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項目 内容
ID J1500267
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔佐倉市史 一〕S46・3・25佐倉市編さん委員会編・佐倉市
本文
[未校訂] 安政二年十月二日夜、所謂安政の大地震が起った。当時佐
倉堀田藩の邸は小川町(猿楽町)にあったが、震度大きく、
火起り藩士の死者は男女四十一人であった。藩主正睦は寝て
いたが、御取刀で駈け出したが無事であったが邸は直ちに焼
失した。江戸の被害は佐倉藩の記録では死傷者凡九万八千
人、出火三十七ケ所としている。なお震災の模様については
参考として佐野堀田藩の番町屋敷にいた西村茂樹の回顧録を
左に。
 安政二年十月二日の大地震の時は余は江戸三番町佐野の藩
邸にあり、此日天晴て風なし。時候温なる方なりき。夜四ツ
時(今の十時)を報ぜしにより寝に就かんと欲し便所に入り
しに、忽ち大風の至るが如き音あり、西北の方より震動し来
れり、第一震動やや静ならんとせし時、引続き更に第二の大
震動を来し、是にて家屋の崩壊する声にて魂魄を褫ふ、余急
に便所を出でしが、家中の燈火消て方角を弁ぜず、余声を揚
げて母を呼びしに、妻の声にて母はすでに屋外に出でたりと
答ふ。因て裏口より直ちに庭外に躍り出づ。此時塵埃四面に
満ちて呼吸を窒がんとせしは家屋土蔵の崩壊するより壁土屋
根土等の飛騰したるなり。家は菱形に曲がりしかども顚覆せ
ざりしを以て、幸に家内には一人も怪我したるものなし。此
時東北の方に当りて遙に火光の天を燭らすを見る(後にて聞
けば吉原町の出火なるよし)夫より暫時に南方に向ひて処々
に火起り南北一体長さ一里余の間尽く火焰となる。此夜幸に
風なかりしを以て火勢は甚猛ならざりしかども、因より消火
夫もなければ之を指揮する者なし、火は焼広がり次第にて、
土蔵は皆崩壊したる事なれば、火に逢ひたる家は一塵を残さ
ず焼失ひたりといへり。……藩邸(佐野藩)より一町程脇に
九段坂の馬場あり(今の靖国神社の鳥居より社殿の間に当
る。佐野藩士はここに避難)。江戸中に尤も震力の強かりし
は、小石川・小川町・一橋門外・大手前・八重洲河岸・和田
倉馬場先門外、日比谷幸橋迄一帯の地、本所・深川・吉原
等、死人尤も多し。火災は殆んど下町の半分程を焼尽したる
が如し。山の手は震力総て軽く、夫故火災も起らず、従ひて
死人も少かりしよしなり。諸侯の藩邸にて尤も死人の多かり
しは、越前侯、姫路侯、会津侯、忍侯、佐賀侯、盛岡侯、郡
山侯、水戸侯なりしと聞けり。我本藩の小川町邸のごとき
も、亦其一なり。此辺震力最強く忽ちに全邸を震潰し、加ふ
るに処々より火起り藩士の死するもの男女四十一なり。其内
家屋に打たれて死するもあり、火の為に焼死する者もありし
が、焼死者は却て圧死より多かりしといふ(西村茂樹・泊翁
全書第二集、往事録)
 佐倉地方の被害状況。安政地震の震源地は江戸川口であっ
たので佐倉領城付村々にも与えた被害は大きかった。佐倉役
所に入った速報は次のように稍々大げさに報じたのもあっ
た。そのうちの二、三をあげると、十月二日、夜四ツ時大地
震ゆれ始めてから朝六ツ半頃迄続いたが、成田山新勝寺では
石燈籠は全部倒れ、成田村の破損は表通りで十六軒、土蔵は
全部被害。酒々井の中川では入口の石屋前で山崩があり死者
があった。布佐村では土蔵が落ちて四人死んだ。藩庁では領
内村々役人江被害調査の報告を十月三日に命じているが、そ
の集計が左記の被害調書である。その前に城内の被害状況の
概略を見よう(年寄部屋日記・安政二年十月十日の条)
一去ル二日夜大地震ニ付、御城内外破損所調書、普請奉行大
目付差出。町在の分は両奉行差出候ニ付、今便江戸表江相
廻す(書上は全部で七十四ケ所であるが左記は抄録であ
る)。
一本丸の館、下屋半潰、屋根の棟瓦全部破損
一銅櫓廻り地割、銅櫓の北角から三階櫓迄南江折廻し、五拾
間余地割、大凡幅一二寸より七八寸迄
一角櫓東南の方二方地割、屋根瓦落つ
一一ノ御門大破、門に続く惣土塀の内、長さ延百十八間倒
一椎木米蔵二棟屋根大破
一三ノ丸御殿より鷹部屋迄の地割百弐拾間余
城付村々(印旛・埴生・千葉郡)地震被害調書
一百姓家潰破損二八五軒内八五軒印旛郡之内(潰一四
軒、半潰七一軒)三九軒埴生郡之内(潰七軒、半潰二
軒、大破三〇軒、半潰一六一軒)
一御蔵并土蔵物置厩湯殿雪隠潰破損四一五ケ所 内 土蔵
一二二ケ所(潰三一、半潰三八、大破五三)、物置潰一
○七ケ所、(他略)以上印旛郡ノ内。郷蔵大破一ケ所、
土蔵五七ケ所(潰三ケ所、半潰五四ケ所)物置五ケ所
(他略)以上埴生郡ノ内。土蔵一一五ケ所(半潰九〇ケ
所、大破二五ケ所)(他略)以上千葉郡ノ内
一寺院并神社堂宮破損三六ケ所(詳細は略)
一橋潰破損七ケ所(詳細は略)
一堤并土手用水堰震込欠崩五ケ所(詳細略)
一山崩并石垣石燈籠欠落破損六拾ケ所(詳細略)
一田方震込反別壱町八反四歩(詳細略)
一怪我人四人(三人即死、一人存命)印旛郡ノ内
(年寄部屋日記・安政二年十月廿八日)
以上は佐倉城と城付三郡の被害の集計概要であるが、次に村
毎の報告書の一例として臼井田町の書上をあげよう。
安政二年卯十月
地震ニ付破損所書上帳
臼井田町
一土蔵壱ケ所
桁行三間
梁間弐間
繁左衛門
壁破損仕候
一居家壱軒
桁行五間
梁間三間
万吉
屋根破損仕候
一舟頭小屋壱ケ所
桁行三間
梁間弐間
村中持
潰家ニ相成候
右は去ル二日夜四ツ時頃大地震ニ付、潰家破損所為御見分
御出役被遊候ニ付、書面之通り奉書上候 以上
月番組頭四名
(名前略)
山崎祐三郎様
(ロ) 安政の震災復興に対する高役金
高百石について金五両負担。左に青菅村と成田村の記録を
記す。
△青菅村の負担。当村の負担について村の記録によると次の
ようである。「十月二日(安政二年)大地震ニ付、御上屋敷つ
ぶれ出火仕候間、外中下御屋敷も破損いたし御物入ニ百姓共
ゟ見まへ(舞)として、百石(ニ付)五両ツゝ差上度申上候
様、願書差上候処、十二月十八日、名主共御召出し、百石ニ
付金五両ツゝ、来辰三月迄ニ御上納仕候様仰せ付られ候。郡
奉行城左次右衛門・御代官[神|じん]猪左衛門」。そこで青菅村は七
両二分を村中割にして上納した。名主の半左衛門は高掛とし
て六貫四百七十二文を負担している。
△成田村では「江戸上屋敷潰之上類焼、并地震による佐倉城
修覆并、御家中御手当御用として金拾九両一分三朱ト銭百六
十八文(高百石ニ付金五両)を安政三年二月十六日、名主が
御用金として佐倉え持参」している。成田村ではその取立法
を三十五%をナラシ(平均制)、六十五%を高割にした。そこ
で高壱石ニ付、二百三十文、ナラシは表通り一軒ニ付二百九
十三文、裏通りは一軒ナラシ百四十七文と賦課した。なお、
成田山新勝寺では安政二年十一月二日、大地震で横死した人
のため施餓鬼を行い、乞食壱人江白米五合をあてがった。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-2
ページ 1720
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 千葉
市区町村 佐倉【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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