[未校訂]安政の伊賀地震上野北郊の服部川の河原に、「法華経塔」
と刻んだ高さ三メートル余の石の碑が立っ
ている。ここに巨大な碑のあることも、その碑がどういう碑
であるかということも、いまでは大部分の人びとから忘れら
れている。この碑は、「安政の伊賀地震」で、瞬時にして横
死した約六〇〇人の人びとの霊をなぐさめるためのものであ
る。
安政の伊賀地震は、げんみつには嘉永七年(一八五四)(十一
月二七日以後が安政)の六月十五日に起った。大日本地震史
料によれば、上野城内・町方・郷方で死者約九〇〇人、全壊
二、二〇〇戸余の被害を生じたとある。安政二年、上野寺町
上行寺の住職によって建てられた前記の碑では、死者五九五
人、負傷者九六五人、家屋の倒壊二、〇二八戸とあり、その
惨状がつぶさに刻まれている。今村博士の研究によっても明
らかなように、この地震の震央は、伊賀上野付近と想定さ
れ、野間部落では、戸数六〇戸のうち四〇戸が潰れ、隣りの
三田では九三人の圧死者を出した。
前兆はすでに十二日からあり、十三日には二〇数回にわた
る強度の前震があった。十四日は比較的静穏で、人びとを安
心させていたが、夜中の丑三つどき(十五日午前三時)にな
って壊滅的な本震に襲われた。
大地震のときは、濃尾地震の根尾谷断層のように、震央付
近に地震断層のできることがある。安政地震でも、上野北方
に長さ約一キロメートル、幅約二百メートル、高低差最大
一・五メートルの断層が、西南西から東北東方向にできた。
その方向が、木津川断層の方向と一致することから、地震の
原因は木津川断層の活動に帰せられている。
安政の大地震は、地震による直接の被害のみにとどまら
ず、盆地底の水害をその後において激化させる原因となっ
た。伊賀の主要河川が合流する盆地底付近で、地震による地
盤沈下が起ったからである。盆地の水を集める岩倉峡の水は
けが悪くなり、逆流する水が付近の村落と耕地を浸水するよ
うになった。