[未校訂](表紙)「安政二乙卯年十月二日夜四ツ時
江戸御屋敷鋪方町方共
地震類焼場所巨細書之写
潰家潰土蔵共取調附街道筋近在迄
」
(注、「史料」第四巻六〇三頁下三行目以下と同じ、但同書六〇七頁下五行目以下に次の文がつゞく)
右之通焼失場所見届不洩様相糺し
以上潰家崩土蔵は悉く取調候所左之通
一日本橋辺江戸橋辺小網町大伝馬町辺
潰家 百三十軒
潰土蔵 弐十三ケ所
一堺町新材木町長谷川辺馬喰町小伝馬丁辺
潰家 百八十五軒
潰土蔵 五十七ケ所
一浅草御門外ゟ並木辺田町山谷今戸地内辺
潰家 千四拾七軒
潰土蔵 四十壱ケ所
一日本橋通一丁目辺東西中橋辺まで
潰家 四十弐軒三棟
潰土蔵 七ケ所
一南伝馬町廿組辺
潰家 六十六棟
潰土蔵 八ケ所
一京橋ゟ南も組辺木挽町辺
潰家 六棟
潰土蔵 五ケ所
一東八丁堀茅場町辺霊岸嶋辺
潰家 百五十六軒
潰土蔵 二十六ケ所
一久保町辺芝口辺浜松丁辺西之久保辺
潰家 四百九十四軒
潰土蔵 六拾三ケ所
一芝金杉ゟ田丁辺三田麻布六本木本村辺
潰家 百十五軒
潰土蔵 十四ケ所
一麻布谷町辺ゟ高輪渋谷白銀台丁辺
潰家 廿九軒
潰土蔵 無之
一神田新白金町多丁須田町永井町辺
潰家 百五十四軒
潰土蔵 三十六ケ所
一神田佐久間町湯島辺本郷辺
潰家 六十七棟
潰土蔵 六ケ所
一神田明神下本郷春木丁湯嶋辺下谷坂本辺
潰家 千五百二十壱軒
潰土蔵 百三十八ケ所
一本郷菊坂丁小石川辺音羽巣鴨駒込根津谷中
潰家 七百四十三軒
潰土蔵 十九ケ所
一小日向関口牛込市谷赤坂四谷かうじ丁辺
潰家 三百六十七軒
潰土蔵 三十九ケ所
一南本所北本所辺
潰家 百十九軒
潰土蔵 二ツ
一深川一円
潰家 四千九百三軒
潰土蔵 七百八十五
一南北本所者
潰家 三千四百十五軒
潰土蔵 二十二ケ所
一麻布善福寺門前長谷寺門前芝二本榎辺
潰家 五軒
潰土蔵 無之
一牛込辺四ツ谷辺成子辺千駄ケ谷辺
潰家 四軒
潰土蔵 壱ケ所
一浅草阿部川町辺新寺町辺寺院門前
潰家 二百五十四軒
潰土蔵 壱ケ所
一新吉原五丁町
潰家 五軒
潰土蔵 壱軒
一品川宿
潰家 十八軒
潰土蔵 無之
惣合高
潰家 壱万二千百四十八軒千七百二十四むね
潰土蔵 千二百九十ケ所
右ハ地震ニ付潰候家蔵員数、但焼失之分又は壁落候分ハ広大
ニ而かそへがたく候間爰ニもらせり
并ニ街道筋近聞書
東海道ハ程ケ谷限り神奈川宿崩多し、本牧・金沢・鎌倉・江
の嶋・浦賀辺迄
中山道ハ上州高崎限り此街道ハ地ゟ砂湧出、清水あふるゝ所
あり、蕨宿ゟ大宮辺さハり多し
甲州八王子街道多分のことなし
日光街道ハ宇都宮限り、街道筋ハ草加辺まで崩るゝ也
水戸街道ハ土浦限り、街道筋諸所崩る、下総筋ハ逆井辺つよ
くふるひ、行とく船橋辺同断、葛西又ハ二合半領所々いたミ
しと聞伝ふ、松戸・市川・柴又辺崩多し、其外在々市中共見
積候所高地之方ハ崩少なく、ひくき地所ハ崩多分なり、猶又
川添の場所ハ潰る所多く相見へ申候
○諸国の分ハ加賀・能登・越前・越後等所々潰候よし、又信
州も地震のさた有之、遠州浜松ハ御城下崩れやける所も有、
尾州名古屋もいたミ候よし、上総房州ハ西浦地しんつよく潰
る所多し
大坂文書ぬきがき
九月廿九日夜地震いりて大坂平野ばし箒町蜆橋筋崩れ、此辺
人損じ候よし
同廿九日八代目弟市川猿蔵若太夫座ニて不破と濡髪の役を名
残に興行中死去す、法号実誉義莚孝安信士五十二才
△江戸芝居やける中ニて、勘弥・羽左衛門・しうか・福助・
菊次郎・竹三郎すべて居宅残る、山の宿附の所ハ此外ニも残
り候家多し