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項目 内容
ID J1600156
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔津市史 Ⅱ〕S35・11・1 梅原三千 西田重嗣・津市役所
本文
[未校訂]六月十五日の大地震
大地震起る嘉永七年(一八五四安政元年)六月十三日の正午に微震
があり、ついでにわか雨が一過し、雷鳴四、五回があって晴
れ、午後二時頃にまた軽震があったがその夜は無事に過ぎ、
翌十四日は快晴で静穏な一日を終え夜になって市民は常のよ
うに安眠した。ところが午前二時頃突如として大地震が起
り、安眠を破られた市民は驚きあわてて戸外に逃げたが、激
震はしきりに続いて、夜明けまでに二十余回に及んだので、
やむを得ず畳やむしろを持ち出して、空地や街路上で露宿し
た。
余震続々と数ケ月に及ぶその暁六時頃に二回の強震があ
り、その後も連続して一時間に二、三回ずつの横動があり、
空は暗雲がおおってちょうど日食のようで、何となく気味が
悪く、誰の心にも世界の破滅近しと不安の念に襲われたので
あった。お互に火の用心を戒めて、鍋や釜を道に持ち出して
飯をたき、土蔵は締切って火防に気をつけ、また帳簿や重要
物品は門外に持ち出した。みな街路上に避難所を設けたが、
中には家族を海浜や寺院の宅地に避難させたものもあった。
観音境内には避難仮屋が充満した。
 午前十時頃に小雨があり、この日は非常に蒸し暑くて終日
余震がつづき、夜になってもなお止まなかったので、避難所
に莚などで仮屋根を造り、夜はその中に蚊帳をつって寝た。
時々強い風が吹くので、その度ごとに地震かと町民は敏感に
なっていた。
 十六日の夜明け方に小雨、午後にもまた小雨と雷鳴があっ
た。しかも余震はなお毎時三、四回の割でつづいた。この日
町年寄から「町中火の元に注意し、必ず午前中に炊事して其
後は消火し、老幼は安全地に避難せしめ、戸主一人は留りて
家を守り、盗難に防備すべき」ことを諭達した。
 十七日は曇天で、余震はなお連続し、正午から時々小雨が
あり、午後二時と四時には強震があった。夕方からは雨とな
り夜十時頃にやんだが、この夜も引続いて数回の余震があっ
た。
 十八日は夜中の午前二時頃に強震を感じ、その時西北方で
遠雷のような音響がとどろいた。町内では今夜大火災が起る
という風説が立ったので、各戸に用水桶に水を満たし、土蔵
はことごとく目塗りをして防火に備えた。夜が明けて、十八
日の天候は前日のようであったが、余震は大いに減じて昼夜
五、六回ずつとなった。ところがどこからともなく今夜は大
津波が来るという風説が伝わったので、町民はまた驚き騒い
で、一夜中一睡もしなかった者が多かった。この日次のよう
に町年寄は諭告をした。
先日触出し候内、亭主分家に残り相守り候様申触候由右
は甚だ聞き取り違ひの事に有之、夫々立退候儀は勝手次
第に可致候へ共、町役人火の元用心の手支無之様番の者
申合せ銘々用心の上立退候事不苦候段御憐愍の御触被仰
出候事
 この夜午前二時頃また藩庁から、木材、竹類、苔、(ママ)杉皮、
[枌木|そぎ]、瓦、繩、藁等の建築用材料の領外移出禁令が出た。こ
れは火災、震災等に際して藩が必ず発する常用手段でもあっ
た。
 十九日の天候は依然前日同様であったが、余震は更に減じ
て昼間は六、七回、夜間は二、三回となったので、避難者の
中には昼間だけ家に帰る者もあった。
 二十日には午前六時にやや強い震動を感じた。その折ちょ
うど深い暁の霧は消えて晴天となったが、午後にはまた小雨
が降り出し、四時頃から砲声のような音響がしばしば起っ
た。やがて夜になって気温が急に下り、電光がしきりにひら
めき、深夜の二時頃から暁四時過ぎまでに微震が十七回もあ
り、その都度小雨が降った。この日近海岸に淡水が異常に増
加して目高、[鮠|はえ]等の淡水魚が海に下って贅崎浦を泳ぎ廻って
いた。これは地震から起った著しい現象の一で、船頭の話で
は海面上層一・八メートル位は淡水であったとのことであ
る。
 二十一日は急雨が時々ありその度に雷鳴が甚しく、近郊に
は落雷さえあった。この夜十一時にまた強震があり、引きつ
づいて微震が三、四回起った。
 二十二日も晴曇はっきりしない天候であったが、余震はだ
んだん減じて昼夜六、七回となり、震動もようやく微弱とな
った。朝廷では大神宮に十七日から一七日の御祈禱をこめら
れて災難[除|よけ]の御祈願をされたという噂も聞えてきて、民心は
やっと落ちつきを見せた。
 二十三日は余震も少く昼夜三、四回ずつであった。
 二十四日も同様。
 二十五日も同様の状態であるが、人心の奥にひそむ不安の
心はなお去りやらないで、家で寝る者も入口を開けて万一に
備えた。
 二十六日も同様。
 二十七日に避難者のほとんどは住宅にもどったが、なお非
常立退の準備だけは整えて就寝した。
 二十八日には天候は回復して常調となり、気温も上った。
ところが地震不安のために商取引はほとんど休止し、[盆節季|ぼんせつき]
の勘定もとても行われないので、藩はこの日、次のように支
払延期断行の発令をした。
町年寄共
大庄屋共

一此度大地震ニ付町郷中混雑いたし居候ニ付当盆前金銀取
引来る閏七月十三日迄相延し可申尤伊州方の儀も同様相
心得可申候
右の通町郷中の者共へ不洩様可申達事
(嘉永七年)
寅六月
 七月以後 七月に入ってからはいよいよ順調となり、余震
も日に一、二回でこれも微弱となったので、既に不安は去っ
たのであるが、いじけた人気がなお回復しないという理由
で、藩は盆踊も停止した。すると七月九日の正午過ぎにまた
もや強震があり、その夜午前二時頃に同じく強震があったの
で、人心は再び驚いて騒ぎ出し、種々の風説が伝わった。そ
して仮小屋を作って避難する者が続出した。しかしその後は
余震も収まって、やがて人心も鎮静した。七月中旬以後はと
かく多雨で、雷鳴がしきりに起り微震は時々起ったが、廿八
日の暁の強震のほかはみな軽微であった。閏七月にも依然微
震は持続したが、中でも六日午後三時、十六日午前二時、二
十日午前六時、二十四日午前十時の震動は比較的に強震であ
った。このようにして余震は九月を過ぎ、十月に入ってもな
お皆無とはならなかった。
 被害状況 六月十四日深夜の突如とした大地震に石燈籠や
石碑の類はほとんど倒れ、分部町の元三大師の表門が倒壊
し、塔世(ママ)西裏には破壊家屋ができた。円通寺、天然寺、本徳
寺等の本堂は大破し、その他の寺院や藩士宅の高塀等は所々
倒壊した。また至る所の屋根瓦が飛び落ちてその状況は実に
無惨であった。しかし津町の被害はまだ比較的に軽少であっ
たが、伊賀の被害はこれに数倍した。上野城は大破し東西両
大手門の石垣は崩れ門櫓は破壊し、城代藤堂采女の邸は倒壊
し、町内に全壊家屋四百四十八戸半壊家屋五百十九戸、圧死
者百二十五人、負傷者百四十一人を数えた。伊賀国内諸村で
は、土地が亀裂して泥を吹き出した所や、地盤が破壊した所
等があり、堤防の破壊延長十七万七千四百四十一間、農村の
全壊家屋千八百六十三戸、半壊家屋三千三百八十戸に及び死
者四百六十一人、負傷者八百四十人に上った。このように伊
賀地方の災害は甚大であったが、伊勢地方では津以北が激震
で、四日市では民家が三百四十一戸倒壊し、江州から京阪に
かけては更に激烈であった。南勢松阪では津と同一程度であ
り、山田、志摩と南に向うほどだんだん軽微であった。災後
に津町民はこれらの状況を聞いて不幸中の幸であったことを
喜び合ったとのことである。
 藩の災害救済 伊賀の大被害に対し、藩庁は玄米炊出しを
して災民を救済し、藩士には禄高百石について救助金十五両
ずつを給与し、無利息十年賦で金十五両ずつを貸下げ、上野
町民には全壊家に対して一戸毎に金五両米四俵を、半壊家に
はその半額を給付し、郷村の全壊家は一戸について金三両米
四俵を、半壊家はその半額を給与した。津町及び伊勢領村の
災害はこれに比べると遙かに軽微であるが、それでも伊勢領
村被害者の全壊一戸について銀五十匁、半壊はその半額を給
与し、その支出総額は百五十両に上った。その被害者数の記
録はないが、かりに全壊半壊を同数と見て推算すると全壊半
壊とも百十六ずつとなる。それに堤防の破壊、地盤の欠陥な
どもこれに準じたことはもちろんで、その多くが北勢の領村
であったのである。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻3
ページ 147
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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