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項目 内容
ID J1400030
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔自身の噂〕東北大学附属図書館・狩野文庫
本文
[未校訂]凡例
地震は恐るへし常なき物故大きく震れるを知りし人稀なり子
孫心得用心のため此節聞く事又現に見しを書とめておく
見聞の時其儘忘れぬ迄にしるす故に日限又事の前後にかゝわ
らす 見る時は心すへし
安政二卯年十月二日辰の日夜四時過比俄ニ大地震也、本を読
居所かたはらに居女燭台の蠟燭ぬき折候ゆへ消してハわかし
と申内、家の燈不残消へ、真の闇、南之方二枚の戸を明へし
と存る内、少しけつれ居候ゆゑ直くに無理に迯し、竹縁の手
摺有之上へかけ、庭へ突出して庭へ出る
○去月壁一ケ所往来不都合之所有之、壁を抜けんとて、障子
致し候処、此障子迯れ候と見へ、右の上へ天井落けり、小ゆ
れとも梁も落候処此障子つかへて落ちすに居る内、庭へ欠(ママ)出
し出候路へ梁落、此障子なるに丁度梁に而打れへき所仕合な
り、併天井落候時打しと見えひたいと左の手甲余程摺むき、
顔へ血流れ居候ゆゑ、娘とも驚薬付呉候、翌日見候へハ眼鏡
に余程血付居候、放心せしやら目かね懸居やら覚へす、扨
〳〵恥しき事なる、暫致す内、北より東へかけて火勢見える、
窓より見候ても余程焼候様所〳〵故、所も見分らす西南山の
手辺一面火事沙汰なし
御城の様子承候処、青山玄徳泊番にて居候故承る、地震の様
子故起上り候処、立て帯〆直す事出来ず二三度飛上る様ニ成、
よふ〳〵支度候、闇故さくり〳〵下へ下り時、大階子壱尺余
も向ふへ〓(ママ)上り哉、直に下りたら落つへきに仕合に何事なし、
二階の部屋障子二小間程切抜有り、其所より二階の部屋の窓
ありて空見ゆる所也、夫より見へる空にて稲妻の如く打火す
る様に光り候を見候由、牧野備前様伺ニ参る取次頭取部屋承
候へは頭取の家来衆へは此用達しに外とへ出しゟ北の方に稲
妻の如き光り見へ越後ハ北に当り此節
若殿様御国に御出候事故御案し申上候由咄候、御城御座敷勤
御番所〳〵張付烈(ママ)け又ハまかり、白土付候分壁大躰落候、四
ツ比迄中に両側部屋之前壁土ほこり残り居
地震の節壁土の数あたまへさつと掛り居候を覚候玄徳咄起出
て身扱(繕カ)して二階より下へ居、倒居り所々にて咄して居火之番
致ハ相番衆部屋頭取、火所等火之元セ話致、其後老若追〳〵
御登城有之、右之比迄震れ居り、雪洞(カ)持調子懸り少し早足
に歩行候得ハころふ様真田伊豆守殿御機嫌ニ登 城退出かけ
御玄関箱段下り被申候節手伝ふて上ケ候由咄候へハ、芝□□
□(御成所カ)辺よりハ余程長く震候事ニ哉
御玄関前御書院番頭持御番所庇落、御門石垣もゆるみ、中の
御門御番所損し、外張所諸事ならす、外にも落縁敷勤番百人
番所損し、外張潰れ、石垣ハ何処も損合候と見へ、大石の縁
そけ居候、大手桜田門番所潰れ、幕打て勤番四日の昼比大手
侍番所屋根等ハ出来る、桜田御門も余程御番所出来、渡り櫓
ハ不残落、御門下出かけハ板を伝ひ、坂の様にして有所を通
り候、帰る比ハ片付居、大梁ころかし片付る、土ハ左右山の
如し
大手御門外森川出羽守様御役敷(ママ)酒井雅楽様両屋敷焼る
馬場先御門潰れ往来なし、比々谷御門内本多中務様・大井大
炊様因州御門残、松内匠様半やけ、伝奏屋敷評定所焼る
外桜田御門左右石垣東ハ五六ケ所、西ハ二三ケ所垣石損し、
松の木御堀へこけ掛り
虎御門内松伯耆様・松美濃様表門ゟ北潰、塀落、類焼ハ伊東
修理様・松平時之助様・南部美濃様・松平肥前様・阿部播磨

浅草観音雷神門茅町通大護院八幡宮迄、日本橋ゟ京橋辺、新
吉原猿若町三座馬道辺、本所深川辺類焼、観音の塔九輪東の
方へ曲、瓦少しも損なし
善助咄、善助ハ以前召仕候者、当時加籠屋商売、稲葉屋とい
ふ赤羽有馬様表御門前住居、地震の前空を見候処、薄き雲北
の方より来り海の方しつ〳〵と行たりしか其跡震り出したり
五日暁大手門腰掛潰居候処よりもへ出候は勿論町火消も入消
防せし也
伝馬丁牢切開き罪人離し候付、所々乱防致(ママ)し道行喰物屋へ入
喰、又古着屋へ入衣類着し、小勢之家へ入うるしを打散し、
葛籠所行之由、三四人組合歩行様子、近所山本甫斎へも参り
候所弟子居合候故何事もなく帰りし由
怪我人寺江持行に長持へ二人入俵ニ入手足も出候儘又車にて
十三人乗行しを見しとて咄し承候、中々桶瓶無之、沢庵漬入
樽を明ケぼろ切等ニ而詰持行もあり、寺の門内十三人前積置
候を見た人有、桶瓶江入、寺へ持行樽等持帰るあり、程々の
躰筆に尽しかね候
吉原町左右から家たをれ客を入候女迄八分か九分死せし由、
猿若丁も同様の躰、土蔵震潰し、其跡へ火事と成りし故、皆
〳〵丸焼、聖天丁へ付し所一例の程も残り候由
穴蔵ハ大利運なり、穴蔵の上へ壁土等落候所火事大躰無事之

五日比承候、左官手間一人弐拾弐匁五歩、土こね一人十匁宛
の由、参り候事故、自分土蔵の崩有候へ共当分見合候様強而
留る人有故、先つ其意に随ふ
わらの繩壱荷壱両弐分之由平常より七八そふ倍の由諸色高直
の由
地震の翌日与力衆遠慮故姓名
しるさす
御城内張番所潰、箱番所遣当番
の事故詰居られ候か、其辺土われて長サ三五間宛割れた跡見
ゆるなり、其地の割目より折〳〵多場(ママ)粉をのむ位宛煙出てハ
止ミ止めハ又出る、不審に覚しトなり、地中発し残りの気に
しもあらんか、此気多く凝塊りて発る時地震に成る事にてあ
らんか 半林話
外桜田御門内より内桜田御門前迄地割れし跡四五間程高所候
に有、又四五寸も地下りし所有之、御堀端の石常より高く見
える
地震二日の四ツ過故(ママ)夫より三日四日ハ庭の空地ある所へ、樹
木より樹木へ竹を渡し、繩からけにして天井代りに先年より
用意致したる火事用心の陳敷紙と唱える渋紙を張り、其下に
夜具を着てうづくまり夜を明し、しかし裏の畠へ土曲突こし
かへ飯と汁ニハ出来候を難有仕合と存居候
町方売物さらになし、二日も過て芋売一両人来候、豆腐位は
売候様ニ成る、江戸中家々惣潰半潰多し、わつか少々損候家
ハ屋根有る所に住居する、自分方なとは先つ其中ては[能|よ]ひ内
にて、三四日目に畳を並らへ住居する、夜る寝て居る所へ風
吹込透間より空みゆる
晦日日向口土器(カ)町にて行逢同人咄、上総も同様地震つよく田
を吹上て畑より高く成りし所も有由
平瓦を大そう手近に一二枚宛寄せ置、震出候外へ逃出す時火
鉢其外火の上へ置て火の元のためにと用意致置候
高輪の海汐引方つよし、尤三日ハ其はつなれとも例三月三日
汐干なり、夫よりハ多く引く、しはらく汐来る事遅し、是ハ
津波ても来るへしとて、皆〳〵御殿山に逃け行しニ何事もな
し、三日比大汐なるに小汐位さし来る由
当秋堀丹波侯御庭桜満開之由承り恐れ候、数寄屋橋御門外数
寄屋町稲荷社桜切株より桜咲、見物群集して公儀より差留に
成、十月比蚯蚓土より出て這歩地中熱し候哉
川崎の脇大師河原近所市場といふ所常々水の能く涌く井戸あ
り、近辺の人々も掘当てた[能|よ]ひ井戸誉る位なるに、ある日菜
を洗ひに行しか、常よりわ水多出て砂交りの水出候故、井戸
を誰かき廻せし哉と聞けとも、左様のことなし、夫より四五
日過ると大地震なり、地震前に水増し常は吹く井戸故、井戸
かれ赤銅にて水落る様子拵てあり、地震後は水あふれ水はき
溝川ひらき真青なる砂多く吹出し植物埋むる程なり、隣家主
人の弟成る者の宅の井戸なり、水涌上り吹上り、往来も庭も
流れ通るとなり
無心て居る時腹の内ゆら〳〵して地震かとおもふ時あり、或
参りて申には、人は小天地なれハ腹の内ゆら〳〵する、いま
た地震止まし、又来る事有へし、往来する人の咄歩行に、何
時には又震ふ、何処者神仏へ伺立候にあかりし、何の御告け
あり、何の守様て御鬮も取被成しか重き御慎みと有しなとい
ふも、世間の人の腹一躰おたやかならずと申せし
近所の山本氏へ町方廻りの衆某遠慮ゆゑ姓名しるさす被参ての噺世話
した□た宿へ帰られす、此節品物を買しめる者、品物直段
引上ケ高直に売る者、工手間直上け致す者承付、見当り次第
しばり吟味する、おし付其上の万事下直に成るへし、御見合
にて普請御取かゝりて直く被噺けるよし山本氏参られての物

海辺大工町、浅草雷門前、幸橋御門外三ケ所御救小屋出来て、
野宿の人を御助け、増而深川八幡社内上野山下明地江出来
十月九日小春比とハ申なから暖かは三月比の如し庭の彼岸桜
余程咲堀池の鮒金魚浮く
岩城家へ用達者麻布に住居某余程の年寄成か、地震之折蔵の
中に居、逃けすとても此大変何処へ行ても致方なく、故に土
蔵崩れたら夫迄と爰に居り、死ぬへしと意地を張て少しも動
かす、其子種々諫めても用ひす、致方なく其子申すには分ら
ぬ人かなとにきりこぶしにて背中をたゝきたれは、大に怒親
に手向ひするにくきやつと立上る時其子逃出せハ引続て追駈
出し故、其儘親を背負ひ逃出したるに、後の方に物音する故、
振返り見れハ今迄居た土蔵崩レとなり、尋知にて親を助けて
連行しとなり、勢亀来りて物語するを承る
八日の昼過より誰いふとなく今日地震有り、夜八時大震なり
と申出すと、成程今日ハ七日め成故左様もあらんと尤を付候
やからも有、人々驚き赤羽川の端河岸へにけるとも、屛風又
ハ障子戸て囲ひ上へ渋紙油紙張りて一夜野宿する人多し、其
夜少し斗地震有り迄に済しなり、其後処々品川辺海辺の方三
四人津波か来る〳〵と呼わり歩行と品川女郎を始其外町家の
衆はら〳〵御殿山へ逃る人をびたゞし、又十日比申触らすハ
品川宿 (ママ)屋の小女夢に山伏とか老人とか来り、今日ハよろ
しけれと明十一日大地震有 是を持て居ると無難なりとて羽
団扇呉れし、目覚て見れハ神酒の口の羽うちわにちんちうて
作りを一本持て夢覚る由申ふらし十一日も何事もなく少々斗
地震有り迄也、是等皆〳〵盗賊の仕出したる事にて、人々家
を駈出させて其跡へ入て物を取るなり
麻布十番の名主与右衛門来りて惣(物カ)語所ハ、何処と申せしか地
震の時地中ゟ火打石にて打つ如き火多く立とりしとなり、此
火気火をさそいし故に火事なりしに、火事よといふと三十七
八ケ所のもへ出、本所深川斗りて十三ケ所程出火有しとなり、
新吉原出火あり、間もなく地震なりしなり火の地より出しを見たる、まみ穴の坂の下なり、地の割れて稲妻の如き赤き火出て三尺程上て左右へ散し由
地震後人々の心は同じうと見えて、火の用心とて夜廻りする、
向ふ横丁にて御家人・芸人・医師多住居なり、その二男三男
十四五才の面々おとこ交り幾群も〳〵在るか中に、棒を突て
火の用心と呼て歩行割竹柏子木を打合もあり、五六人にて太
き竹を突と太鼓に似た音あり、ひくゝ笛を交て来る思ひ〳〵
夜中八時前比迄ハ賑かなり
十四日暁前より雨降、屋根損し居る故雨洩して夜具を濡す、
構先〳〵屋根も皆落たれと壁もあり土蔵のしたミを折来り庇
をかけたれハ雨も降こまず損したる屛風襖も有れハ風も防
く、あんおんて居し類ハ実此節の中て結構身にあまるはあり
かたく存るなり、土蔵ふるひたる所へ火事ゆへ残なく焼失し
て、小屋に入て居し類金持地面持もあるなり中には高サ三尺
足らすの小屋かけ、廻りハ板屋根ハ戸板交りて外より這込む
小屋もあり、是等雨降て水流れ来て居る事も迷惑ならん、上
を見ても下を見てもほふずがなり、其中て只此通りにて居り
不足ハ言ハぬかよきなり、平常此心持忘ましきなり、しかし
程過きたらは忘勝手な物なり
昨日ハ御命構、近所に作り花屋あり三りん斗付きし花壱本小
さきお備に上ハ紅粉て染しを求めて庭の柚十はかりなるを取
て上けて御命構こゝろ致し、納豆汁斗り家内中へ給へさせる
迄なり
赤羽根松本町酢屋小左衛門といふ菜種屋の妹小笠原家ニ奉公
致し居、怪化故右酢屋へ下り養生致し居候、右の女中の咄勤
居候屋敷老女次席の女中四十二才成候あり、此女中地震とい
ふ時庭へ出し時軒の赤かね樋落たり雨水溜り惣身濡れ候上へ
物重り材木の下に成、其上へ物重り動く事ならす下の土を掘
て息を致し、折々濡れた衣服の水を吸て凌き居しか、日を過
て追〳〵尋てもしれす崩れし所掘けれハ息有て掘出され、無
事に生て先〳〵本復し丈夫に成なり、土の下に埋れ居間五日
のよし、地震ハ二日夜掘出されしハ六日の事なり、天人を助
け被下埋れる前に樋の水あび着物を濡らし、其濡れし着物の
水を吸て生きて居しハ有難く奇成事なり
十月十五日鈴木与衛門咄先つ町奉行所届
変死 三千五百八十八人内男千四百七十三人女弐千百七人
潰家 壱万弐千百四十八軒 千七百弐十四棟
潰蔵 千弐百九ケ所
是ハ町方斗民家寺社ハ未た分らす先大体のしらへの由
浅草観音の寺内生き人形といふ見世物出たり、成程能細工に
て是迄に無き細工にて、眼中の様子・手足体の肉合・息込の
様目を驚かす位なり、其上大きなる象を作何間といふ大サ見
物群集せしなり、其見物仕廻し跡何十間といふ小屋へ怪化人
療治所といふ看板を出し是又の入口木戸番居し所へ医師弟子
出居しを見て来りしとて物語せらる
上野山下広小路小ひなといふ芸者こんにやくと芋の田楽を
売、戸板敷て七りん様の物ならべ自身ハはち巻きて半てん様
の物着て赤きたすきかけて働き居る、此女ハ相応の顔形なれ
ハ買人大勢大繁昌によく売れり
十八日曇り寒くなし、夕方より雨降り出し夜入追々大雨、其
内風出夜半烈風大雨明七時半比少々小降、七時比雷(カ)鳴する、
大躰に雷夜明前空晴月の光り昼の如し、夜明上々晴天青空な
り、暖成事春の如し、綿[壱|ひと]えにてよろしき位の時候、昨夜ハ
南風烈敷して小屋かけのあら壁土所々落る
津波来る〳〵と触歩行故品川の先鮫州辺住居の御家者御殿山
又ハ大井原へ野宿する者門並なり、中には構わぬ人々もあれ
とも、家に居れハ横道の様にるゝ故野宿多し、廿三日噂津波
来ると呼歩行く者ハ漁師躰の風俗にて人々野宿の留守へ入て
物取する由、とらへられたるとの事なり
土師の人 (ママ)土蔵の間より掘出したる由、土蔵の土落
しに埋めし事二日夜より廿日迄土中に居候となり、掘出し土
間に置、少し水を呑ませ、粥入らハ湯を口へ入なとし手当せ
しかハ、少しつゝ眼動き人心地附候と廿三日夜に咄し承る十
八日程土の中に在しとなり、断食する人も有なれハ三七位ハ
食なしに居らるゝ物か、何処も打れすに化我なき故にやと申
たり
荒井町増田といふ酒屋のとなり此比出来候飛脚の男も五日程
土中居、掘り出されし有、是ニ混せしかハしらす
十七日の夕方相州本牧津波来候由、今二ツ来らハ本牧の山を
越すへき様子なりしか、一ツ来た斗て波来らす、同所ハ松平
出羽守殿持場なり詰て居られ候御家来衆の使にて承る、其夜
烈風雨雷鳴あり、房州辺焼ぬけしか、又大嶋辺吹出し上る、
海中へ吹出候ても致したるか、其夜東の方殊外赤く見へたり、
何か飛物ても有し由、江戸の海昼下り鳴りたるなり
奥勤飯田円―(ママ)と申人医を好人々薬も遣し候由、右之仁九月
廿八九日比地震あらんと知り案し棚の品〳〵其外割物始末せ
し故、損し物なく訳を承り候処、医師の術にて人躰を案候、
是ハ外之事てなし地震有へしと考し由、右之誰か申上しにや
御聴にも入しにや度々御尋有り、今日三度も震申へしと六時
二度位震大躰多少違ハぬ由別して覚候や被聞ても云かねる
由、十月廿日比迄ニは大小又少しゆら〳〵位又ずしりと言た
位七十六七度震し由、是を承りしハ廿五日の夜の事、廿日後
少々つゝハ震候故八九十度も震しにや
此度地震火事天災と申なから不びん被思召、寺々江被仰付
法事有之難有事
上野凌雲院前大僧正・本所回向院・浅草大護院・青貝青松寺・
本所羅漢寺・高野学侶方白金西南院・同行人方円湯院・品川
東海寺・日蓮宗二□・下谷宗延寺・同勝劣浅草慶印寺・筑地
本願寺輪番与楽寺・浅草本願寺輪番遠慶寺・浅草日輪寺院代
洞雲院 十一月二日修行有之十月廿日後触自身番屋江張出候

江戸節之三味線[率|ひ]く秀次郎後東古剃髪して浅草茅町に住せし
か、翌日外ニ座敷有之呼れしとて明日率候物を浚ひ居し所へ、
地震に驚駈出したるか、駒形堂の脇の家潰れ候ハ大地破て青
き燃出し其家へゆら〳〵と燃付しを見たり、江戸中所々出火
ハ此様な訳にても有へきにや
吉原仮宅場所願出候先年遊女屋商売仕候町々(注、町名は他
にも出ているので省略)
羽田燈明台に火を焚居たる者地震ゆゑ駈出して、江戸の方見
たれハ、余程太き火柱の如き火気高く立其外細き火は何筋も
立たるなり
会津家持二番の御台場溜と唱へ致所、四方八角物にて組立た
る巾五間程長サ廿五間の所あり、入口ハ左右有之七寸位の窓
四五ツ有迄の由、其所地割し所より火出て燃付て焼失せし由、
其辺通行の人地割し所より火燃出したるを除て通りしとなり
其外所々火燃出しを見たる者多くあり
吉原町玉屋山三郎居宅、地面書入にして平次尾張屋といふ也
借金して利分其外にて三箱斗りも借出来より、然る所へ震に
て火事にて預り置し古券状焼失せし故、右之申訳に三千両と
か返すに及ハすと申遣候由、此尾張屋ハ抱の女郎一人も化我
なく右之訳も有故、借金遣り切に致せしとなり、此平次と申
者元ハ河岸とかの小さき女郎屋被成しか、追々仕合能く大家
と成しと也
同所焼跡より焼けし力車に一輪有之也用立位の丹物いか程か
知られす、又ケベルと唱候西洋筒百挺程出候由、何故成哉不

十月二日の夜十八度震れしとなり、尤火中にありしなりとい
ふ其後承る
浅草天王橋水茶屋高砂屋といふ焰魔堂すし向ふのなかの庭を
茶を呑に入し人、踏たる一ケ所ふみ込し故驚見れハ水涌出地
上を流るゝ程也、弘法様の加持水といふ様なことかなとゝ云
て居しか、跡に心付るハ地震前々地脈狂ひし物にや、小樽を
井戸かわの様に致し置しか、地面ゟ少し上位の水嵩のよし
和泉橋外町会所御救米もみ摺大勢、立搗百八十人、踏臼百五
十人ニ而間ニ合、又踏搗四五十出来候由、立搗三斗、張九斗、踏
搗六斗完搗候由、尤部役ニ而米搗出候得共其日々賃銭被下由
回向院へ増上寺大僧正御出ニ而死亡人江
上意之趣申聞引道致被申候由、此余之寺院準して□□十一月
二日初月忌なり
あんとんの火ハ北へ向置へし、地震ハ東西へ震れるものの由
承候処、八九軒地震済迄消へすに在しなり
朽木近江守様屋敷ニ練塀仕立の土蔵有之、御家中の衆衣着等
入置候、地震之節戸前も不明内ニ、土蔵之中ゟ火燃出、自ら
是を焼きし者もある、地中ゟ火燃出との噂
楽(落)首
苦わやまぬ後日の雨夜るこまるむつかしいのハ金と知るへ

太平の御代のしるしか大地震上ニもゆる〳〵下ニもゆる
〳〵
二日 大地の(ママ)後四半比九ツ半、八ツ半、七比二度七ツ過四度
三日 昼九時七時 夜四時九時八時
四日 昼八半七半頃 夜四時九時八時過
五日 六時昼八時 夜六半四時九時八半七時 七半
六日 六時 昼四時七半 夜六時五時九時過
七日 六半比 昼四時七半 夜六時五時九ツ過
八日 昼七半 夜六半九ツ過七時
九日 昼八時 夜四ツ七時
十日 夜六過七ツ半
十一日 昼八時比 夜四七時
十二日 昼八半比
十三日 昼五時 夜四時過
十四日 昼四前 夜五半七時
十五日 昼七過 夜七時比明がた
十六日 昼八時夜六半七時
十七日 昼八時過 夜四九時
十八日 夜八時過雷大雨海鳴る
十九日 夜六四比
廿日 昼九ツ前
廿一日 昼六五時
廿二日 昼五半比
廿三日 夜明より雨降出し廿五日迄
廿四日 夜五時過
廿五日 明七過
廿六日 昼七前夜八時過
廿七日 昼六半過
廿八日 夜四時
廿九日 夜九時
十一月
朔日 昼九時
二日 なし
三日 夜九時
朝昼夜八十度昼二十七度夜五十三度此後日々夜々両三度一弐度も数
しれす尤少々斗の震なり
焼失屋敷 六百七十軒余
土蔵数 三十弐万五千六百余
火口 四十五ケ所
崩家 五十七万六千軒余
右之通之由
御救小屋
浅草広小路 幸橋御門外 深川海辺新田 追増 深川八幡
境内 上野山下火除地本所割下水出来 上野之宮様より上
野山下原並ひえ出来候、有福之町家施し出す、弐百両余施
しも両三人有之、多分の者へ御誉之上銀子五枚ニ□(別カ)弐枚又
五枚被下候と自身番へ張出有之、白米・手拭・昆布と沢庵
漬種々施し人有之候由
地震にて芝居入替番附、又鯰をいろ〳〵と案し候又要石役者
の逃候所、其外種々の錦絵六七十番も絵双紙屋にて売けるも、
板元御とかめにて手鎖とかあつけになと成申候由、夫より一
枚うらず(も欠カ)
去る御旗本衆獵の功者にて、士両人船頭同様の働きをする程
なるか、十月二日の夜網を付(カ)きに御台場先へ出られたるが、
二番の御台場の方に巾九尺も有らんかとおもふ世に云ふ火柱
立て、其中をもや〳〵したる煙の如く成る物立昇る故、不審
におもふ内又〳〵下総の方に同し様なる物立候故、只事にあ
らすとおもふ内二かわも付きたる繩不断と違ふ故早(カ)〳〵仕廻
て帰らんとせし時、船の底を二つほと[拍|タタ]く様に覚しにあとハ
しつとりと気絶ても致たる心持なり、能〳〵心付見れハ、船
ハ生麦村の青畑の中にてありける、底を拍く様に思ひし時ハ
地震にて水ゆれて畑の中迄水に持て行れしならんと、物語ら
れし縁者の衆承り、千代町の私の縁家へ参りての咄しなり、
御旗本衆の御名ハ遠慮ゆへしるさず
破損類焼之御役屋敷之御老中方若年寄衆下屋敷御住居ニ成る
堀田備中守殿庵宅・阿部伊勢守殿・本郷丸山内藤紀伊守殿・
溜池山王本多越中守殿・氷川隣遠藤但馬守殿・牛込あふ坂酒
井右京亮殿・御本家矢来屋敷遠方ニ付、馬上乗切白たゝきの
騎射笠にて登城、平川口未御門外へ本供参り居、駕籠ニ而登
城、御老中ハ騎馬供四五騎若年寄衆一二騎之供と、途中御通
行駕籠の衆も有之由
御老若遠方故年始御断出、所々年始後候而不苦と御達し有之
水戸様御玄関向破損ニ而、上使御出御断被成御出無之
有難き事ハ十月二日地震ニ付直様 上様おほしめしの由、御
使番衆江被 仰付而万石以上大名衆江残らす御尋ニ被遣、御
使番衆ハ火事羽折にて手分けして所々御歩行なり、尤玄関ニ
御出役人御呼出安否被相尋候ニ而、中ニは主人江申聞候等申
候而、居間又書院損しぬ所へ案内して主人被出 上使□ニも
有之、詰居候家来麻上下間ニ合不申火事具之儘詰居候御免被
下候様挨拶の向も有之、仙台は殊ニ行届候由、御使番衆噂有
之、仙台侯直ニ御礼登 城、薩州侯御防御役ニ而場所江御詰
ニ付、翌日御礼登 城有之候、其外ハ御老中御宅へ御礼ニ被
参候哉登 城は二軒斗なり
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-1
ページ 546
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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