[未校訂](表紙)「 佐久間長敬講演
江戸市政百話 一
安政大地震実験談 」
江戸時代の市政
此演題て例の如く御話いたそふ
徳川歴史を御研究の諸君は表面の大体は御承知になつてゐ
る故に、愚老は江戸町奉行の記録及び市吏の家に伝へた記録、
また口伝、幕末に愚老が取扱た実験に就て、内部の事を逐一
に申上て見よふと思ひます。
今まて重きを置かぬ事が、後人には分らないので、大間違
を書てあつたり、説いてゐる人もあり、また質問を請ける事
も多くあり、知ておかれたら警戒になることもありますから、
愚老の頭の中に遺ている事を考へ出して、惣浚をしておきま
す。中にはかびのはへた陳腐の事もあろふ、それは御聞捨な
ればそれまでの事、ある人はいふ、昔し噺しは死た小児の歳を
かそへるよふな愚痴だと御笑なさる御方もあろふ、そんな人
には不必要だ、併し昔の事をしらず大損害を蒙た事は目前に
証拠が顕れました。余り無頓着の呑気者も危い事であります。
まんざら不必要でもあるまい。静かに御考へになると合点が
行く、此度悲惨な天災にかゝつた人々人を殺し、財産を失ひ
し事は、昔しをしらぬ罰当りであります。
我々の祖先は三百年も其の昔国々から浪士が江戸に集まつ
て、徳川氏に仕え江戸町奉行の与力となり、愚老の家は八代
も世襲しました。第二の江戸子と化し二百八十有余年、苦き
経験をなめつくしてゐます。慶応四年に江戸市政は終りとな
り、第三江戸子則今の東京人へ譲り、また諸国から集まつた
人の舞台となつたが、矢張昔しと同し事、苦い経験をなめつ
つあるのだ。諸君其気でしつかりおやりなさい。奠都以来五
十年間他国より移住し江戸の地質も研究なく、土地の風俗習
慣御構なく、昔し噺しは夢物語り、天災地妖は政治の悪い罰
当り、文明進歩も明治大正の聖代天下泰平何事かあらん、天
は幸福を与え天佑交々来ると誇て安心して御坐るが、いつも
柳の下に鰌はおらぬ、慾に目のない人々は第二江戸子の捨て
ておいた、海岸へ別荘をたてゝ海や遠山を己れの庭と娯楽に
ふけり、奢侈贅沢を極め、海に築出し川を埋め、危い場所へ
大工場をたて、娼家を造り、利を争ひ、種々な成り金はいゝ
夢を見うかれて御坐るが、此度の大嵐大津浪で少しはお目が
さめたてあろふ。寛政の大荒からは二百二十年目、安政大荒
からは六十年目、天災は無遠慮に六十年目位にはお見舞申し
ます。急度おとつれかある、天佑処か天罰か来る、愚老はい
らざる心配であろふが、諸君も御承知の如く、江戸の城下は
東南は海を埋出し、北西は沼や川や水田を埋立て、町地をひ
らき商家をたてゝ江戸の発展となりし事は長禄の絵図や元亀
天正の古記録を御覧になれは分つた事、其後度々火災ありて
焼土また芥にて埋め土を地ならし致し、また焼瓦の埋立地も
益々出来たのた。下町と唱る所は水地か多い、愚老が五十年
前に住居した屋敷は今の日本橋区茅場町三尺も掘ると水か湧
いて出る。庭を造るに赤土を買て上置をしていた。沼の上に
住居てゐたのでありました。現今一坪が百円以上千円も致す
上等町でも其下はみなこんな事。近来西洋崇拝の熱にうかさ
れ表面を飾る弊風となり、猫も杓子も西洋館に住居はざれば
ならぬよふになり学校は皆西洋造にした。今に御寺や神社ま
で西洋造にするたろふ、それが俗にダンゴ主義とやら不正の
請負安普請の大建築が、此埋立地の上に二階三階四階五階甚
しきは十二階までたてた。表面形式見掛けたをし、文明を誇
り、また瓦斯、電気、水道の鉄管は町中の地庭(底)はくもの巣の
如くはりつめてゐる。酒屋製造場、家々の煙出しは高きを以
て定めとなつてゐる。其下に人間の小なまづ、大なまづは偸
安の夢をむさほつてゐるが、地中の大なまつか、そろ〳〵お
とかすへいかと、むく〳〵と持揚荒出したら、それこそ大変、
安普請の大建物は事の見事にでんぐり返しをうつであろふ。
煙出しはおちて屋根を潰した電気電信の柱は倒れる野次馬に
は水道は水をふき出し、瓦斯や、電気は火をふき出すかもし
れませんから一寸安政の地震を御噺しいたそふ。
○
安政二年の十月二日の大地震は愚老は十九才の青年時代、
十畳敷の座敷に寝床に入つた計り、寝付もせぬ内に西の方よ
りゴウ〳〵と響が耳に入つた。何事かと頭をあけると、夜具
のまゝに三四尺もなげあけられたよふに感した。雨戸は外れ
障子襖はガラ〳〵とはづれる、壁は落る。枕許に裁縫をしてゐ
た姉二人はどうしよふ〳〵となきさけびながら、私の上に打
重さなつた。二人の重みて即飛起る事も出来ない。[行燈|アンドン]の油
皿は畳に落ちてとうしんは燃ていた間内が見えるので尚おそ
ろしかつた。奥座敷に寝ていた父の叫び声が耳にいつた。そ
らと姉諸共に廊下にかけだすと壁が落ちてゐるにつまづき、
将棋倒れになる、ころがるよふに父母の寝間にいると、母は
声も出し得ずうなつてゐる、どうした〳〵とさくり寄つて見
ると母の寝床には大なる下女が三人も折重て押伏てゐる。よ
ふ〳〵引除て母を救ひ出すと母はほつと一息、已に此児をお
し潰してしまふ処であつたといふ、其小児か今は六十三才に
なる老人白髪の弟原[胤|タネ]昭てある。当時三才、下女等はまた寝
床にいらぬ片付物をしてゐると、大震動夢中になりて母の寝
床へ一人の子守り女第一に走り来りて母の上へ押しかぶさつ
た。次に一人二人とう〳〵三人に至た、当時の下女は十八九
から二十二三いつれも大道うすを腰につけたる如き肥え太り
たる頑丈造り、量目は慥に十五六貫あり。これが三人折重て
押伏られてゐた母は死ぬ苦るしみ、小児を押殺され間敷と身
を以て防いたのである。其の下女下男みな父母の寝間にかけ
集つた。其時にはこんな時主人を思ふは当り前、さもなくて
はならぬとおもひましたが、能考へて見ると昔しの者は正直
だ。此下女は一ケ年の給金壱両から二両まで下男は一ケ年三
両から三両弐分である。此些少な給金を貰つてゐる下人が此
大変に臨んて一人も己れの身の安全も思はない主人を思ふて
死なは諸共と寝間にかけあつまつたといふ。人情の篤実美な
る処が変時に臨ミてあらわれました。幸ひに家は潰れないが、
ガタガタはやまない、大小交々一息毎に来る、父は叫んだ、
早く火を[燈|とも]せ〳〵と命令するが、平日用意してある火事用心
の提灯はなげしの上に数多く箱にいれて掛けてあるのだが、
みな落ちて散乱してゐる。火打箱も落ち散ては役をなさぬ、
あんどんは打返へてゐる、手さくりに漸く附木を拾ひ出して
火鉢の埋火より火を移し蠟燭提灯を拾ひ集めて火を移して見
ると、こはいかに家内は狼籍散乱二十もある提灯箱はあちら
こちらに散乱し置戸棚はたをれ、戸障子もはづれてゐる。土
蔵は四戸前あつたが皆土が落ちて柱のみ傾いてゐる。早く安
全な場所を求めて立退ふといふのて、玄関前の広場を撰て畳
を引出し其上へ子供等を運び夜具を持出し打冠ておく。火を
消てしまへ〳〵、火事が出ねばいいといふ詞の終らざるに、
近所裏茅場町辺の町家にて火事だ〳〵助けてくれ〳〵のかな
しい女の叫び声が忽ち耳に入つた。そら大変といふ間もない、
忽ち天に火の粉と光りを見留られて来ました。常の火事と違
て、武家も、町屋も、警鐘も、板木も太鼓もならぬ、これに
ても江戸中の大変は察しられた。其内に天は火の海と変し、
火の粉と土煙りにてうづを巻いてゐる。其中を黒白種々な鳥
は飛ひ狂い其様は火をくわえて舞ふかと見へる。火の粉は霙(ヵ)
の如くふつて来る、物すごい事は言語にも、筆にも、尽され
はしません。家内中怪我人がないを歓んだ、扨これからは、
身命をいかにして助かろふと父は考慮した、先つ衣服を改め
ろ、焼たら何も持出すことは出来ぬ、きたまゝとなるのだ、
主人も召仕も先つ衣服のよきものを引出し着替、私は火事具
もいいのを取出して身を固め、大小も一番いいのをさした。
疵か付ては構はぬ。父の申付、持伝の両刀をさした。下男三
人へこれにも大小をささした。次には金だと貯え金を出して
主従に分けて持てるだけ持て、残りは庭の井戸へ打込て立退
こふこれだけより外に身につくものはない、土蔵も家も無論
やけると断念した。防くだけ飛火を防けと、あるたけの手桶
其外へ水を貯へて、下男三人は防きに宛てゝあつた、此時に
は慾心は全くなくなるどうか身命を助かる道はないかと考え
[計|バカリ]、持金を分されて私しは二百持と父の命た。これは迚もも
てない、昔しの壱分銀二十五両包八ツその重きことは背負て
もころ〳〵する、腰に巻けは腰かひける、下女や下男にも相
当に分けあたえて万一火か移れは家族一所に死を決して火の
尠ない方へ立退ふ、足弱な子供は誰々が背負え万一離れ〳〵
になつたら此金てとふともして食を求め、再び此地に戻れと
約束して渡した、其内に西の方は火の手盛にあがる、御城が
気懸りた。御上の御機嫌伺に駈付ねはなるまいと、昔し慶長
伏見の大地震をおもい出し、加藤清正に倣て此火の中に御城
へ駈付て功名手柄を致すへしと、武士気質を顕し、金も投け
すて、家族を見すて、駈出さんとすると父に誡められた。御
当家の御大法は夜中大地震では他からいつた者は御城にはい
れられない、平常の火事と違ふ、それより仲間の青年を誘て
奉行所へ出ろと教へられ、即人を走らして仲間の同志を集め
与力同心供人まで二十五人となつた。此御大法は斯て調ると
こふいふ訳、参考のため申ておきます。其時は夢中ていた、
四代将軍家綱公の治世慶安二丑年八月八日と廿日夜江戸大地
震、諸大名走つて御機嫌伺に登城し御城内甚混雑となつた其
時老中阿部豊後守忠秋は根来領番所へ出御して公方様始皆々
様御別条なく御機嫌宜しくと御挨拶して返し別条なくすん
だ。其翌日諸大名へ申渡に大地震の後は度々あるもの也、自
今以後は夜半の地震は夜明けて疾く御機嫌を伺ふへし、昼の
内もしづまりたる後登城あるへしとなり、これか御大法とな
つていたのてありました。
○
各火事具で身をかため、猫頭巾といふをかふり其上へ火事
頭巾を冠り、手には馬上提灯、手飛口をもち、下男には高張
提灯をもたせ先へ立て、与力仲間十人と下男十人同心は五人
である。新場橋は無事に渡り通町へ出て呉服町中通をかける
と桶町辺はやけてゐる火の中をかけぬけて鍛冶町へ来ると、
これもやけている、火の中をかけぬける、中々煙い、やつと
鍛冶橋御門え行くと、橋際は棒突固めてゐる、通ろふとする
と留められ人数をとふ、与力十人供十人同心五人と答ると、
足軽はいつもしつてゐる下座見といふ者、早速に橋向の御門
へ町与力同心衆上下二十五人とふれ込、サアー通れといふ、
橋を渡ると御門は〆てある、潜り門の処に侍多人数火事具て
固めてゐる、冠りものをとり一人つゝ御這入なさい、此潜は
中に一人の外は通れない、漸く一人つゝ這入ると、中には侍
か鎗を構え、抜身にして十人計立並んて固めてゐる、ものす
ごい躰。人数を改め桝形に入ると中門は〆てある、物改の差
図にて下座見足軽が、町与力同心衆上下二十五人通られまし
ふよと呼あける、片戸びらあゐた、どや〳〵と通り広場へ出
ると御門御預り大名は主人も、重役、物改、侍足軽、消防夫
まて数百人、当番所前に陣取り固めてゐる、弓、鉄炮、鎗、
皆戦争用意の姿勢にて見張てゐる、馬上の使番二騎計りうろ
〳〵と巡てゐる、西を見ると大名小路は一円の火にて盛んに
もへてゐる、土佐、阿波、二侯の邸は無事だ、これなれば奉
行所も無事ならん長屋下を通るな、瓦か落ち土手際へ寄て通
れと駈足にて奉行所目当に走ると、門前の茶屋は傾た計り潰
てはいない、奉行所も無事やれうれしやと一息つき、開門し
てあるから内へかけいると奉行池田播磨守は火事具にて身を
固め、玄関前に将几に腰打掛馬印隠高張提灯をたて、家来及
当番与力同心も皆な出て陣取てゐる、早速池田殿に面会して
無事を祝し、与力同心の家は大破なれとも怪我人及ひ組屋敷
内より火を出さぬ、今の模様にては此末類焼は斗りかたい、
何にか御用もあろふと駈付たと申立ると、奉行曰く先刻震動
を始めた時即大手へ乗付た当番若同心川上文五郎は馬に付て
外(別カ)一人走つた、大手に乗附たら途中で若年寄に出逢上様は我
々御係護申上る市中の救助をせよの命令があつた故に引返し
たら、紺屋町の名主六右衛門が鳶人足五人連て来たから案内
さして数寄屋橋御門外へ出たが所々に火起りいかんとも致す
よふもない、其内大名小路因州邸の辺より火が起り、火勢盛
んに奉行所へ吹付るから今帰邸した此体である、裏長屋は一
棟潰れ人馬怪我はないが、飛火は当番若い同心等と手人にて
防いてゐるが甚た危い、各出頭の上はこれから大切の御用物
を向の土手際に運ふ事に致そふといふ、供に持たした高張も
腰差もみなすておいて、サアー持退を始めよふと若ゐ同心は
重いものをかつぐ、小使小者と与力の下男これを手伝ふ、路々
は手頃の本箱なと持出し五六十人で手渡しに運んだ、其内因
州邸の火は下た火になり、類焼の恐れはないと極々安心し運
ひ方はやめた、其内に志分の与力同心も駈付来た、市民救助
の法を評義(ママ)し、此後には同心支配役年番与力、市中取締掛、
諸色掛、与力、町会所掛与力、此三役は重役にて責任がある、
直に評決した、第一は罹災民へ焚出し握り飯を配賦する事、
第二は宿なしになつた者の立退先御救ひ小屋を建つる事、第
三は怪我人を速かに救療する手当の事、第四は諸問屋惣代を
呼出し日用品及び必要の物品を買集る事、第五は諸職人組仲
間惣代をよび出し国々より諸職人をよび集める事、第六は売
をしみ、買しめ、の奸商を警戒する事、第七は諸物価及び手
間賃も法外に引あげ間敷取締る事、第八は与力同心町中を見
廻救助方法其他取締を致さしむる事、第九は町名主にも掛を
申付る事、此事議決して火の中にて向柳原町会所内へ焚出し
場を開いて力を尽し、御救小屋は例の如く定受負人え申付る
事に決して手順にかゝつた、一寸脇道になりますが江戸時代
此仮小屋をたつる速なる事は直に出来る其構造は長い丸太を
合掌にくみ建立小屋屋根はとばをふく入口にはむしろをさげ
る、中ころから根太丸太を地面へならへて其上へ松六分板を
しき並らへ、畳をしく此諸品は定受負人は常に貯へてゐる、
また小屋掛といふ屋根はこけら葺きになるがこれも定受負人
方には貯へてある、瓦壱坪の屋根板はふいてある、これを持
出してつなくのであるから、一枚持出せは壱坪の屋根は出来
あがる、羽目は四分板重子(ね)障子も雨戸も貯へあるから、千坪
位の仮小屋は半日に出来てしまふ仕組が常に用意してあつた
のであります、この人々は大工方下受負人と唱えて五六人仲
間があり、御作事奉行支配大工頭梁の手についていました
(現今ならテントを張ると同じ事てある)
○
町触申渡は町年寄役所にて三日朝町名 (主欠カ)へ申渡し町中へ示
した
奉行は翌日早朝登城の上大将軍の御機嫌を伺い、即退出市中
巡回す
当時私しは奉行所愈類焼の憂えなしと決した時に強く心に感
して来たのは父の里方にて、八代洲河岸にある定火消役与力
細谷平次兵衛家族の事を思ひ出し同屋敷は皆つふれ人馬の死
傷甚たしいと、火元見に出した同心の注進、伯父夫婦と家族
はどふしたか、兎に角いつて見舞ひたいと思ひ、奉行所へ其
趣を申立ると、直に許されたから即駈付ると、大名小路は焼
落ちてゐる、八代洲河岸に出ると一円焼て落ちてゐる、中に
火消屋敷櫓の四本柱はやけたまゝ形ち計りたつている、近寄
る事も出来ない、誰に問ふへき人もない、人は通れとも皆煙
と灰をふき立るため頭巾を冠り狂奔して相手にはならぬ、其
内はるか御堀の端に黒き一団が、煙の中に見へる、人が物(ママ)か
不分明であるが、近付て見んと其方面へ進むと、その真黒な
る一団の中より弥太吉(私前名)〳〵と自分の名をよぶその有
様は鬼か魔神か異様な姿迚も人間とは思はれない、声は伯父
のこゑに似ている、先方にては、私の高張紋提灯に定紋が付
てあるを見とめ、主従二人の姿は慥にそれと見とめたのであ
ろふ、駈寄て火の光りにて能く見ると、正に伯父なり、アツ
ーと叫んた、叫はずにはいられない姿である、頭髪は乱れ顔
は灰とごみにて汚れて真黒である、両眼は光る、衣類はやぶ
れてぼろ〳〵となり、素足乞食の狂人の体だ、自分へ抱付き、
よく来てくれた、みんな無事かうれしい〳〵、此体だと砂利
の上にふしてゐる二たつのかたき(ま)りを指示し、あれは怪我を
した伯母とお仲た、(従弟女)郷右衛門夫婦と小児は助かつた、
おたき(嫁)小児をだいて逃けた、行先は里であろふ(現今海
軍少将細谷資民の母なり)今郷右衛門は焼跡の焼死人を尋ね
にいつた、辰蔵(孫)は死んだ下女も馬も焼殺した、自分等は
二階の下に寝ていて潰されたのを漸くと、郷右衛門と別当の
ために引出され此体だ、何にも持たぬ、命があるたけとつけ
た、それから焼跡へいつて死体を探さんと火の中へ這入て見
たが迚も分らぬ、郷右衛門と共に一旦堀端に立退、兎に角も
伯父夫婦と従弟女は自分の宅へ引取ろふと相談決し伯母を下
男に負はせ従弟女を別当に負せて鍛冶橋御門を出たか迚も私
の宅八丁堀まて負ふいきれぬといふ、鍛冶町の自身番屋にて
町役人を頼み雨戸の仮釣台を造て貰い下男と別当外に人を頼
んてかつがせ伯父は私が肩に引掛て宅まてつれ帰つた、父母
は驚き何人をつれて来たかと家族一同恐怖した伯母も従弟女
も夢中情体(ママ)ている、医者をよんて手当をさせる庭に仮建をか
けて寝かしておく、頭髪も衣類も引さかれてゐる、母や姉の
衣類を着せて寝かして、直に食いものゝ用意をし家来を走ら
して郷右衛門を助力した。
当時二三の事を御噺申す、此時其火消屋敷には人々の考へ
に能はざりし珍事あり、そは大地震に二十間も高い火の見櫓
に番をしていた同心も、大太鼓と半鐘、板木も、櫓の上部だ
けか馬場の中へ落ちて無事に焼残てゐる、誰もおろす訳には
ならぬ、其当直の同心は五時半に交代した斗り、西の方より
ゴウ〳〵とすごい物音がして来た大風かと首を出し警戒の太
鼓一つ打つた迄は知覚はあつたが、それからは夢中てあつた、
火事た〳〵たすけてくれ〳〵といふ声か耳に入て始めて覚醒
し見ると、馬場に彳ていた、これは大変と潰家の内の人を助
け、また自分の妻子を引出したといふ跡て取調をうけて、当
番なる事は思ひ出した、いかにして下りたるかはしらぬ、こ
れは第一震の時に櫓は地に達する程に横になり、櫓の上部を
馬場に震り落して、柱のミ元の如く建たものてあろふと吟味
決したといふ、家はみな焼た、太鼓と半鐘、板木櫓の上部と
同心は馬場中に落ちて無事てあつたといふ珍談があります、
人力て助かる筈はないのてある其横にふれた程度も甚たしか
つたと思ひます
○
安房より来た生魚を積む押(カ)送船の舟頭の噺しに霊岸橋の川
中で此大地震に出逢、川水は動揺して船は動かない、其上新
川両河岸に立並てゐる酒屋の納屋蔵は、双方から寄て拍手を
打よふに見えておそろしく近寄る事も出来ない、其内蔵は壊
れ、酒樽は川中へ飛出し流れる、何とも怖ろしく思つたとい
ふ
私はその翌日三日朝より臨時町々見廻警戒の役を命せられ
下役を二人つれ、草履取の下男に鳶口を持たせて見廻つた、
其時に見請た其惨状は甚たしい、夫を押殺された死体に小児
を抱た妻かついて泣てゐる、脇に七八才位から三四才の子か
二人共に寝かしてある尋ねて見ると今大屋さんと町内の鳶人
足にて夫を掘出してくれた此潰家の中に老母がいると思ふが
見当らない皆掘出されて私しはあるけないといふ
女か死てゐる、二才位の小児は其女の乳を探てゐるから母
親であろふが、亭主も其外も家族は行衛不明であると、多分
此家の中にゐるらしいといふ見物人はいふ、町役人をさがし
ても見当らない、怪我人を畳の上にのせてある、かつき人を
探して医者へ運ふ積りたと付添人は申立た、家毎に多少の怪
我はある頭を手拭で巻て血がにじんてゐる
夫婦とも死んたのであろふ子供たけ二人今掘出したとい
ふ、昨夜中泣き通したから声も立得ないといふ畳の上に寝か
してある
ここにも怪我人あすこにも死人と物をかぶせてある、怪我
人は両国名倉を始め夫々え運こび、御手当は願い出れば町会
所にて下けると申渡名前をきいて書留めて廻つた、
其中でどろほふ〳〵と叫んで追はるゝものある、迚も捕て
はいられぬ所々にある家の所持主は自分から警戒してゐた、
盗賊と見当たら打殺していゝ奉行の命令たと町役人に申渡て
あるいた、夜中か掛(ママ)念たと申立た、両国薬研堀に摂(ママ)骨医名倉
弥次兵衛といふ名代の医師が在つた、此家の前に行くと怪我
人を運び来ている、其数五百以上もある、今順番札は五百で
止めた、迚ても今日中に療治は出来ないといふ、家にゐては
危険である、家前の往還大道で治療してゐる、弥次兵衛は白
布でたすか(き)掛け、弟子も五六人同し躰尻からけてゐる、怪我
人は先を争つて死にそふだから早く〳〵と附添人は互にせり
合つて囂々としてゐる、名主町役人は町会所といふ幟り、御
用といふ旗を立て制し順番を守らしてゐる、怪我人は夢中で
ウン〳〵と叫び、痛い〳〵といふもある、目も当てられぬ体
である、小児が泣く、親が泣くといふ躰言語に絶してゐる、
治療を受けて帰るものは釣り台あり、負はれてゆくもある
所々に摂骨家はあつたいづれも大繁昌てある、其内此名倉
が第一であつだ(ママ)浅草に出て吉原、猿若町と見廻たか遊廓はま
た下た火の始末か付かぬ大門内は危険であるといふので、町
役人より様子を聞て帰つた其形容を書事も出来ないたゞ悲惨
極るといふの外はない町会所からは旗と御用幟町会所の札を
建てた、駕籠長持で所々へ握り飯梅干沢庵二切附たのを紙包
にして、幾らも運んであるゐてゐる、名主と御用達豪商の手
代か付てゐる、これを見ると群集して忽ち貰ひ尽してしまふ
昼頃には地主より店子へ施行の握り飯か運て来る、これは
その家の印付半天に町所名前を記し幟をたてゝ、地面内店子
へ配分するのてある
潰れない家は家前にて飯を焚いてゐるとしらぬ人か集まつ
て来るので中には口論してゐるのもあつた、これは見留ると
制して程能双方へ利解し急を救はしてやつた
潰れない家からは焚出をしてやる家もあつた、親類縁者取
引先へ見舞ものを出すので市中も見舞人と怪我人を運ふので
にきやかになつて来ました
此地震の時市中て大騒をした商業は洗湯であつた、また夜
四時前の事ゆへ入湯客も男女とも沢山あつた、当時は八間と
いふ釣りあんどんえ銅の鍋のよふな油入れて釣してあり其中
へ魚油をいれどうすみが沢山に入れて燈してあるのに湯風呂
はざくろ口と唱えてそれを潜て風呂に入るのてあつた、処か
大震動のためつりあんどんは落ちて仕舞、風呂の中にゐたも
のは飛出すとじやくろ口におちる、闇中にて丸裸衣類も見当
らないみな表へ我々も男女とも飛出した、火焚場には火を盛
んにもやしてゐるから火事になる〳〵と番頭はよふ、丸裸で
泣き叫び家に逃帰るものもあれば、人の衣類でも勝手次第に
障るものをかきさらつて逃出すといふ、皆な多少痛手を負ぬ
者はなかつた、迚ても其混雑は舌筆にも及はない
江戸中に盲人の按摩稼をして(ママ)男女数百人あつた、これ等も
皆な夫々稼業に出てゐた途中で、出逢たものは往還に倒れて
注き叫ふ、家にいたものはめくらめつほうかいにとび出し、
方向を失い下水へ這入て怪我をしたり、泣きさけんてゐたと
いふ
寄席は客かゐたどつと騒立たため、燈火は消え、押合踏倒
されて、腰を抜くやら、足をくじくやら、怪我人が多かつた
町々の裏屋住居のものは路次か狭い中を狼狽して逃出した
ため、下水板を踏抜足をくしき、腰を抜き、子供はふミ殺さ
れたものも多かつた、家根から瓦かおちて疵をうけたものは
数しれない
あるもの、家にては二階に小児と共に寝てゐると階子は震
動のために外れて仕舞た下りる事が出来ない、夜具へ小児を
包んて二階下へ投け出し己れは其上へとびおりてこしをいた
めた、命は助かつたものもあり、二階から表へ飛出し腰をぬ
き足をくしいた者も数あつた
本所深川其外川中に帰泊していた荷船や肥取船か往還へ打
揚けられて仕舞たものも数あつた、此大地震の最中幕府の御
使番は老中若年寄の命令にて諸大名え方角火消並御固め人数
出仕を伝えたので、馬をとはして四方へ疾走する躰はいさま
しく見請られました
諸大名から使者を以て大城の様子を伺ひ、また親戚縁者お
互の見舞は早馬にてかけ廻る、戦場の如く物すごい体である
御目付御使番火事場見廻といふ役々は、己れの家がつぶれ
ても類焼しても構てはゐられない、火の中を乗馬で奔走して
いました、幕府の定火消の組屋敷は大概大荒にて殊に八代洲
河岸定火消役丸潰人数もまとまらない、命からからに身を以
て逃れた消防夫も多くいたが、金纏に焼残りの火消人夫がつ
いて下火をけし死人をほり出していた、町火消も纏一本に人
足が七八人位ならでは集らぬ、暁に至て下火をしめし漸くと
人数も残て持場に〳〵集まつたのである、
翌日三日には在府の諸大名は火事装束乗馬にて人数をつれ
て、御機嫌伺ひ御門明より登城になりました
御老中筆頭阿部伊勢守の御屋敷も潰れ、奥勤の女中にも怪
我が沢山ありました
水戸家にもつぶれ家ありて有名な学者、殊に当世前の中納
言殿の陪臣といはれてゐた藤田誠之進(東湖)戸田忠太夫(蓬
軒)も圧死した
堀田備中守も御用召であつた処此震災にて怪我をして出頭
が出来なくして程過て御老中になりました
大地震の時にはどうしたらいゝといふ人もあり、どうこう
と心得方を教える人もありますが、それはまた甚たしい極度
に出逢ないからいへるか、出る猶予かあれば表へ立退より外
はないが、極度に置ては学者でも英雄でも工風もなにも出る
ものではない、アーといふ間に家はつふれて来る、其時表え
飛出した人は夢中に出たので助かつたはまぐれ幸ひでありま
す
安政大地震江戸の惨状はとても此度の津浪や大嵐のよふな
ものではない
江戸上下一般に及ぼしたのてありましたから甚たしかつ
た、此上舌ても筆でも及ばない
当時南町奉行与力の市中取締諸色掛といふ要路の重役に東
条八太夫といふ者があり、此度の地震に付諸職人の手間賃か
非常にあがる、甚たしい者がある、足許を見て高い手間賃を
取り甚た不埓のものがあるから見こらしめのため召捕て差出
そふかと廻り役は申立、町年寄、町名主も心配して伺て出る
と、東条は平気のものにて幾らでも出せるやつは出すかいい、
近年職人が不景気で江戸職人は帰国したものゝ多いから職人
不足になつてゐる、此天災のため江戸で金かもうかるときく
と諸国から職人か集る、自然と手間賃もさがる、其上天災後
江戸は繁昌するから、今少し寛大に見逃しおくかいゝと、手
をゆるめていた、こふするとどし〳〵諸国から職人は集まつ
て来た、それゆへに歳のくれには損所の修復も出来、春を迎
えられ火事の季節に向て来るまでに、土蔵もまづ火を防くだ
けの仮修復が出来たのてありました
これが市政を取扱ふ役人の手際にてあつたと跡では評判甚
たよろしかつた、市政を司るものは臨機応変掛引がなくては
ならぬ
○
江戸時代に古人が地震に付いかに警戒したかといふ事を考
えて見ると、三代将軍の御代寛永十酉年正月二十日と二十六
日大地震がありて、市中に潰家も多くありました、小田原城が
崩れた、江戸城の普請に壁をさけて惣板張座敷向は惣張付天
井も合天井にしてあつた、御座所、寝室などの屋根は檜木板
にてヒハタ葺といふ厳重な根屋根てあつた、これ等は地震の
警戒であつたときいてゐますよ、屋根も土はのせてない、瓦
をはりかねでつないであつた、其用材は越中黒部山の官林よ
り切出す杉の古木にて六七分もある板、目板張りといふ事に
なつていました、其上を美濃紙で下張りし、狩野家の画にて
上張りを致しました、檜の屋根板は尾州材であつたと聞てい
た、火災には不利であるが、地震にはこたへたと思ひました
慶長六年丑十月十六日江戸大地震、これは房州の山を崩し
海を埋め丘となし、又海上俄かに潮引きて三十余町干潟とな
る、十七日潮大山の如くまきあげ来りて流死するもの夥しと
いふ(慶長見聞集其他申伝)
慶安二丑年六月八日にも大地震がありました其後度々あつ
た
五代将軍の治世元禄九子年六月十九日大地震あり
同十五未年(ママ)十一月二十二日大地震あり
宝永四亥年十一月二十三日富士噴火大地震あり宝永山出る
といゝ伝ふ
九代将軍治世安永二寅年七月十四日大地震あり小田原尤強
しといふ
三卯年二月二日大地震あり
十一代の将軍治世文政九戊年正月大地震
十二代将軍の治世弘化四未年三月二十日大地震尤信州強し
十三年将軍の治世安政二卯年十月二日大地震大略はこんな
事にて江戸震災は近来委しい書物も出来ています
日本人は古来から地震は怖ろしく感してゐます、弘法大師
は己れの開基した奈良の御寺は地震を封し、後年震災を免か
れしめると申伝えていた、維新後奈良県の知事が不審を起し
其寺内の地質を技師に命して研究のため掘削さして見た処が
土中六尺も下に、コンクリートで堅牢に固めてあり、其厚は
数尺ある、一枚の石敷となつているのて建築は此上にした、
堂は動かない筈てある事が明瞭したと聞ました、私は見たの
てはないある坊さんにきいた、いかに古人は注意してゐたか
といふ事を察しられます
明治以来の江戸子は大胆だ、埋地の上へ大建築をして呑気
でゐるとは雲泥の差があるかと思ひます、長禄二年と元亀天
正頃の古絵図かありましたから御覧にいれます
安政地震の天災もこんな事ではまだすまなかつた、其翌年
安政三年八月二十五日大嵐は此度の東京大嵐よりも甚たしく
感しました、昨年地震で修復が充分てなき大名屋敷の長屋は
勿論市中の建物も大略つぶれました
愚老は当直にて奉行所にゐましたが、大なる建家が船のよ
ふにゆらり〳〵と動きました、南の奉行所は数寄屋の御堀の
水を風て吹揚けて門内へ来り表門へ浪を打附けるといふ大騒
をしました、大城の樹木は倒れ、これかために、烏其外小鳥
の死たのと狐、狸、狢、小獣か死た事はおびたゝしく跡掃除
のため台八車で数日間十台つゝも御用掛をたてゝひき出し、
須崎の原て焼きました、其数何万なるをしらす、古今未曾有
の事で見るも惨状を極めました、家の上に在た火の見なとは
数十間の外へ吹飛ました
此時も前と同しく市民救助の方法を施しました
東京の地は昔しから地震と嵐と津浪、洪水、火災、大雷は
名物であります、市政吏は其度毎に苦い経験をなめてゐる、
一つとして予防策は成功しません、失敗であつた、天災も江
戸子は直に忘れて仕舞ました、それも理由がありますよ、天
災のあつた跡は必す下等の市民は懐が潤ふ、諸国から人が集
る、遊廓其外徒場なとは大繁昌、中以上の武士が貧窮するの
でありました、これは禄があるから翌年は其痛みがいへたの
であつた
併し天は片手打はしない、其次は流行病で下等江戸子を多
く殺しました、此時は下等人が多く死んた、何十万といふ人
が死ました、此時も市政吏は苦い経験をなめてゐました
此内で雷と火事と流行病は今は予防も出来るよふだか、地
震と、大嵐、津浪、[洪|コウ]水は注意しないと、いつか災難が巡り
来ますよ
面白くない御噺しで時間を費しましたが、心付ましたから、
御参考に申上ておくのであります。