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項目 内容
ID J1600122
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔新編伊賀地誌〕▽中野銀郎著
本文
[未校訂]崇広堂、藤堂藩の文武を教授せし学校なり。寮の西に又諸教
場ありて諸種の武術を教授せり。但し砲術(鉄砲)の練習場
は西の丸に設けありたるも安政二年の大地震に破壊す。有恒
寮及其他の教場も悉く此時に倒壊し崇広堂のみ残れり。(○
安政元年の誤か)

 前年丑の秋より世間騒がしく黒船六艘相模の沖へ錠(○マ
マ)を下して此方、毎日街道筋、騎馬武者など馳せちがひ飛
脚は織る如く人の心も落つかざるに寅の六月(安政元年)十
四日夜八ツ過天地引裂るが如き地鳴とゝもに須臾にして阿叫
焦喚の地獄と化しぬ、当国また千載にもなきほどの大地震の
中心とぞなる南江州、北伊勢併せて被害夥しく倒屋数を知ら
ず、伊賀上野に於て出せる死人九百、潰れし戸数二千二百
五十、怪我人半潰のほどは何千とも分らず、朝屋、長田、東
村辺地面七八尺下り羽部川と佐那貝川の落合湖水の如き淵と
なり、青田の底より白砂吹き出し、地割の中より乳の如き白
水流出し、お城の長倉は半潰れとなりて壁落ち破れ、米、武
具、銭箱等数多損じ残れるは丸の内芝の手へ積上げて昼夜無
足人衆張番せりといふ。
 家中の面々十五日の未明より八方に別れて検分あり、落た
る橋、倒れたる民家には莫大米金を与えられ修繕を促し又自
ら役夫を指揮して復興につとめられる有難さに人みな感泣せ
ざりしはなきとぞ、うれしき仁政なり、十六日には伊勢・津
より御大身の方々ぞくゞゝとお見舞ありしといふ、両大手の
門、桝方の石垣みなこの時に山崩れて外堀えくべこみたり、
又東町平野屋の酒蔵建替て新たなるにいかなるにや外堀へ倒
れこみ数十の酒桶壊れ幾百石の酒堀に満々て鯉鮒のこらず
死せり、之を見んとてや亦々混雑するも一興なり、人々一旦
は諸所の藪、畑地などに馳け込みしも食を求めて町方は我家
の店先に戸板を合せ、或ひは在方軒先に蚊帳などめぐらせて
雨露をしのぐさま、潰れし家の下より変り果た親、兄、弟、
子供の姿をみては、早や言葉もなく、此中にも地震は夜とな
く昼となく大揺し老幼病人のある家などまことにみる目もあ
はれなり。きのふに変る人心ろ(ママ)金銀、器財衣服の類などいま
は塵芥のように思はれて、生米をしがみ、塩をなめてぞ過し
ける。
 丑年の早魃にて焼けこみし地ほど翌寅年の地震も強かりし
由、これ陽熱地中に滞る故にや、(○以下略)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻3
ページ 129
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 伊賀【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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