死・怪我人壱人もなし、飯田町には怪我人・即死之者有之
候風聞、茶椀見(ママ)せ抔ハしんだいなしに相成候
一地震と申者ハ地斗りうごくにあらづ、空もうこき候か、雀・
烏鳥其外小鳥等、そらをまう鳥不残打おちたふけて居、ゆ
りさし候後漸々まい立候、地も空もうこくものと此節評判
申候
一年号替り安政二年卯十月二日、夜四ツ時ゟ大ぢしんゆすり
出し、尤関東辺之事ニ候、此辺ハ差たる事も無之、江戸表
ゟ東ハ大雨と雷ト大風ト其中江大地震、誠ニしんとうらい
てんとハ此事、江戸七分通り潰れ所々出火となり、怪我
人・即死之者何万人共数不残(ママ)、こゝにうでをはさまれたも
有り、足をしめられたもあり、ひう〳〵きや〳〵たすけく
れよとよふ声斗りにて、其内出火となり、まめ成者も我身
大事とにけ行斗り成、大名屋敷・旗本屋敷々々潰れ候事数
不残(ママ)、此時之地震ハ信州辺ハ差たる事無御座候
一扨地震も享保年中大地震ゟ之此度ハ地震に御座候との云つ
たへに候、此後とても又大地震と相見江候は、火をけし早
々そとへ出候ケ宜敷御座候、其心得折々家内女・子供迄、
よく心得候様咄し聞セ置事也一又翌辰(安政三年)八月十四日昼頃、江戸表事(殊)外大風にて、雷もなり辰
巳風にて吹潰し候事、昨年之地震ゟ又数多御座候由、人死
等も大辺(変)な事ニ候、此近辺ゟ江戸行居候者も、中谷佐太郎
之忰幸治郎、此節江戸表ニ而品川辺江兄弟つれ川せ(殺生)つしよ
うに参居、俄の風雨ゆへにけもおうセつ相果申候、弟ハ若
気情にてにげたすかり申候、此近辺之内下梅田之者も相
果、新野村者も相果、此近辺之者でさわ相果候故、諸国ゟ
之寄集り場所上(故)夥敷御座候哉、まれなる事上(故)書印(記)申候
一江戸地震・大風ニ付、財(材)木高直ニ相成申候、七尺廻程檜拾
五六両位ニ売れ申候一青竹に実入竹高直ニ相成候、尺廻之竹壱本三朱位ニ御座
候、八九寸廻金弐朱位ニ候、六七寸廻之竹両ニ五拾本位、
二三寸位之小竹ハ目方五十貫位、尤壱分ニ付候事、此節わ
ずかの藪にても弐拾両・三十両位ニ相成候竹藪数多有之候
一安政二年卯年ハ田畑共ニ宜敷作ニ御座候、米壱両ニ壱石位ニ御座候
一安政三年辰年秋作ハ大豊年、廿年此方之上作ニ御座候、米拾両ニ廿
八九俵位仕候
一辰年迄折々地震ゆり申候、前月七八つ程ゆすり申候
一(安政四年)巳年頃ゟ追々ゆすりさし申候
浅野村 神主
佐々木求馬印
(下伊那郡阿南町浅野 佐々木克氏所蔵)
二〇五七
自嘉永七年十一月
至安政二年四月
大島山村地震留書
嘉永七寅年十一月四日、大地震ゆり申候、誠に前代の(未聞脱カ)大ゆり
ニ而御座候、当国ハかるき内也、駿河・遠州・三州・伊勢・
尾州・濃州・四国・九州大へんニゆり申候、其外日本国中大
きにゆり申候、摂州大つなみ、じしん、大坂ニ而茂人弐千人
も死ス、当国飯田ニ而茂三四人死去致、家茂少々ゆりつぶれ
申候、村方ニ而茂土蔵のかべ抔みなみな落申候、薬師堂ニ而
五重塔たをれそんじ、石燈籠たをれ、石塔不残たをれ申候、
十一月四日よりゆり初メ、日々大きにゆり申候間、皆々小屋
を懸、内ハあけはなしに致し、そとに昼夜居申候、前代見(未)聞
ノ事ニ御座候
夫より安政二年ト相也候而茂震動致し、地鳴り、地震折々ゆ
り候、二月朔日ニハ大きにゆり申候、漸々四月頃よりやみ申

(「村方先規例式書留帳」下伊那郡高森町大島山
大洞隆氏所蔵)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 565
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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