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項目 内容
ID J1400028
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔大地震大風見聞記〕東京都立中央図書館
本文
[未校訂]大地震大風見聞記
久仁都佳美知容農
伊波保毛由利須敞
无有吾嘉奴民用廼
它免肆耳曾比久
中院通茂卿
美ニ仁幾ニ免耳民
流古登遠宇豆之於
喜无由玖寿恵迺容
農比登耳佳多良武
曾根良忠
斎藤市左衛門書
安政二乙卯年十月二日辰ノ日朝またきより、ふりつふらすミ
小雨折々風落し、薄日見エなとして、気欝し逆上性よからす、
終日臥て居れり、夕方西村瑞庵来り其家内小児も泊かけに昼
頃ゟ参れり、宵ゟ酒のミ瑞庵も酔て小唄なと□(謡カ)ひ、夫故や気
欝も開たるやふにて、酒も過しぬなれとも、三の糸音色たゝ
ならず、調子不揃、音あれていかにすれとも不調、是ハたま
さか数在る古道具古糸なる故とのミ思ひいたる、頓而夜たけ
たり、今は瑞庵ハ帰りぬ、跡にて食事されば仕舞勝手ハ未タ片
付物最中、四時少し過頃也、大地震俄ニ発動す、驚て東向の
坐敷障子を明、其儘素足にて庭へ逃出る、家内ハ三男の坐敷
にいねたるを抱出さんとす、其時棚ゟ諸道具落、戸障子はつ
れ、行燈ゆり倒し、壁落柱ゆかむ、幸にし家潰れす、追々外
江迯出たり、此時雨止、空ハ墨を流すか如く惣躰闇くして、
言ハ(ママ)一寸先も知れかたし、地震て彳かたく、二三度四五度転
たをれて漸起上るも、火の用心をこゝろえて隣家江も力をそ
へ走りあるく頃大筒の如き音して、鳴響其時火気の飛たる見
たる人も有とぞ、ほどなく艮の方に出火、東巽方とも出火、
一面ニ見ゆる、なゑ少静まりけれハ近辺を見るに、土蔵崩れ、
家かたむき、瓦落、大地横立に割れ、怪我人あまた也
一御城辺神田御役所近火と見えけれバ早々仕度して駈付る
に、南蔵院前坂大路二筋つふれ、二軒寺前町家往来江倒れ、
其上をのり越て行に、牛込御門前路三筋ほとお(カ)れ、御門石
垣とも損る、火消役人且人足等さら〳〵に見えす、たま
〳〵逢人御城を気遣ふといえども、跡へ一足先江一足ため
らふのミ也、雉子橋御門を這入るに、大番所皆潰、未タ人
の其中ニある様也、御番屋所々損たると覚ゆ、 御城御別
条無故直一番原江来て見るに、御役所高張見ゆるを目当に
走り付、御役処江も駈付に、火災なくて柱曲りたるほとに
てすミぬ
一御城内石垣御多門并外御曲輪所々崩、御番所向潰れ多し、
大手御門西丸二重御矢倉桔梗御門等潰、両御丸御殿向別条
なく、是ハ御普請も新敷梁ハ鉄ニ而巻たれハ格別の事と覚
ゆ、地震の時鉄釘のゆれて抜出る音聞へたりと泊番の者申
されたり、但鉄釘ハ五六寸も有通しとそ
雑記の部
抑元禄十六年十一月廿二日関東大地震同廿九日大火、今安
政二年迄百五十四年になる、江戸ハ都而大地震無きやふに
人々覚えたるも其年暦経たる故、終ニ人口に遠ずか(ママ)理、ミ
な大地震の用心なく、只江戸ハ火事早所と塗屋ニ造り、多
くぬりごめを立て、瓦葺ニなす、これが為に尤怪我人夥し、
其有さま処によりて地震の筋立と見へて当りの強と弱有、
其中ニ萱葺柿葺大方無事、土蔵ハ毎々(ことごと)く壁を落、これか為
に逃出たる男女往来の人共ニうたれて死せしもの数知ら
す、諸屋敷煉塀こと〴〵く崩れ、石垣多く崩れ、或ハ二三
間も飛出、亦ハ石燈籠の類にうたれて人多く損す
一此時瑞庵我家を戻りかけ、山伏町迄往かゝりたるに、俄に
風の落来る音して、石尾式部殿屋敷長屋の瓦がら〳〵と落
かゝる、是に始て地震なると思うち、大路三尺斗震あげた
りと覚たるが、其儘転倒れ、提灯消たり、其時艮の方と覚
しきに畳二畳斗の火気空へ飛あかりたるを見る、直居宅へ
帰しに無事なり
(中略)
(注、以下〔安政乙夘武江地動之記〕などにあるエピソードと同じ内容のものは省略する)
一牛込筑土なる紙屋三河屋某か小娘弐人有けるゟ、二日の夜
店ニ而将棊さしたるを見んと申けるを、見ずとも早く□(臥)へ
しとて母臥戸にともなひける、やかて地震ニ而土蔵の鉢巻
落て二人とも潰死、いたむべし、この始の段如く将棊見せ
おかはこの怪我ハ有ましきものとなん
一福山侯辛ふして逃出給ひ、即 御 登城あり、御愛妾其外
とも多く潰死せしとぞ
一清水御殿奥勤の坊主青柳何某、牛込山伏町ニ住ける、其夜
小川町馬橋通何某御屋しきへ前日より泊りゐけるが、二日
の夜帰らんとせしを主人今宵も泊るべしと止られ酒飲、御
合手なから奥座敷ニ居たりしに地震俄に揺出したり、殿は
其まゝ逃出る、側遣ひの女子とも二三人座敷に集り、坊主
のせなかに取付て臥まろぶ其時青柳思らく是ハなまじい逃
出るとも返てあやうしと心付、簞笥ある脇へ寄、間もなく
二階大屋根潰落て下になる、されど梁ハかのたんすにてよ
けたれバ、しばらく有て其家の僕に掘出されて助れり、死
べき覚悟と云をはじめてせしと申たりき、此人の宅ハ至而
無事なりし
一同し所の友人何某なるもの是も小川町辺御屋敷へ参碁を囲
ゐたるが、其家潰て梁の下ニなる、されども少々くつろぎ
有てや死せす、頓而家臣来り梁をあけんとするに不叶、往
来の人をこい頼ミて梁を引あけんと色々すれとも力不及、
其中近家より出火して次第に熾近付ぬ、大にさわき早々火
ハ進まぬ、いかがせんと云、潰れたら男とても不叶ものな
らば、火に焙られんよりハ一ト思ニ打殺呉よと頼ミければ、
是非なき事也、さらバ叶はん迄もと各々脇差をぬきてやた
ら掘けるが、辛うじて掘出されたり、されど白刃の先手足
ニ当りし也数ケ所疵付たれと助命せしとぞ
一法眼景山老先生此時深川御船蔵前井上某御屋しき内ニ住
ぬ、二日の夜はや寝たるに、太神宮社御祓棚ゟ寝たる上に
落て眼覚、地震なりと知りて其宮を抱、庭先江逃出たるに、
家ハ潰たり、ほとなく隣町ゟ出火して不残焼たり、屋敷内
即死三人有、幸にして七十ニ近き翁殊に耳うときの命つゝ
かなかりし
一小川町雉子橋通りなる何某御屋敷長屋備なる水戸山野辺家
の浪人某ハ、不断酒好ニ而、此家夫婦とも臥たり、妻なる
もの眼覚て見るに、何やらさわかしく灯し火消葭天井の寝
たる上ニ覆ママたる事とも合点ゆかす、夫を起しけるに、漸眼
醒ぬ、地震にて家の潰れたるを不知されと、草屋にて恙か
なかりしも事の幸、家根を破りて這出たりとぞ
一品川二番の御台場建物潰れ、土中へ埋込、亦出火して五十
人程も焼死す、僅ニ助りしもの海を渉り、辛して逃延した
り、合薬ニハ火不移、此時話残りたる人の話に、亜墨利加
の賊不意に大炮を放つて襲ひ来りしと思ひ周章せしとぞ
一市ケ谷火消屋敷同心三津間某といへるハ、未タ年若のよし、
地震の時火之見当番ニ同役三人ニ而火之見に詰たるが、地
震ニ驚、同役二人ハ下におりたり、自分跡ニ残されたる、
程なく火事見えけれは太鼓を打、通を呼けるに、跡にて賞
せられ、見習勤より新規同心へ召出されたり、此時火消屋
しきにて驚に太鼓打たるハなかりしぞ
一下谷御数寄屋町なる熊野牛王所覚泉院ニ奉公いたし居る下女か
ねといへるハ、生国上総の者なるよし、主人を地震之節助
たりとそ、公府より銀拾五枚褒美せられし身分にハ大なる
給もの也
一浪人石河[疇|チウ]之進今戸町家守清兵衛か地ヲ借て住せり、其家
三階造なり、家悉く潰れし時、主ハ下に居、二男ハ二階、
惣領男子ハ三階に在しか不残恙なし、是も一奇也
神仏擁護之部
(待乳)一真土山聖天一山格別の損しもなかりしに、地震之跡本尊を
拝るに、当尊像ハ往古ゟ秘仏ニ而別当すらたやすく拝する事あたはすとなんいつの間に御厨子の
扉明たるや、十八の扉毎く錠明て、堂守僧迄不拝秘仏を拝
ミたる由、不思義のことども也
一入谷なる感応寺本堂のミちきれてワツかに残、門番所迄こ
と〴〵く潰れたり、其時和尚所化弐人臥たる儘にて潰たり、
幸梁ハよけたりしか、屛風覆たる上に壁落かゝり、其上に
大屋根覆ぬ、和尚観念し、かゝる時あせりて精心をもミ切
らハ返てあやうかるべしと、やゝしばし無音ニてありける、
近辺と思しく助くれい〳〵とさけぶ声ほのかにきこゆ、和
尚思えらく是ハ我斗潰たるにはあらずと覚ゆ、是非なき次
第なりとあきらめ、凡二タ時ほども只題目のミ唱へ有ける
に、やかて僕の来りて掘出されたり、此男此夜近辺の噺せ
るよせに至りて内にあらず、幸に潰さりしなり、扨御奉行
所ゟ諸寺御調有けるうち、此寺檀家八十三軒有、うち壱人
こたび怪我無けんニ付、格別ニ御奉行所ニ而も気持にと思
召、此節稀成事かな、ワツか弐拾三軒有檀家の寺ニ而六人
死亡人有ことと伝たるぞ、殊に郭里大黒屋金蔵も此寺の檀
家なりき此寺祖師像の感応ならんと云あえり
一高砂町丹木多くミ吉五郎と云うものありけり、今年三才ニ
なれる男の子有けるか、此ほと既にかさいてきてなやめり
しかハ、かれか母年頃信心渇仰しける下総国成田山なる不
動尊の護符もて、其かさをなでゝをりけるに、かのちごの
いえらく、今宵大なる地震ゆりて此家つふれぬへけれは、
とくにけ給へと、吉五郎これを聞つけてさるあやしきこと
いはずととくいねよかしと云へとも、あなかちに二タたひ
三度云にぞ、あやしく思ひていましか、心を用てやり戸な
とくつろげて寝たり、やかて地震ゆりいてゝ家ハこほれに
ける、しかしのかれ出てうからやからこゝのたりいさゝか
あやまちも無くけるとそ
一近江国八幡と云処の人、いとけなき頃よりして仏の道に志
し、深く常に経陀羅尼なと誦けれは、親とも出家させて比
叡山にのほりしに、功つもりて天台の律師にまてなりて横
川の延命院に住しを、猶世をいとひて先つ年山科のほとり
に退き住けり、この八月故郷近江の八幡なる俗縁の方へ文
のたよりにいひおこせけるやうハ、九月の廿八日近江に地
震つよくゆるへし、又十月二日にハ武蔵の国なゐゆるべし、
とりわきて江戸のわたりつよかるべけれハ、そのよし江戸
のやからへも志らしてよとねもころにいひおこせける、さ
れとまことともしかたけれハなほさりをりしに、九月廿八
日近江国なゐいたくゆるしかは扨ハ誠なりけりと思へと、
江戸へいひやらんもはるかなる道の程日数なし、されハと
ていひやらてをかんも律師の志をもどかんと思ひわつらひ
て、其のあすの日人をたてゝ十月七日の日江戸石町某のも
とへその文もてこしかとなん
雑記追加
一火事なきハ 内外神田 日本橋 本丁 石丁 両国辺 牛
込 四谷 赤坂糀町 麻布 青山 新橋 芝西の久保 三
田 白金 目黒
火事有ハ 日比谷 八代州かし 小川町 吉原 芝居町
本所 深川 京橋 下谷 浅草
地震同時ニ廿一ケ所ゟ出火有
御救小屋 幸橋御門外久保丁原
浅草広小路
深川海辺新田
深川八幡宮境内
上野御山下火除地
東叡山
宮ゟ御救小屋同所山下原に並ぶ
一町会所調変死数四千弐百九拾三人男千七百人女弐千五百八拾壱人
怪我人弐千七百五拾九人
此余人別ニ洩たる死人数不知
一去ル子年ゟ町ニ火之用心之為水桶ニ四斗樽ヲ用ゆ、家々の
前へ並置、今度の凶事ニ野辺送り江棺桶間ニ会ず、仍テこ
の天水桶へ死骸を収て寺院へ送れる者多し
一天災とハ申なから、此度の死亡人と思召 不敏ニ、上野凌雲
院芝其外十二ケ寺江被仰付、施餓鬼行る、其上町七分金当
分之内上納御免被成下、橋々御普請急キ被仰付、御城破損
之御場所当分其儘被差置、武家ハ拝借金・被下金被仰出、
諸御貸付金当暮上納ニ不及旨御触有候也
一諸侯・諸役人供人数道具等迄并外曲輪御門下張番所人減し
被仰出候事
一御老中若年寄衆一両人の供連ニ而、平ノ上下に裏金吹込ミ
陣笠乗切ニ而、御登 城ある
一此頃何人の作ニや
丸の内に逃出て見れハうろたへのぶしのあたまに土ハふ
りつゝ
諸職の手間賃并諸色直段引上間敷御触有之候ニも、莫大に
あがる
諸職人鯰でうまひ酒をのミ
大地震古もつこうが用にたち古もつこふハ堀田家の紋
安部の中からほつたさんが出たよ此頃飴の中からおたさんが出たよと云てあめをう
新撰模様雛形

あぶねへから堀田てにしろミとも
なくともいゝ
前兆之部
一地面内の井戸九月中水殊之外増、冬向ハ二側三かわ位見へ
べき所、一かわ程に水増したり、地震後減して又二かわ程
になる
一隣境に榎有、枝葉こんもりと茂れり、七八月の頃よりまい
日数千の雀集り囀り遊こと柴色(ママ)もかくるゝ斗なるか、地震
のまいゐつとなく一羽も来らす
一十月朔日 昼向島辺烏啼事夥しく、夜に入狐群り啼、この
ころ鶏夜鳴多し
一九月末 下総安孫子辺鶏小屋へとまらず梁へとまれる
一十月朔日 同左(相)馬郡立崎村中辺山カゞチ地中ゟ出、動事な
らす
一本所御蔵所町深川元儁(ママ)箱に入置し亀不残死し、前々日鳶烏
啼事多し
一青山宮様御門前辺なる平塚氏某庭の井、地震の前夥しく水
の湧出る音せしかば不思義に思ひ、さし水にも哉と深き井
戸水なれハ提灯下げて水面を伺ひ見たれど、なんのかはる
事もなし、翌年十月七日朝五つ時過地震あり、去年十月二
日よりハはるかに小さけれど其まへ井戸の水なりけれバ又
地震ことやと思に、はたして其兆なりとぞ
一深川六間堀町家守何某上谷三九郎所持地面俳諧を好ミて静雨と号す、
地震の前にある宗匠の元にて
枯果て下ふしハつく柳かな 静雨
けふもくたらぬ冬の川舟 宗匠
この翌日地震にて家潰れ、其身死し、息子ハ危くして残れ
り、彼句ハ前兆とハなれりと或人かたりき
一上野御宮の社家御連歌師金子主馬、名ハ貞起、隠居して浅
草橋場に栖り、九月晦日の頃の連歌に「命の際の秋の暮方」
とありしか、二日の地震ニ家潰れ、其身并孫と下女三人終
れり
一当卯年の気候春より暖気勝にて、天気むしあつく、八九月
頃桜殊之外花咲、其外の木もかへり花多し
一御うまや河岸渡し舟漕男、二日の夜四ツ時頃殊ニ凪て空静
なるに、巽の方より大風の起るか如き音聞へて、両岸の家
瓦落けれハ、地震と心付く、居うち巽の方より三畳ほとの
物黒雲覆て飛来、安部侯の下屋敷表門に当るよと見えたる
に、[立待|たちまち]門倒れたり、其物舟の上を通り駒方(形)観音堂より浅
草寺辺へ飛去たり、其時舟漕男ハ舟の中へ打臥たりとぞ、
舟に而ハ一向に揺ざれハ、地震とハ思わさりしと、我家に
てハ子供弐人損ぜしとぞ、浅草寺の塔の九輪地震にて曲り
たるも此飛物の故にやと思わる
一二日の夜四ツ時過ゟ地震発し、其夜度々揺、亦八ツ時大い
に揺、三日四日とも昼夜五六度揺、五日明六ツ時過亦々大
いに揺、亦七日夜五ツ時頃亦々大に震動し、崩れかゝりし
家此時所々潰たり、其後十二日昼七ツ時頃つよく揺なれと
もさゐ(ママ)初ほどの事ハなく、追々静になり、十四五日頃ハ昼
夜二三度ほと少々ゆれ、廿八九日頃ハ昼夜一度位になる、
二日ゟ雨ふらず、十一日の夜雨風あり、雷二三声あり或ハ海の鳴音とも翌日になりて少々宛ハ揺たり、武家町家とも、明地或
ハ大路へ仮小屋を作りて当分ハ住居ぬる多し
一元禄の度ハ知らす、此度ハ地低之所地震至而厳敷、地高の
所ハ大かたゆるやか也、されど地震東の方より揺たる故や
否哉
一古人曰雷ハはしめ弱く後強し、風ハ始め弱く中ハつよく末
又弱し、地震ハ始め強く後弱しとぞ、此頃人々の又々地震
揺なりとて動揺するを此理なりとて、施印してしめしたり
とぞ、おしいかな此書を見ず
(注、以下は、地震説などあるも地震現象に関係ないため省略)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-1
ページ 532
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 東京
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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