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項目 内容
ID J1600123
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔伊賀上野紺屋町史〕
本文
[未校訂] 安政の伊賀地震。正確には嘉永七年(一八五四年、十一月
二十七日より安政元年)六月十四日である。この当時の町方
の被災の模様を書いた「見舞到来並雑書記」を引用しよう。
 「六月十三日午刻(昼十二時)地震。石燈籠など損する程
度なれども、それより続いて地震時々有り。夜中は如何と夜
明し、翌十四日早天より日和宜敷、矢張小さき地震時々有
り。同十四日丑刻(夜中の二時、十五日)過ぎ俄に大地震、
家々死人怪我人大多数、一先何れも表口へ飛出、町の中へ相
集り、大変驚き入ること無限。地震前後忘却、生休無之仕
合、地震追々きびしく地動仕候。もっとも天地共鳴事雷の如
く恐しき事譬えがたし。其時人体置所なく、此場地中割れ候
ては一統皆打死と心極め、人体顔色生気無之、諺に言う人面
土色の如し。翌朝(十五日の朝)大藪所々に有之是を目当に
町方男女共残らずのがれ行申候。此藪にて地震相静候迄、
銘々住居相極め、此所に而薄命続き申候。日数凡そ八・九日ば
かり矢張地動仕候得共、少しは軽く相成、銘々帰宅致し、町
中へ掛小屋致し、それにて昼夜住居致す事日数凡そ六・七日
ばかり、矢張地動仕候得共、御上様より御憐愍にて深き御仁
恵の御思召、追々御施行米難渋の者共へ被下候。猶亦社内な
らびに御神社様へ御誓願存候趣相触れ、これにより諸人少々
安堵仕候。さりながら時々地動有之候間、宿元にて火焚の事
相成申さざる様にきびしく御触れ有之候。之に依り当七月
五・六日頃迄、町中へ釜を焚きそれぞれ食事相調申居候。ま
ず御蔭にて、日々地動軽く相成候間、追々居宅へ引移候得共、
誠に借り宅同所の住居に暮し居候。其余前後恐しき事譬え難
き仕合に御座候。誠に前代未聞と申しながら、当地震に出合候
者は如何なる過去、何分何分此上神仏の御加護よりのがれ難
き候事、恐恐慎しむ可き者也。此度大地震に付、御上様より
人別ならびに潰家怪我人等は吟味有之、格別の御憐愍に付、
御冥加のためそれぞれ下され候左の通り。
町方
一本潰家 四百七拾六軒 壱家につき米四俵 金弐両宛
此米高 千九百四俵 此金高 九百五拾弐両
一半潰家 五百七拾八軒 壱家につき米弐俵 金壱両宛
此米高 千百五拾六俵 此金高 五百七拾八両
一怪我人 男七拾三人 女六拾八人 但養生料 米弐斗宛
此米七拾俵弐斗
一死人 町方 男六拾八人 女五拾七人 壱人前御弔料と
して米壱俵宛 此米百弐拾五俵
 以上で地震の大体を推察出来ると思う。安政年間(一八五
四-六〇)日本の地震活動はきわめて盛んであって、多少と
も被害のあったものまで数えると、その六年間に十三回の地
震があったそうで、そのうち一番大きかったのがこの伊賀地
震であった。本町も例外でなく、図の斜線の町家及び士族屋
敷、南の外馬場に面した土塀(或は堤)が崩れた。倒壊家屋
は二十一戸であった。町民の避難先は主に町の南裏(正崇寺
の裏)一帯の竹藪(公儀のもの)であった。三之町筋の路上
を一メートルも掘りおこせば、当時の瓦礫の層を見出すこと
が出来る。総じて武家屋敷(丸之内、忍町)の倒壊家屋が多
く、三筋町は少なく、而も東西の通りよりも南北の通りに多
かった事は、武家屋敷と町人家屋の構造、地震の方向による
のではないかといわれている。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻3
ページ 130
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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