[未校訂](裏)
慶応元乙丑年五月十八日写了 江目元長
安政乙卯地震紀聞上 牛門老人筆記
はしめに予やとの狼狽雑事を記し、次に世間の変事に及へ
り、世上のことハ伝聞の儘なれは虚説謬伝も多かるへし、
たゝ人のよみやすからんため俗文に記して子孫に遺(カ)さんと
す
○安政二年十月二日地震の前九月廿五六日頃より予気分あし
く、胸つかへ食すゝます、薬を服し灸も度々すれとも聊も
しるしなし、こは我はかりにあらず、同し病のもの家内に
も両三人ありしか、地震の後皆全快せり、これ地震すへき
前より天地の気変りて、おのすから人の身にさわりしなる
へけれとも、人も家も心付す医師にも知れさりしなり。此
後心付へきことなり、二日の夕方七ツ時前、庭前に雀あつ
まりて鳴事かまひすし、何事なるやと疑かひしか、地震す
へき気のほりて、鳥雀は前知せしならん、日くれて後、月
もなきに鴉鳴しも是か為なるへしと跡にておもひ当れり。
むかし茗荷谷の山里にすみし頃は、地震のゆるへき前には
夜中も雉子の鳴をきゝて地震を早く知りたりしも、今の家
にありてはわすれたり
○九月の中頃暖気かちなれハ、予おもふに冬暖なれハ地震す
ときけり。此春ハ用心あるへき時節なりとて、夜ことに燈
台のもとに埋火を置、挑灯ほんほりの類に蠟燭の芯をやき、
火の付やすきやうになし、付木をそへ置けるか、九月廿八
日夕方地震あり、これにて済たるへしとおもひ怠りしか、
挑灯埋火等の備ハ猶忘れす
○二日の夜は予心地常ならす、早ゝ臥所に入りなから思ふに、
この頃気分あしく、食もすゝます、誠薬もしるしなし、恐
らくハ此冬死すへきか、此秋述懐の歌とてよめるに、おも
ふこと皆ハいたつらになりひさこやかて枯れなん秋は来ぬ
れと、と口すさみけることなといひ出て睡たりしに、下よ
り突上らるやうにおほへて驚きさめけれとも、燈火消て暗
かりしかハ、ゆられなから、兼て用意の埋火をかき起し、
付木に火移し、挑灯ほんほり小火を点しける時、侍女いさ仕る予に十四年かたハらに来り、挑灯を持て出、我は両刀を腰にさ
しなから、古人の詞に、地震の時小壁落たらハ早く外に出
よといへることを思ひ出して、火の光にてらし見るに、小
壁すてに落たれハ驚きて出んとするに、足よろめきて二度
まて倒れたれとも、椽頰へ出し時は雨戸已に倒れて難なく
庭に出たり、かく落付て物せしもかゝる大震とハ思わさり
し故也、吾妻ハ先にわかいへる述懐のことは心にかゝりて、
行末のことなとおもひめくらして寝もやらてありしかハ、
我より先に地震をしりて、次の間迄よろめき出しが障子ま
かりてあかす、とても出へき道なし、こゝに死なんと決定
してうつふし居たり、侍女そめ村田清蔵妻頻りに諫てやう〳〵雨
戸のはつれより出たれとも、足をいためしをも知らす、か
くて家内の人数をよひ集むるに、一人もかけす出来りて、
漸安き心にはなりたれとも、東の方に火起りて炎々として
南の方に焼ゆく、其光昼のことし、但山の手の方には火の
起らさるハ地震のやゝ軽かりしならん、これのみ天幸なり
とよろこへり
○其夜病を勉めて駕馬をまたす、歩走して大城にのほり御気
色をうかかふに、はや吹上の御亭にならせられ、御機嫌替
らせられすとうけ給ハりて、宿直の同僚雨宮子にたのみ置、
本多子とともに退出せり。登 営のとき吾宿を出て牛込御
門にさしかゝりしとき、忽ちゆり出したれハ、しハしたゝ
すみ、ゆりやむをまちて通れり、御橋のきわ五寸余のはば
に地さけたるをおどりこしてゆく、雉子橋御門に至れハ、
御多門傾き大番所ハひたとつぶれ、御用屋しきの長屋も潰
れ、右の方御堀の向ふ竹橋内の御蔵傾き潰れ、すさましき
有さまなり、大手前は酒井家の火盛りにて道路も混雑なれ
ハ、平日は出入せされとも、常ならぬ時なれハ平川御門を
入てゆくにここも大番所つぶれたり。七ツ口の辺両側皆潰
れて道を埋めたる土瓦の上をふみて中の口に至れり。御座
敷内は小壁落、蘇鉄虎の間なと御張付の紙皆まくれ上り、
御障子の紙横竪にさけて、きのふ見しとハ大に変れり。退
出のときハ御玄関より下るに、中の御門傾き損して危く見
ゆ。其外御門ことに扉明されハ敷石を取のけて、扉の開閉
をなす。下乗橋前の番所傾き、腰掛は火盛りに燃たり、内
桜田の御多門潰れ覆りて番所も潰れたり。大手は大番所潰
れ御多門は残れり、升形の石垣大石ころひ落、外の御門は
たほれ、御橋ハ欄干一二ケ所打損したり、大手外酒井家の
屋敷・御住居とも残りなく焼失、大手腰掛の後口、森川侯
の屋敷類焼、御畳蔵も焼るやうに見えたり、大手外御堀上
の御土居ハ皆潰落て跡なし、一ツ橋の御屋形は類焼せされ
とも内向は大に潰れたるやうに見ゆ。田安高台の御物見は
御堀の中にころひ落、清水の御物見も潰れ、牛カ淵にのそ
める社のきわ崩れ落たるなと火の光に望み見て家に帰れり
○二日の夜より度々の地震にて折々強きも有、崩れのこりの
壁なと落る事ありて安心ならす、我園の中ハ広けれハ借地
人細田氏・山田氏・大原家臣栄輔・吉蔵等の仮家皆戸板な
と取集めて五六所あり、隣家土岐氏は後園手狭にて仮屋作
るへき地なく、我園中に作りて夜ことにこゝにやとれり、
此頃ハ誰も皆仮寝の躰にて衣を更て寝るものなし、霜月中
頃まてもおなしく戦競の心やます、仮家ハ霜月朔日に取払
へり
○三日の朝ハ竈なけれハ畠の端に落散たる瓦をよせて仮の竈
となし、飯を炊きて握り飯多く作り、我も人もともに飢を
しのけり、やかて家僕に命して仮の小屋を作る 凡そ六畳
敷ほと二タ間となして、屋上にハ戸板をのせ、廻りはむし
ろ・古板なとを用ひ、其内に屛風を立て風寒をふせけとも、
中々凌きかたし、又雨のもらんことをおそれて、油紙を市
中よりとりて掩へとも、雨の時は漏て防きかたく、夜雨に
は殊にしのきかたし、傾きたる家に入て雨をしのかんとす
れハ、度々の地震におそれて家の中にハ入かたし、進退き
ハまりたる難儀筆紙に尽しかたし
○潰れ破損の場所多くして、何方より手を下さんとおもひ惑
ふ斗にて、心労言語に絶せり、さりなから我ハ父君の遺教
にて非常の備は平日にあり、平日無事のとき五六十の金子
を貯置て猥に手はなすへからす、火災斗にあらす、疾病死
喪の憂ひ、水旱凶荒の禍にあふ事いつともわかりかたし、
其時は金銀にあらされハ早急の用をなさす、五六十の金は
わつかなれとも、さし当り眼前の用を弁し置て、又其後の
工夫ハいかにも成ぬへし、汝これを心に記して忘る事なか
れと切に戒められし言、猶耳にあり、我かたく守りて非常
の備は忘れさりしか、此度の地震にて庭訓の品を思ひ合せ
り、我子孫も亦予が如く非常の備は堅く守りて失ふ事なか
らんをねかふ
○我おもふに家作の修理を加ふること、諸人多くは来春を待
へし、然る時は一時に工人に命すへけれハ作料ものほるへ
く、工人も忙しくなるへし、竹木も又価を益すへし、只今
此騒擾の時に乗して早々手を下さんにハしかすとおもひ、
三日の晩、家根屋大工・左官をよひ、作料の高きをいとは
す、まつ金をあたへて家作修理の事にとりかゝり、第一・
第二の土蔵は速かに荒打を命して壁の落けるを補ひ、屋瓦
を置しめて風火の憂に備ふ瓦師半日の手間料、六拾匁なり家根屋栄次郎
ハ、其亡父の頃より我家に立入りて年頃親しく来り、愚直
なるものなれハ予昔ゟ憐みて、年の暮ことに材を恵みて生
産を助け遣せしを深く感して、其次男亀吉なるものをつれ
来りて勤ること他に異なり、大工次郎も元の出入伝次郎の
後をつきて来れり、是も曾て材を仮(ママ)しあたへて恵み置り、
徳次郎も同し大工なり、其妻は昔我家に仕へしものなり。
是にも曾て厚く病る時医薬の料をあたへて救ひし事ありし
を忝しとて能勤む、仕事師太郎吉は大工兼次郎の義子なり、
是も能勤む、左官市松も旧来の出入にて能つとめ、大工新
吉は篤実沈黙の人にして更におこたらす、是によりて大破
の家居速に旧に復して、不日にしてこれを成すと古人のい
へるに恥さるへし、土瓦板竹木なとの散みたれて狼藉なり
しは、勝蔵村田予に仕る二十年頭取て中小姓中間共労をいとわす力
を尽して取かたつけたれハ、他家よりハ物皆早くかたつけ
り、速にすることなかれと命せしかと早来して功を成せり、
是皆先君の教にしたかひて平常臣を視る事服心のことくせ
ししるしなるへし
○家宰松本栄輔は玄関の潰れたる音ニ雷の落たるかとおとろ
きさめたるに、燈火消て家のゆらめくに地震と知りてのか
れ出んとすれハ、庇皆落たる後なれハ、庇の屋上をふみこえ
て立出たり。今少し早く出ハ、庇におさるへきを危かりし
ことなり。中小姓共の部屋は玄関の傍にあり。玄関の潰れ
たる音に中小姓とも驚きさめたれハ、窓の戸はつれ落て玄
関の見ゆるに、平生上に仰き見たる玄関の屋根眼下に見え
たれハ、おのか住る部屋ゆり上けられ高くなりしならんと
おもひ驚きて、倒れつ起つして外に出しとて跡にて笑へり
○十月五日の昼後、郡代より御配りの御膳梅干を持来りて賜
ハれり、御恵の有かたきことわか家まても及ひし事いふか
りけれハ其役の人に問しむるに、こは家の破損の軽重によ
りて前後ありといふ、わか家ハ玄関中の御使者の間・小書
院・小座敷、四ケ所全く潰たれとも、其外は大破にて住居
もならす、表長屋は外面のみ損せさるやうに見ゆれとも内
向はこと〳〵く損し潰れたり、奥の上の間は鴨居上にて柱
弐本折、二階傾き柱三本折たり。土蔵四ケ所の内書庫は壁
こと〳〵く落傾きて出入もなり難く、稲荷社も土蔵造りな
るハ壁落傾きて潰れたるはかりなり、掛りの役人は来り見
たるにや、こと〳〵く知れり
○我宿の人数に借地同居の人口をあわせて上下六十余人、壱
人も怪我なかりしハ積善の余慶なるへしと、親交の人はい
へり
○我養ひ子冨次郎か実家美濃部氏は下谷長者町に住す、地震
に二階家潰れて三人怪我あり、あまつさへ火もえ来りて家
室残りなく焼失し、土蔵も焼うせたれハ、財宝衣類も烏有
となり、命を拾ひし心地してのかれ来れり、其夜、遠藤氏
の室、岩間氏の娘も美濃部に止宿せしとて、此二人も伴ひ
てわか方に来れり、ひきつゝきて美濃部氏は我物見の長屋
に移つり住事とハなりぬ
○我家は潰れし方もあり、其余は大破損なれハ、公に達すへ
しと同僚のすゝめにより、其意にまかせしか、半潰とて十
日の休暇を賜り、又三十五金を恩借すへしと沙汰あり、御
恵の深厚なる事たとへかたし、是不幸中の幸福といひつへ
り
右十三条は我やとの事にして、子孫に告るものなり、是
より已下数十条は、広く世人の談話雑説を録して後来の
談柄とす、もとより伝聞の儘なれハ虚証(カ)の説多かるへし
○二日の後、日夜五六度つゞ震ふ、五日の夜は大小九度ゆる、
七日の昼三四度、夜五ツ頃強き地震にて、二日に残りたる
家潰れしもあり、十二日昼の頃強き地震あり、赤坂溜池の
火消屋しき、長屋潰れ、死人多し、十一月中旬頃も日々夜々
少しツゝの地震あり、此後いつまてかくてあらんと人々あ
やふむ
○地震の後、町方ハ往還の路傍に小屋を作り、夜ハ此内に寝
て地震の用心とす、武家も空地あれハ小屋掛あり、屋しき
手せまなるハ往還の路傍に犬小屋のこときものを作りて家
来下々を置り、此節、繩、むしろ、こもの類きれものとて市
中になし、むしろ代十枚金百疋、油紙壱枚代六匁ならねは、
買事あたわす、其他の品もこれに准す、大工手間壱人拾五
匁、十一月ニ入て拾弐匁飯代壱匁五分、鳶のものは半割な
り、家根葺手間壱分弐朱、あるひは弐分、屋根板壱両に七
束位ニあたる。材木の価常に三倍也、左官もおなしく高価
なるにすくにつかふへきわら・こも・俵の類絶てなしとて、
左官の方より持来らす、雇ふ方にて買上て渡す、中ぬりのす
たは平常壱俵壱匁位の品、四匁くらゐにて其品きれてなし
公辺よりハ直下の御触あれとも内々は高直なり、此故に金
銀に乏しき人ハ家作の繕ひもならす、いつ迄も小屋に住て
春を待斗なり、町家にて路傍に小屋掛せしものも十一月末
より傾きたる家に帰り住りされとも地震のおそれあれハ、
寒さ強けれとも火燵を作るものさらになし
○職人のいそかしき事言語に絶たり、土瓦竹木の取かた付、
鳶人足たらす、大工・左官も少しく、其業のまねをなすも
のまてよき賃銀を得てよろこふ、雇人足も其道に暗きもの
まて加わりて賃銭を得るにより、らうのすけかひ、又はあ
めうりの類まて人足に出て銭をむさぼる。何ものかいひけ
ん、「職人は地震を椽の数にいれ」下請に通せし詞也、下谷・
浅草・本所等の町家は往還に土瓦竹木の類つみ置て、往来
に山をなす故行人の煩になれとも、人足なけれハせん方な
し、此度の地震に瓦屋の分は多く潰れたれは、残れる家も
瓦をおろし、土居ふきの上に瓦を市松といふにならへて、
風雨地震の用しんとす。二階屋も宜からすとて、二階をお
ろし平やになをせしこけらふきとす、家根葺これか為に忙
しく賃ます〳〵高し
○下賤のもの死人多く、桶も瓶も間に合すとて、町方ハ天水
桶四斗樽、子供は醬油樽なとにいれて葬むるあり、むしろ
こもにつゝむもあり、寺方も忙しく無人かちなれは鍬を持
て葬送し、みつから埋めて帰るもあり、前代未聞のことと
もなり
○寄合久世政吉牛込揚場宅は奥向皆潰れ、政吉も頭を傷り、
尤母は簞笥の傍にふしたれハ別条なし、奥方は徳山氏女十八
才懐妊なから圧され腹やふれ赤子あらわれ出、妹も近き内
山岡氏に嫁すへかりしを同しく死す、其姉は、本所徳山氏
に嫁せし間、此夜泊り合せて圧死す、長屋も皆潰たれと小
屋を作るへき地なく、門前の往還川はたによりて小屋数軒
作り、幕抔張て家臣共霜月まてもこゝに起臥せり
○小普請支配大久保筑州小川町猿楽町住居長屋共皆潰死傷多し、当
主より子供迄圧され、盲人のあんま来り居て療治中なるか、
あんまは別条なかりしと云、此辺より広小路雉子橋辺りわ
けて強く、かとなみに潰れて焼失せしゆへ、死傷甚多し、
霜月まても小屋に住もの多く見ゆ、下谷辺・坂本・浅草・
本所は別して強く、火事もありて、いつかた付へしとも見
えす
○吾同役深津近江守屋敷は小川町広小路なり、十月廿三日予
休明の日行て尋しに、門長屋をはしめ住居もこと〳〵く微
塵となりて、土瓦板壁の損したる散乱して足のふみ処もな
し。主人ハわつか三畳敷の小屋にあり、雨露もしのきかた
き有さまなり、家臣・下女ともの小屋も屋しき内こゝかし
こにありて、犬小屋のことく、立ときは頭もつかゆへきほ
とに、古木、薄へり、むしろなとにて作り、あはれなる躰
目もあてられぬことなり、隣のさかひもなく、両三軒も見
えわたるに皆おなしさまなり、主人の話に、二日の夜来客
ありて四ツ前とおもふ頃帰りていまた燭台も引さる頃なり
しか、何ともしれぬ物音東南の方よりおひたたしく聞えけ
れハ、是只事にあらすと思ひ、燭台を手に取とき、地中よ
りむく〳〵と上るやうに覚えしゆへ、いそきゑんかわに出
なから、すは地震なり、此たひのはつよきそ、皆々早く出
よと声かゝる間に、きひしくずんとひゝくと、其儘家の梁
落るとおほへて我しらす庭に飛出しか、ゑんげた落て足の
ふともゝに疵付たるも足のうらに釘をふみたるも、其時は
覚えす、翌日痛みを覚へたり、常に座敷の内に簞笥をなら
へ置て境とし、母妹娘なとを臥さしめたるか幸となりて、
梁は簞笥にさゝへて母と共にありしハ命助かれり。惣領市
正か居間は天井全く落たれとも、其儘押臥られて疵もうけ
す助け出せり、弟ハ他家をつきて、当時同居し二階下にあ
りしか、梁二本に柱壱本落たる下にあり、死にハ至らされ
とも出る事もならす、声斗聞えたれハ助け出さんとすれと
も、梁二本の重さ甚しふしてあからす。繩細引もなけれは、
梁をかつきあくへきやうなかりしに、麻風呂敷二ツ見付出
して繩の代とし、梁の端にかけ、十人斗にてかつきて梁を
あけたれとも、柱にもおされたれハ、のこぎりを尋得て柱
を切て助け出せしてか、身うち痛みて今に病臥せり。其忰
九歳なり、同しくおされしは、われハかべ土の重さにかく
なりたり、とゝ様早々出たまへ、つゝきて出へしとて躍出
たり、此さわきに、はや八ツの鐘も聞えたり、其中に近所
より火起りて危ふかりしか、火の災をハのかれたり、其外
下男・下女には死傷もあり。市正は直に登 営せり、我は
疵の痛みによりて出す、七ツ時頃郡代より御救ひの御飯梅
干を多く賜りて、上下飢をしのきしハ、御恵みの程忝覚え
しと語れり
○南部侯は小よき一きたるまゝはい出しと見へて潰れたる後
に、土瓦をのけたるとき、縁頰に臥て梁の下に死骸ありし
と聞り
○仙台侯は地震の前に屋敷内を早く外に出よ〳〵と大音に触
あるくものあり、皆々驚きて何事とも知らす外に立出たり、
君上も庭上に出て床机に腰かけて居られしに、床机にては
危し、地上に居よといふ故何ものとそ問へは、塩釜明神の
使なりと言てうせぬ、それ故か家中に圧死のものなかりし
といふ、実否をしらす
○小日向服部坂上竜光寺の住僧年九十余二日の夜に入ていへる
は、今夜空のけしき常ならす、星に光なくして空の色はき
ら〳〵と見ゆるハたゝならす、家の内にハ居かたしとて畳
を二枚庭上に敷、屛風にてかこい座し居たり、余人はあさ
笑て従ハさりしに、五ツ時頃益危し人々も出よ、何事か異
変あるへし、恐らくは大地震なるへきか早々こゝに来れよ
とよふゆへ、皆々疑ひなから、老僧の居るあたりに畳敷て
つどひゐたるに、果して四ツ過る頃大地震なり、老僧も必
らす地震と知らハ、近辺の人にも告へかりしを、極めて地
震ともわからす、何事か異変あるへく思ひし故衆人に告さ
りしハ、くやしかりしといへり
○松浦金山といふ家相見あり、予か知れる高林氏深く信して
家作の方位吉凶なと問へる人なり、当年七月頃高林氏に告
ていへるハ、当年の気候秋冬の頃宜しからす、地震にても
有へしとおもはる、地震よけの守りを作りてまいらすへし
とて、小さき札を多く作りてあたふ。是を家の口々に張、
又懐中して身をはなさすはわさハひを免るへしと教ゆ、高
林氏其教に従ひしか、十月二日の地震に住居は傾きけれと
も潰れす、火災後の普請にて甚麁にして殊に長屋住居な
れとも壱人も怪我なし、高林氏の弟某此日夜夜網に出んと
て既に船を出したるに、海上殊の外光りたり、船子のもの
いへらく、かゝる光ハ常に見す、恐らくハ津浪にても来る
へし、今夜の網はやめて余日の事にし給へかしといふ某も
こわけ立て、即ち船をかへしけるに、ます〳〵光甚しく見
えけれハ、いそき船宿迄帰り檐下の椽頰に腰かけて茶なと
のみ居たるに、忽ち地震にて其家くつかへりたれとも、某
のうしろへ倒れ、某は腰かけたるまゝにてぼうぜんとして
夢のことく命助りぬ、船宿の老婆は圧れて死せり、松浦金
山守のしるしなるへしといへり
○予か門人多門敬蔵竹嶋町にあり、是も長屋住居なり、地震
の前に往還を早く出ろ〳〵と大音によふを聞て、何事なら
んと妻もいふほとに、震出しかハ、驚きてうろたへからし
て外に出んともせす、打ふしてゐたるに、家も恙なくゆり
やみけれは、やかて門外に出て見るに、あたり近所皆潰れ
て立家なけれハ二たひ驚きたり、其家の柱去年の地震に礎
をはつれたりしか、此度の地震にて柱元の礎にかへれりと
て笑へり、敬蔵は忠実なる直人なれハかゝる奇特もありし
なるへし
○二日の夜、内藤紀伊守殿は草履取壱人召つれられ袴もなく
大小をさゝれて大手升形外の御門潰れたる上を踏こえて御
門を入、番人に向ひて念を入て守るへし、御しまりの御場
所ハ大切なるそといひ付らる、其出立素略なれは番人とも
御老中とハ思はす何御役御姓名ハと問、内藤紀伊守と答へ
られ、番人とも恐れ入て俄ニ低頭してかしこまりと申す、
それより百人番所に至り頭にても与力にても詰合のものゝ
紋付小袖鑓(カ)上下を仮らんとて借服して登 営あり。
上にも其速なる出仕を御感あり、むかしふしみ地震のとき、
加藤肥後守清正独り太閤の御前に伺候せしと其心同しかる
へしと或人いへり
○本多越中守殿・遠藤但馬守殿も寝間着の儘登 城有しとい
ふ、越中守殿は地震後赤井と井谷の屋しきに移られ、六畳
敷斗の長屋に家内一所に居られ、其次の間は女中、其次は
男の分にて手狭なる事さそかし不自由せらるへし、但馬守
殿は牛込若宮の屋敷に移られたる時、馬見所に入らんとせ
られしに大破にて入かたし。武術の稽古所を住居とせられ、
庭に芝間(ママ)ありてこゝに家内女中も一所に居られ、当分は鍋
釜にも事をかゝれたるよし
○阿部伊勢守殿は本郷丸山屋しき、本多越中守殿は赤坂、遠
藤但馬守殿・酒井右京亮殿は牛込より毎日登 城のとき乗
切にて出らる途中、御会釈に及ハすと触らる。其躰を見る
に先乗壱騎、御当人は白裏金の綾葦笠を着し、肩衣馬乗袴
なり、跡乗も壱騎或は弐騎野羽織馬乗袴にて口付壱人付り、
惣供ハ半時斗先に鑓箱共大手迄出居、退出の時は少し跡に
さかりて陪従す、珍ら敷供立なれとも途中の混雑なく、下
人も道を避るに及はす、是に准して諸役人も供を減し衣服
も木綿にて苦からす、昔の肩衣袴を用ゆるも勝手次第たる
へしと触られ質素の風俗とはなれり
○供減の事ハ第一
御成の御供立御減になるへしとて諸向より伺へしと触ら
れ、評儀あれとも未た定らす、御役人は大目付も徒をやめ、
四ツ供にて箱をやめて両掛をもたせ登 城す、御目付も馬
の口壱人鑓斗にて箱なし、両掛をもたせ長柄も晴日にハは
ふけり、右に准して其以下も徒をやめ対箱を一ツ減したり、
衣服も殿中に木綿の紋付多く、肩衣ハ麻上下の肩、又ハ葛
木綿の単肩衣袴は棧留の単袴、又ハ葛小倉の類多し、丹後
茶荢の類は古くとも着用して其席に出れハ、肩身すほミて
恥かはしくなりて用ひかたき程になりぬ、御目付は多くま
ち高袴と云ものを用ゆ、俗にいぶ半馬乗袴なり、只の馬乗
袴を着せしも見ゆ、地震後風俗の一変なり、日ましにまち
高袴着用の人多くなり、番頭小普請支配なと多くは着用な
り
○二日の夜中の御門泊り番ハ川窪勘解由なり、中の御門大番
所際に入口あり、高き石垣の下なり、十二畳敷二タ間あり、
其先に頭の詰所あり、四ツ時頃はや平服もぬきて寝んとせ
しに、俄に地震して燈火も消たれハ、付木に火を移し燭台
の蠟燭に点したれとも、燭台ゆれて倒れんとす、此所はの
かれ出へき道なし、何さま上下を着せんとせしに足よろめ
きて踏とめかたく、袴を着しかたけれハ、柱によりかゝり
てやう〳〵袴を着し出んとするに、十二畳の間鴨居落、壁
くづれて出る事あたはす、窓よりハ御多門の瓦落入てすさ
ましき有さまなれハ、こゝに死すへしと覚悟して居たるに、
やかて震やみけれハ、外に出て御道具なと恙なきを改め見
たりと語らる
○紅葉山下当番は甲斐庄喜右衛門なり、地震ゆり出すと用人
某一番にうろたへ飛出すとき庇落て圧ころさる、同心下人
も同しくあはて出て圧ころさる、喜右衛門は外に出る心も
なく驚き居たるに、家の倒るゝ拍子になけ出されておのつ
から外にまろひ出、ふしきに命を拾へりと語れり
○小十人林田一之進は小石川すは町新道に住す、此夜は二階
にありて物かきて居たりしに、俄に地震して燈火消たれは、
楷子を下らんとて手探りに下りかゝるに、天井落て下りか
たし、からくして下り梯子の中段より落たるに二階下に臥
たる母と妻とハ暗の中にうなる声聞ゆ、助け出さんとする
に梁落て圧たれハ、一人の力に及ひかたし、下男をよひ来
りて共に助けんとおもひ、男部屋に探り行しに、部屋潰て
下男も圧されけん、うなり声のミ聞えけれハ、驚きまとひ
て立もとり早く助けされは叶ふましとおもひあはてゝ、梁
の端をかつきあかるに、母の居かたをあけんとすれハ、妻
のふしたるかたに重さかゝりて悲しき声す、妻の臥たる方
をあけんとすれハ母のふしたる方重くなりて母悲鳴す、一
本の梁両人の性(ママ)命にかゝりて二タなから全く助けたし、母
を助けて妻を殺すにしかすとおもひ聞して、母の臥たる方
の梁の端を力を極めてかつき上たれハ、妻一声さけびて死
せり、此時懐妊九ケ月にあたるといふ、母は助け得たれと
も躰痛みて姓(ママ)命おほつかなしとそ哀れなることともなり、
林田は年三十余なれハ思慮なき齢にあらす、母を助けんと
おもふ一心のことにて妻を捨たるハ孝道に似たれとも、今
ひと思按ありて近隣の人の助力を乞来り梁の両端を共にか
つきあけハ、母も妻子も全く助くへかりしを、うろたへけ
るしかたなりと非議せしものあり、これ当局者の惑を傍看
者の批評するたくひなり、我身其場に居らハいかてか狼狽
せさるへきといふ人もありけり、一之進の父ハ忠蔵とてむ
かし納戸組頭をもつとめすこふる富有の人にて、神田に町
地面ももちたりしか、一之進不功者にて人のすゝめより町
地面をうり払ひ、其金をもて大なる土蔵を作り計を得たり
とよろこひしハ、此度の地震に土蔵土落、傾きたをれて再
ひ造るへき力もなく色を失へりと或人かたれり
○諏訪町辺は地震強く家ことに潰れ戸ことに傷死有、林田の
隣家小普請組頭三田助左衛門家潰れて生死の程も覚束な
し、其向ふ御天守番伊東仙右衛門ハ目白台より此夏転宅し
て家作も落成して程もなきに潰たり、妻子も圧れたれとも
命をハ失ハす、目白台は地震軽かりしに移居せしゆへかゝ
る災にあへりと後悔せり、此辺より牛天神下の辺は潰家多
し
○地震には簞笥・長持の類を置る傍に臥たるもの多く命を拾
ふ、雉子橋御門の番人はついたてのかけにありて梁をさゝ
へ、小川町にては碁を打居たるもの碁盤のわきにふして梁
の災をのかれ、本所にては重ね簞笥の傍に有て重ねの上の
方は梁にやふられ、下の方に梁止りて死なす、或書生は書
机の下に眠て梁の災をさけたり、早く出て死をのかれ、早
く出てうたれ、おそくしてうたるゝあり、おそくしてたす
かるあり、命にあらさる事なし
○本所にすめる町人家潰れおのれも妻も梁にしかれてくるし
みしに、夫々やうやくぬけ出て、妻を助け出さんとせしに、
火も近つきけれハ助けかたく妻に云やう何とそ救ひ出さん
とおもへともとても叶はす、是まての命とあきらめよ、跡
をハとふらい得させんといひ捨てにけ去れり、やかて火元
来りけるに押へたる梁の端に火移り焼るに従ひて梁はね上
りおのつから命助かりぬ、翌日夫の行衛を尋るにしれす、
三日目に本所の橋の上にて向ゟ夫の来るを見て声をかけし
に、夫驚きてにけ走る、妻追てゆくに町屋のうらに入を見
て妻もつゝきて入尋ねけるに見えす、其妻大屋の宅に至り
てしか〳〵の訳にて夫何兵衛を追来りしに此裏に入て見う
しなへり、願くハわか身を夫に引渡し玉ハれとこふ、大屋
尤なりとて裏に入てしかしか尋ねめくりしに、雪隠の中に
咳の聞ゆる故行て見れハかくれ居たり、即ちつれ来りて妻
を渡せしとなり、其夫は妻を死せりと思ひ幽霊なるへしと
恐れてにけかくれしとなり
○堀田備中守殿地震後御老中再勤被 仰付たり、例のわる口
に地震から古もつかふが用にたち、又何者のいひ出しける
にや「阿部のなかから堀田さんがとんで出たよ」と云々
○青木春岱といふ医師、病家のまねきにてゆきけるに御旗本
の衆なるよし、其名をいはす、息女十八才下女に引れにけ
出さんとて手をとりなから梁木に圧る、其主人息女をハ助
け出せしか下女ハはや息絶なからとりたる手をはなさす、
しゐて引はなさんとすれは益堅くとりてはなさす、火もえ
来りて危ふけれハ、心せかるゝまゝ下女の手を切て息女を
たすけ出せしかとりたる手いかにすれともはなさすとい
ふ、春岱共指をまけておこしはなさんとすれハ、弥堅く握
りて息女の手痛み甚しく堪かたしといふゆへ其儘やみぬと
いふ、其後いかゝなりしやしらすと語れり
○近来御新築の御台場の内第二の御台場合薬より火発して二
ツにひらき、人こと〳〵く死す、五の御台場も津波に破れ
其余も中窪ミてこと〳〵く損懐(ママ)すと聞ゆ、或人いはくむか
しより江戸に大地震なし、元禄の地震も此度よりは軽かり
しとおもはむ、其故ハ御台場御出来よりして海潮の巡行あ
しく、水路も滞りて地脉にさゝはるゆへ、其滞気一時に発
して地震となる、御台場の所なかる事知るへし、此後も御
台場のあらんかきりハ度々大地震あるへしといふ、されと
も近頃京都・信州・相州にも大地震あり、其地御台場有に
あらされハ此説は狂夫の詞なるへし
○此夜地震の時飛物東南の方より飛来れり、其音甚しく光り
もあかしと見し人かたれり、又御城の石かきすれ合て火出
けることすさましかりしとそ、又地震するとき忽ち火発せ
しハ人家の火桶くつかへりて出火する□(は)かりにはあらす、
土中より自然に火発して火事と成こと有と或人いへり
○湯島大神女坂崩れ、下の町屋潰れ死人多し、神田明神も女
坂崩れ、愛宕山も女坂崩る、高田宝泉寺の冨士崩れ、中腹
にありし大石頂上に投のほせたる如くの躰なり、寺々の石
塔何方も倒れさるはなし、石燈籠もたほれて破損多し、浅
草観音の五重の塔九輪横たハり、八重洲河岸火消屋しき火
の見櫓上の一重飛て西丸下に落、水府邸中の大木半より折
たる多く見ゆ、是皆地震の異事なり
○林大学頭屋敷長屋をはしめ奥向まて皆潰れたり、大学頭も
家の下に圧れ、子息と用役も圧れなから早く抜出て大学頭
を助け出せり、家内家来長屋にも怪我人死人有しと聞ゆ
○小石川市兵衛河岸川路左衛門尉屋敷は元新見豊前守屋敷な
りしか、川路御勘定奉行となりて飯田町の屋敷と厳命をか
うふりて是非に及ハす取替たり、家作もふるく坪数も少な
き所に移り、家来を置へき長屋もたらすこまり居たるは、
此度の地震に川路は作家土蔵まて皆潰れて死傷人もあり、
新造の土蔵まて普請出来し大工も手を引て三日目の地震な
り、新見は家作も損所少く地震の災軽し、塞翁の馬なりと
人々いへり
○御船手向井将監本所に住す、屋敷の長屋近ころ破損に及ひ
しかハ、此夏普請すへしとて工人に謀るに、神田の火災後
諸色高直職人の手間も高直なれハ秋の末まて待給ふへしと
いふゆへ、其説にしたかひ九月末に取くすし、皿地となせ
しに、二日に地震あれとも皿地なれは憂ひなし、火事も隣
まて来りて鎮火せしハ幸福也とよろこひかたれり
○丸の内大名小路岡山侯の邸、福山侯の邸皆潰れたり、三上
侯の邸辺は火災もあり、馬場先の内大番所潰れ、西丸下ハ
一宇も残らす潰れて立家なし、酒井侯の邸表長屋ハ潰れた
れとも壁落、小まい斗になりて傾き立るハ見るもすさまし
く、平日の巍々然たる邸宅ハ夢となれり
○水府の御舘不残潰れ死傷甚た多し、家中長屋比々として立
家なし、君も後園に仮家して雨露をしのかむ、女中たちも
広き芝草に屛風障子の類にてかこひ風雨をしのきかたき躰
なり、家中も小屋かけにすみて雨ももり風もとほりて艱難
かきりなし、老公も股肱の臣二人圧され死して左右の手を
失ひ給へるかことく力を落したまへりと其藩士かたれり
○本所小梅に小倉庵といふ料理屋あり、此夜飲食の客の多く
ありしか地震にて皆々にけ出、男女とも走り出たりしか、
亭主壱人梁の下に片足を敷れて出る事ならす、助けよ〳〵
とよべども人皆遠く走りて助るものなし、俄に火起りて焼
たるにおされたる梁木に火移り運よく梁木はね上りて軽く
なりしゆへはい出て命助かりたり
○松平何某の家士夫婦子とも三人梁に圧れたるに妻の方は木
の末の方にて軽けれハ這出たれとも、夫と子ハ木の本の方
にて重く女の力にあけかたし、あたりの人をよべとも耳に
も入らす、忽火もえ来りて夫と子ハ火の中にありてさけぶ
のみなり、其妻あはてさハけともせんすべなし、われ独り
生残りて何かせんとて火の中に飛入てともにやけ死せし
を、あたり近き人是も檐のけたにをされ臥なから見たれと
も、同しくおされたる身なれハわれも又火もえ来らハ死す
へしと覚悟していたるに、其朋友二人通りかゝり此躰を見
て助け出されしと語れり
○西丸御留守居堀濃州は小石川六角坂に住す、巣鴨辺にゆき
て帰るさ(ママ)、小石川柳町まて来りし時、地震にて駕のもの驚
き駕を[投|ナゲ]出したる時、駕の戸はつれ外に落たりし上に左右
の人家より瓦落家つふれかゝりて疵を受たり、供の侍も怪
我にて漸宅に帰れりと或人語りき
○小十人組頭杉江弥左衛門ハ下谷御徒町に住す、平日御酒を
このみ二日の夜も一盃を傾けて寝たり、地震に驚きさめて
庭に飛出し、池の中に落て土地のさけたる中に落入て、泥
水に入しとおもひなけきてあたりを探りみるに、木の枝に
手さハりけれハよろこびて枝に取つき上らんとする時、吾
家の炎々と燃上りたるあかりにてわか落たるは池水なりし
と知れり、土蔵三ツあり、従来家富之土蔵にハ武器其外結
構なる道具もあり、金も壱箱余貯置たるハ煨塵となれり、
三ツ井には預ケ金三箱ありと曾て人に語れりといふ、実否
をしらす
○小日向馬場蒔田氏ハ子息十二歳、家の老臣主人を諫めてい
はく、若君奥向に居給ひて婦女子の手に人となり給ハゝお
のつから柔弱になりて賢君とハなり給ふまし、今より表に
住給ひて男子の中に成長し給ハんにはしかしといふ、主人
心にハ応せさりしが老臣の諫めもだしかたく、其意にまか
せてあらたに部屋を作らせ、士分のもの二三人をうつらせ
表住居となせしより未た程もなく、二日の夜地震に部屋潰
れ子息圧死せしを、主人かなしみの余り狂気のことく怒り
のゝしりて、わか傍にさし置ハかゝる悲命の死はせましき
を、いらさる諫に最愛の一子を失ひしハかれか所為なりと
て、彼老臣を手討にし、かしつきの士を放逐せり、是より
いよ〳〵心乱れて狂人となりしと聞ゆ、虚談ならんか
○大御番与頭斎藤三太夫小日向新小川に住す今年在番の留守
なり、子息紹介廿歳以上のよし、二日の夜地震に家潰れて
おされしかとも、倒れ家をのかれ出て竜慶橋をわたり武術
の相弟子熊谷大助の方へ火事見参にゆきしに、玄関の次の
間に具足櫃あり、大助の僕入て取来らんといふ大助とゝめ
て具足ハすてに出し置り彼箱ハから箱なれハ焼失ふとも惜
からす、火の中に入らんハ危し、捨置へしといへともかき
す(きかすカ)、から箱にもせよ火のかゝらさる内に取来らんとて炎入
らんとするを斎藤の子息・其僕をとゝめてやう〳〵と争ふ
うちに、隣家の二階もえなから二人の上にたふれ来りて、
二人とも空しく焼死せり、此事在番さきに聞えけれは、三
太夫おとろきうれひてなきふしけるか、夫より病となりぬ
と語りし人あり
○さる諸侯の内室は十六歳、地震に家潰たる時附の老女わが
身の腹の下にいれまいらせ、手をつきつくばいゐて背上に
梁木を負死したれとも、内室は是かために命助かりしとそ、
又曾て美人の聞え有し愛妾は圧れ死すと云、中冓のことハ
つまひらかにすへからす
○和田倉御門の番士は御多門潰れて梁の間に片手を挾まれ引
とも取れす、いかにともせん方なし、程なく火もえ来りて
危くなりけれは、同番の士の刀をとりて其手を切すてのか
れ出しか三日立て死せり、あはれむへき事なれとも、前条
の老女身をころして主を守りし忠烈に比すれハ、番士の生
を貪りて死せしは笑ふにたへたり
地震紀聞下 牛門老人筆記
○御馬屋曲木氏此夜新宅ひらきの祝ひとて、親類知音の者を
招き酒宴さい中、地震にて客も家人も皆外ににけ出たりし
に、曲木氏は此くらゐの地震におそるゝ事やある、新宅な
れハ大丈ふなりと荒(ママ)言して盃をとりのまんとせし所に、梁
落て圧死せり、家の新たなるもたのもしからさるや
○鍋嶋の藩士国元より勤番に出しもの僕従二人と共に梁にお
さる、僕従は二人とものかれ出たれとも藩士は梁重くして
出かたし、火は近つきぬ、のかるへきやうなし、僕従に命
していはく、われかくてあらハ焼たゝれて形を失ハん、口
おしき次第なり、願くハ早く我首をきりてほうむりくれよ
といふ、僕従刀を抜て切らんとせしか、さすかに主の首を
切に忍ひす、其刀を捨てのかれ去んとす、藩士刀を拾ひと
り、みつから首をはねて死せり、僕等弐人是を見て壱人ハ
剃髪して其首を菩提所浅草何かし寺に持行て葬り、其身も
仏道に入りて後世を弔ハんとす、一人直に国に帰りて其妻
子にその事を告て後我も仏門にいらんと約して旅立ぬ
○坂本の辺にて姉妹二人向ひあひて火鉢にあたり物語して居
たるに、両人の間に梁落て姉の手の上に当り、其儘おされ
て下にハ火あり、上にハ梁あり、手やけたゞれ両手に、ご
とく焼こみてはなれす、其手のさま丑の時参りの頭のこと
くなりて死せり
○本所辺の人家にて十八才の娘すこふる姿色あり、火鉢にあ
たり居たる所に天井も梁も落たるにおとろき、ふさんとし
て誤て火鉢にかけ置たる鉄ひんの蓋落たる跡へ手を入た
り、其時梁其上に落たれハ手を抜出す事はならす、鉄ひん
の中の湯はしきりに煮へ上り、哀鳴すれとも誰一人助くる
ものもなかりしか、ゆりやみてより家人悲鳴の声をしるへ
に掘出し、命は助かりしか手のやけと痛み甚しく、うみた
たれて破傷風の症となり、十八日目に没せり、あはれむへし
○市兵衛河岸土井家は門長屋住居向残りなく潰たり、門番人
辻番といふ、火鉢を腹にあてゝ居たるまゝ梁に肯をおされ
うつふしになり腹を黒くやきて死せり、腹黒き人とおもハ
る
○江戸川端に住る御書院番森川幸五郎といへるハ平生強力の
聞えありしか、炮術夜稽古に出て帰り来り、稽古着のまゝ
二階に上りしか、地震するゆへ急き飛下り、二階下に至れ
ハ、妻子と母と四人ならひふしたる上に梁の落かゝるを肩
にうけて落さす、四人のにけ出たるのちにゆる〳〵と肩を
はつし出れハ其跡へ梁落たり、されとも只肩おもかりしを
覚えたるのみなり、其養父久右衛門御徒頭をつとむ、是も
同しく稽古より帰りしまゝ物音のたゞならぬに驚きて人よ
り先に庭に飛出したりとかたれり、幸五郎は或時往来にて
舂米屋路のよきかたに臼をすへて、路のあしき方を明置往
来の人迷惑せしに、幸五郎往かゝり米つきに臼をのけよと
云、米つき臼にハ米一はいあれハ重くして動かしかたしと
いふ、其時幸五郎米の入たる臼を軽々と両手に持て路あし
き方に移す、米つき驚きおそれ天狗なるへしといひてにけ
失ぬ、常に百目の筒を壱挺ツゝ両手に持て、すくちとすく
ちを打合せて拍子木のことく打事児戯のことしとそ
○鍋嶋侯の臣三人梁にしかれて死もやらてあり、あたりを通
る人に助けくれよといへとも皆助けかたしとて去、又一人
あり、いはく、助けたく思へとも梁を切捨ざれハ助けかた
し、予八町堀に鋸を置り、今より取来て助くへし、夫迄待
たれよといふ、三人口を揃へて夫まてには火にやらるへし、
何とそ早く助け給へといふ、其者いはく、八丁堀迄往て鋸
を取来る間に焼死なハ天命とあきらめて怨み給ふな、もし
命あらハ間に合へしとて走り行しか、程なく大鋸を持参り
梁木を切て三人を助けしとそ
○本多丹後守殿は地震と火災の為に富有全権の身もわつかに
侍壱人をつれて三番の原にのかれ出て夜を明さる、土蔵も
皆焼失して昔より恩賜の金銀の器・古刀・銘剣・武具・馬
具の類、古筆・古画其外山海の珍物一瞬の間にこと〴〵く
灰燼となれり、惜むにたへたり、
○酒井家ハ御住居迄地震火事にて灰燼となり死人の数はかり
かたし、死骸を車にのせて引出す事幾輛といふをしらす、
酒井家出入の大工棟梁何兵衛地震におのれか家潰れ妻子の
おされしをもかへり見す、金もうけの時節到来せりとて鋸
壱挺手に持て走り出、酒井家に至る、家老門に出て有、何
兵衛を見て能そ早く来れり、主君の安危はかりかたし助け
参らするに力なし、汝勤て主君を助けまいらせよといふ、
何兵衛心得候とて家の潰たる方を奥深く入りて尋るに主君
も梁におし臥られて助けよ〳〵とよふ声聞ゆ、何兵衛こゝ
そとおもひ鋸にて梁を切て主君を助け出し、背に負て門に
出家老に渡したり、家老よろこひて当座のほうびとて金百
両に五人扶持をあたへ、追て又沙汰に及ふへしといひ渡し
たるとそ、是地震によりて幸を得たる何兵衛か気転智あり
といふへし
○上野広小路松坂屋といふ呉服店家居土蔵ともに潰れ十一戸
前の内弐ツ残りて皆焼失せり、地震後残り弐ツの土蔵は火
をつけて焼うしなへり、焼残りの品をうるといはれんハ名
をれなりといへりとそ、其家より八丁四方困窮のものへ人
ことに白米一升、銭百文ツゝ施行せり、此評判にて追日繁
昌せり、利にあまねきものは凶年も殺すことあたハすとハ
かゝるたくひをいふならんかし
○岩附十条の辺地震甚強く家々皆潰れ、土地裂、水湧出し所
ありと聞ゆ、江戸極楽水に住る商人[幸手|さつて]辺に至り、旅あき
なひして数百金を得、江戸に帰らんとて十条の辺旅居にや
とり、二日の夜地震二ゆりめに二階潰れ落て、すてに死せ
んとせしか、からくしてのかれ出、路の傍に莚しき金をい
たき野宿して、翌日江戸に帰りしか、極楽水の宅もすてに
潰れて住居を失へり。されとも金に冨る故速に家を作り住
すといふ、かゝる時も金を貯持しものハ憂すくなし、詩に
いはく善かな冨る人哀しきハ此〓独(独り者の意)
○築土明神の別当成就院ハ年七十余、強健真率、我と同郷、
法外の友なり、地震の後一日予か草廬に来て語ていはく、
老衲二日の夜は常のことく寝室に入しか未た睡らさるに、
地震甚しく覚え仰て眠たれハ見くるしかるへしとおもひ、
伏て死なんと決定して居たるに、男共起来りて早く出よと
すゝむ、われハ死を待のみと答へたれともきかす、強て引
出すにより負れなから外に出たり、やかて明神の社に至り
て神躰の恙なきを拝し、猶又強き地震のあらん事をおそれ
て、神躰を御輿に移し奉り、両三人の壮者に守らしめ、我
庵に退き、庭上に仮居して今日に至れり、初より死を決し
たれハ周章狼狽にハ及ハさりしといへり、其卓見貴ふへし、
又いはく、地震ハ防くへからす、火災はいのりて除くへし、
そハ火の神水の神風の神の三神を祭るにしかり、火の神は
赤き幣、水の神ハ青、風の神ハ黒を用ゆ、祭る法、火の神
にハそなへ餅、水の神には井花、水風の神には茶を供して
火災を払ふの法を呪す、足下もし意あらハ幣を参らすへし、
さりなから俗家多事、三神を祭る事かたし、風の一神を祭
りて出火ありとも風筋よきやうにと頼み玉へ、毎朝茶一杯
をすゝめて火災に風筋をよくせハ又よからすや、猶よく風
神をよろこはせんとならハ朔望廿八日にそなへ餅一ツを供
して風神をだまし、きけんをとり置給へとをしゆ、予其説
に従ひて風神に媚んとす
○本郷丸山大善寺の僧は年三十余佐渡の産なり、其妹二十四
兄をしたひて佐渡より尋来り、十月一日大善寺に着し兄に
逢て久曠の情をのへ互によろこひて止宿せしか、二日の夜
地震に寺潰れて其女圧死せり、僧はのかれ出て死せす、此女
兄をおもふの情誼厚ふしてはる〳〵山海を越て来り、かゝ
る非命に空しくなりしハいかなる故にや、兄をおもふの誠
心なかりせは佐渡にありてなからふへきに、天道は善にさ
いはひするの古偐ハたのむにたらさるにや
○吉原町は地震より少し前に大門内に火の事あり、引つゝき
て地震火事にてにくる事あたはす、死人の数おひたゝしく
なけこみ寺も葬地足らすとて断なれハ、是非なく死骸を積
置て破家の材木なとあつめて火化せり、其臭気たえかたし、
大小刀の身焼て出し事三車斗、ケベル鉄炮三十挺、和筒七
八挺出しハいかなるものゝ持来りて廓中にありしならんと
尋るに、去藩中の士調練の身を妓にほこりて語れる事あり、
妓これを見度とて所望せし故、其友をかたらひ妓楼に来り
て筒を持て調練の学ひをなして見せたる後、止宿して或は
圧死焼死の中に入しものゝ筒なるへしといふ人あり、然る
やいなやをしらす
○同し北廓にありし楼の主人、用心のため穴蔵を造り置るあ
り、わか家の男女あらんかきりハ穴蔵にうつれよとて入置、
上に土を掩ふて上策とおもひ居たりしか、火盛んになり、
其家焼失して穴蔵の男女みなむしやきとなり、青くふくれ
て死せりとそ
○房州辺の者二人吉原町妓楼に遊ひ酒宴最中、何ものとも知
れす来りて房州の客人ありしに急用あり、鳥渡(ちよつと)面談いたし
度取次くれよといふ、若き者答へて只今御酒最中なれハ面
会ハかなふましといふ、其者色をかへて急用なれハ是非に
通しくれよといふ故、其旨何かしにいへるに今面白き最中
也、明朝来らハ逢へし、何人なるや名前を申すへしといふ、
其旨を通しけれハ其者名をいふまてもなし、甚たいそきの
用事なり、是非只今面談に及ハんといふ故何かし不興なか
ら立出て何人なるや用事は何事そといふ、其者内々の用事
なれハこゝにてはいひかたし、こなたへ来給へといふ故、
簷の下迄出たれとも、こゝにてハいひかたし今少しこなた
へ来給へとていさなひて大門の外迄引出されたる時、廓中
大さわきにて家の潰るゝ音おひたゝしく、地震甚しきに驚
き、其人を見るに影も形もなし、何某夢のさめたる如く手
に汗をにきれり、されとも其人見えされハ尋問事もならす、
連の一人ハいかゝせしや定めて死せしならん、かくとしら
ハともにつれて出へきものをと悔るに、火も盛りに燃上り
たれハ、わかやとへ帰らんとするに、其路も火の光見ゆれ
ハ去かたく夜の明るをまちて、うら田圃の方を帰るに、忽
ち連の男にあへり、たかひに驚きてこゝは冥土にてハなき
かと手をとりてなけける、連の男のいふ、足下の出行給ひ
し後、程なく大地震にて家潰れわれもおしつぶされたると
覚へしか、やのむねの下に女の声にてたすけ給へといふ故、
其女を引出したれハ、女よろこひ先に立て行、其時いつく
ともなく女ハ見失ひ、はね橋の方に出よとよふ声聞えて忽
ちやみぬ、さてははね橋ありて女は出しなるへし、われも
其跡に従かハんと声せし方に至れハ、果してはね橋をおろ
してあり、わたりて見れハ此田圃に出たり、さるにてもわ
れ〳〵二人を助け出せしハ何人ならんか、其初め呼出せし
人も其女もわれ〳〵ハ国の産土神の助け給へるならんかと
て有かたく覚えしとそ
○一橋の軽き家人吉原に遊び、遊女と寝たるに燈きえ梁落て
驚きさめ、起んとすれハ天井に首つかへし故、手にてさゝ
へるに板はなれ、首は出たれとも其上に屋根あり、手にて
かきさバきはだか身にてくゝり出んとするに、遊女足にと
りつきし故其儘出れハ遊女も出たり、さるにてもあたりハ
火炎々ともえて道なし、からくしてうら田圃にのかれ出、
遊女をつれて宅に帰らんとせしか、赤裸なれハ近所へ面目
なく同役の宅をたゝき、しか〳〵のよしをかたり衣類をか
りて宅にかへれり、それより遊女の主人に右の始末をかた
りとても死ぬへかりし、女を助け出せしなれハなき者とお
もひてわれにくれよといひしに、主人も尤なりとて女をあ
たへしとそ、此人もとより独身なれハ地震の媒灼(ママ)にて妻を
得たり
○本所にすめる竹村啓次郎といへる人、母と妻娘六歳の男子
ありしか残らす梁におされ、壁土瓦土なと落かさなりて見
えす、近きあたりの人瓦なととりのけて掘出せしに母を始
め夫婦娘も死せり、六歳の男子一人ハ死せすして掘出され
しか、幼き心にも哀ら(しカ)くやおほへけん、棒ちきり木を持来
りてとゝ様・ハゝ様を掘出すとて掘てハなき、なきてはほ
る、其有さまあはれといふもをろかなり、とて見る人皆袖
をしめれり
○柳沢孫太夫とて芝辺の人なり、其小児六七才、乳母と一所
に梁にしかれて乳母ははや空しくなりしゆへ、小児を助け
出さんとすれとも、乳母に取つきてはなれす、しいて引出
さんとするにいかにしてもはなれす、終に乳母と共に焼死
せり
○本所河岸付の町に薪を積置る所、地震に薪落ちりて山をな
せり、四五日経て其辺何ともしれすあしきにほひ甚し、薪
やのあるし人して取かたづけしめけれハ、薪の下より男三
人女四人の死骸出たり、是は辻君と客との死骸なるへしと
評せり
○亀井侯の臣梁におされしものあり、助けよ〳〵とよふ、一
人ふびんにおもひ助くへしとて傍近くよりしに、おされし
もの足に取つきてはなさす、是非助けくれよといふ故、我
も助けたくおもひて立よりたれとも、そこはなさゞれハい
かにともせん方なし、火も近くなりたれハ我まてもこゝに
死なんハ益なし、はなしなハわれ人をかたらひ来て必すた
すけん、とても一人の力に及ひかたし、願ハはなし候へと、
わひてやう〳〵手をはなしけれハ、其あたりをかけめくり
て人を尋るに一人も見えす、此まゝにけさらハうらむへし、
いかゝはせんとあたりを見るに、作事小屋あり、是幸ひと
内に入て何そ道具にても有んかと尋ぬるに、小さきのこき
り一挺あり、これそよきものなり、此鋸をあたへてにくる
にしかすと思ひ、やかて鋸をかのおされたる人にあたへ、
今此鋸を持来れり、小さくして大梁のきるへしともおもは
ねとも此外なし、運ためしに梁を引切て見候へといひてに
けされり、其人いとよろこひて実に得かたきめくみなり、
はや足の方あつき迄火もえ来れり、いで引て見申すへしと
て、金毘羅大権現を祈念して死力を出して引たるに、ふし
きや其梁中より折てのかれ出る事を得たり、さらハ鋸の恩
を謝せんとて、先の人を追かけしに遙に影の見えたれハ、
声をあけて大恩人〳〵とよハゝるにそ(カ)先の人ふりかへり見
れハおされし人なり、即ち鋸の恩を謝し、われハこれより
金毘羅に詣てのち貴所に謝せんとおもひしか、追つきぬる
こそうれしけれといへりとそ
○麴町番町の辺高燥の地ハ此たひの地震軽くして家宅破毀に
至らす、土蔵のみ少し損す、されハ居人もわか里はいつも
地震の憂なしとおもひて安然(ママ)たる事平日のことく謡歌の声
絶す、実に虎にあはさるものゝ虎のおそるへきをしらさる
かことし、夏の虫にハ氷を語るへからすといへる偐のこと
し、強き地震にあひてのかれしものハおそるゝ事甚しく、
屋上を猫のあるき、天井を鼠のはしる音にも地震かと耳を
そハだつ、羹の熱に舌をやけるものハ漿を吹、蛇をおそれ
て笹を朽繩にうしなふたくひなり、笑ふへし
○八代洲河岸火消松平采女地震火事の後明幾(カ)日四ツ時登 城
可致病気ニ候ハゝ名代可差出者御達ニ付、名代者有之 御
達ハ御役 御免の不相応等の事ニ付宜からさる時の事にて
宜敷事には無之、御先例故采女大きに恐怖していかゝ可致
哉と、案しなからこわ〳〵登 城せしに、地震火事急変之
節御道具取片付行届一段之事ニ被 思召るもの御褒詞也、
采女有かたく面目を得しとなり、然るに何故名代にてもと
御達有しと尋るに、住居潰れ其上火災にて生死はかりかた
く被 思召し故なりとそ、誠に精忠成勤方といふ評判聞え
て、程なく小普請支配に転役有しなり
○同し火消与力木村何かしの下女は主人家潰れ、主人の外に
出るを見て引つゝき出んとせしに、簷落、ゑんかわひらき
て出る事能はす、其儘椽の下よりねだ下にはい入て勝手の
方にくゝり入、兼て覚えある揚ふたの下にさくりより、揚
ふたをあけて上を見れハ、屋根落て引窓そこにありて、空
の見へけれハ引窓より屋根に出んとする時、主人の声にて
誰々は出たれとも下女のみ見へさるハとて名をよはるゝを
聞て、わらハこゝに候とてはい出たり、主人よろこひ家内
の人数揃ひてけがなきハ幸なり、いざにけよ、火勢危しと
て家内・下女を引て御堀はたに至り、先こゝにてよしとい
ふや否や腰ぬけて立事あたハさりしとそ
○近頃小十人より新御番へ御番替ありし新籾政次郎ハ、十月
七日の夜泊番にて夜中の地震二日程にハなけれとも、御あ
んどん消て暗夜となり、相番も御黒書院の御庭の方江立退
につき急き走出しに、未た御勝手を覚えす、御柱に行当り
頭を打わり、破血して衣服も赤に染たり、相番とも介抱し
て宅に帰せしと云伝ふ、二日の地震より人々恐怖の心治ら
す、周章狼狽して少しの地震にも物をとりあへす立さわく
故、かゝるあやまちも有しなり、死をおそれすんハ何そ地
震をおそれん
○藤谷殿といへる女中は京都より下りて、盛姫若様御婚姻の
女郎の方なり、姫君逝去の後、御本丸ニ召帰され後御奉公
を辞して御下、小川町高家中条氏に住す、地震に家潰れて
梁の下になりしか、天井の板を破り屋のうらをかきやふり
て出んとせしか、衣服に釘かゝりて出かたかりしを、帯を
とき赤はたかになりて瓦屋根よりぬけ出たるに、其部屋の
下女もやかてのかれ出て、主君に逢しか、裸身なれハおの
れかきたる麁服をぬきて主にきせ、つきそひて壱弐町立の
き路傍にまたせ置て、独り立戻り潰たる家に這入て見るに、
二階下に女二人おされて居たるを助け出し、其あたりに有
合せし風呂敷包をかきさらひて、主をまたせ置たる所に至
り、ひらき見れハ縮緬の小袖二ツあり、一ツは主にきせ、
一ツはおのれ着して、相知れる御比丘尼の方にのかれ来れ
り、此下女は才力ありて忠心なるものなり
○本所に住る鳶のもの、家潰れ妻も乳のみ子も梁におされし
か、おのれハからくしてのかれ出たり、妻梁の下より小児
を出し、せめて此子をたすけよといひけれハ、鳶其子を受
とりしか、こんなものを何にせんとて大地に打つけて即死
せり、妻なく〳〵とゝめんとせしか、おのれか身自由なら
す、しからハわれをたすけよといへは、あたりに有合した
る鳶口をもて妻の頭に打込て引出したれハこれも空しくな
れり、地震におとろきおそれて発狂せしなるへし、心なき
下人恐懼する所におゐて砕せしなり
○地震より前病臥してありしもの、地震より俄に快気せしも
の彼是数人あり、持病癒て忘れしもあり、是おそれおとろ
きしによりて病根を絶しなるへし、然れハ地震もまた益な
しといひかたし、外科・骨接・小手療治・其外工人・材木
屋・荒ものやの類、俄に富をなし地震を益ありとす
○十一月中旬を過れとも日夜地震やます、安き心なし、昼は
物にまきれ且はとり廻しもよけれハおそれもうすし、夜は
安眠するものなく、盗賊も所々に入よし風聞あれハ油断な
らす、戸しまりをかたくすれハ地震の用心あしく、戸さゝ
ぬ世とハなりたれとも、夜ハ夜の明るをまち、明れハいき
かへりたる心地すること四十余日に至れとも同しさまな
り、其上世間色々の流言ありて幾日にハ又大地震ありと天
文方より申立しなとゝいひふらして人々恐れさるハなし、
大地震の後は昔より四五十日の間ハ少々つゝの地震あれと
も大地震二度ハなきものなりといふ人あれとも、江戸は元
禄の後大地震なきとて決して有ましきとおもひ居たるに、
此度の大震古今未曾有なる事ありし上は、大震の後とて又
大震有ましきとも決定しかたしとて、おそるゝものもあれ
ハ、又其説に従ひておそれさる事あたはす、只海上の塩(潮カ)時
地震後常にかへらす、今以定らされハ又々津波か地震有へ
しと海浜の人いへるときくも、何となくおそろし
○伊勢の神官より九月の初頃筒井紀州の方へ文通に、当年は
冬に至り何か変事可有之、御老人の身御心得あるへしとい
ひ越せしか、此度の地震の事なるへしと思ひ当れり、然る
に十月の末に又書状あり、地震は済候得とも未だ此後今一
度変事可有之、御心得有へしといひ越せしハ、何事ならん
と心障の事なりと紀州人に語りしと又伝に聞り
○小川町大岡卯之助か父は物かきてつくゑにかゝり居たり、
地震せしかと近頃普請せし家なれハおそれなしとおもひ居
たるに、其儘机に頭をのせゑりもとを梁におされて死せ
り、家作新しきとてたのみかたし、ふるしとて必す潰るに
もあらす、家作の仕方にも古今の異なるあり、大久保彦左
衛門の家は享保年中の棟札ありてたをれかゝりたる家なれ
とも潰れす、昔は切くみのほども深く釘の打方も多くして
念入たるに、年ふるまゝに釘も請(ママ・錆カ)付て抜さるにても堅事知
るへし
○梁の下におされ又ハ壁天井に埋められしもの衣服をきたる
儘出るはむつかし、裸身になりて出るをよしとす、柳沢甲
斐守の奥向潰れて奥方女中共下におしふせられたるもの何
れも裸身にてぬけ出たれハ怪我なし、浅草寺の寺中にて小
僧壱人板壁類の下に埋められて出かたし、老僧是をたすけ
んとて手をさし入しに釘竹の類多くして手に疵つけとも出
かたし、衣服をぬきて出よとて裸躰にし老僧の足にとりつ
かせて引出せり
○八王子千人頭荻原真之助ハわか門人なり、十一月十九日来
り話せしハ、其近に北条氏輝の城跡あり、地震より四五日
まへ夜中かゝり火の光天にかゝやき、貝鐘、太鼓の音、人
馬のさけふ声おひたゝしく聞えて戦争の様子なりしか、翌
朝往て見るに何こともなし、これ地震のしらせなるへしと
村人とも評せり、又同しあたりの山の半腹に太さ六畳敷程
のもみの大木あり、地震の十日斗前に風もなきにたほれて
田の上に横たハり、耕作往来の障りになるにより枝を切と
り身木斗にしたれとも、猶往来の邪魔なりとて、引起さん
とすれとも中々人力に及ハすしてすて置るに、地震のとき
元のことくに起直り冬分なるに青葉をふき出せり、余りふ
しきなれハ願かけなとせハ叶ふへきもしれすとて、病人な
と願かけせしに速にしるしあり、理外なる事も有ものかな
と人々称嘆せりとそ
○河合求馬は田安殿より姫君附用人となりて鍋島家に属す、
二日の夜泊り番なりしか、日比谷ハ去年の地震も強く其後
も地震ハ強き土地なれハ、用心して火事具なと一包となし
て傍に置事なりしか、かの地震にて腰のものをさし傍の包
を携み立出しか、燈火きえてくらし、中庭に出しに向ふの
ねり屛東の方より半分倒れ、西の方ハ未た倒れす、其隅に
切抜有れとも屛危けれハ、其下にハよりかたし、いかゝせ
んとおもふ所に、運よく残りの屛向ふの方に倒れたる時、
切抜の戸ひらきたるをおほろに見て走り出、其先に広場有、
こゝにて包の袴を取出し着せんとして、腰刀をとり暗夜な
れハ失ハさる為刀を足の甲にのせ置て袴を着し終るに、其
間も地ゆれていつか刀をゆりなくしたれハ、そここゝとさ
くりてはるかうしろにて刀をさくり得て帯せり、夫よりひ
たはしりにはせて御産所に至るに、君ははや地震御立のき
所に入らせられしと聞てそこに伺候せり、同僚の士は一人
も至らす、やゝ有て同役二人頭も衣類も土まふれになりて
出来れり、御蔵の破損、御殿の大破にて道なく、潰れたる
屋根の上を経て来れりといふ、然らハ御立退の御供すへし
とてすゝめまいらせ、三四間出させられしか御殿の御破損
所を経給ふハ危けれハ、先しハらくゆりやむをまたせ給ふ
へしと又御立戻ありし所に、近きより火起りて忽ち燃来る
へき勢なれハ、是非なく背負奉りて御屋根の上を経て御門
外に出しまいらせ、田安より御迎の来るを待て、田安の御
舘に御供せりと語れり、御道筋桜田外より半蔵にかゝりし
頃は水道あふれて水を渉る心地せり、初め詰所より出る時
平常は邪魔なりし中柱に助けられて詰所潰す、此柱なかり
せはと跡にて思へりといへり、此邸には圧死焼死も多し、
医師三人内二人は早く屍を得たれとも、壱人は五日程立て
土蔵のくつれ土の下より屍を掘出せりと云
○本所石原にすめる人、両国橋の上まて帰り来りて地震にあ
へり、橋ゆるき動きて歩する事あたはす、波荒くして津波
の来れるならんとおもひ、四ツはいになりて橋の上をやう
〳〵にわたりて宅に帰りたれとも、宅はすてに潰れて入事
あたはす、路上にありて夜を明せりと云
○此度の地震に何方も橋の損し落たる事をきかす、落さるい
われハ橋柱ハ皆堀立のものなれハ保ちよきゆへ損せさるな
り、すへて地震にハ堀立の柱ハたもつものなりとて、むか
しの家作にハ一間に必壱本ありて、地震はしらと名つけ是
を大黒はしらとも名付しと老人の物語なり、荒井甚之丞の
土蔵四ケ所あるうちに石つへに柱を堀込て地中に三尺ほと
もいれてたてしあり、堀たての形なり、此度の地震に壁も
落すときけり
○小川町騎射の先生は地震に驚き庭上に走出しに、腰の物を
忘れ取に戻り暗夜手探りに床の間に置し大小刀を取て、再
ひ庭に出んとて椽頰を下り草履をはかんとて足にてさくり
求るひまに、ゑんげた落来りうたれて仰にたをれ、飛石に
頭をうちつけ腹の上にハ瓦土なと落重りて大疵となりぬ、
家内のものにハはしめ台所の方に出よとさしづしなから、
おのれハゑんかわより下りしのみならす、草履なとはかん
とせしハ不覚なり、最初に飛出しまゝにて腰の物を取に戻
らされハ怪我ハあるましきを、命を知者ハ巌墻の下にたゝ
すといへることをおもはされハなり
○小川町雉子橋通りハ両頰の屋しき、近来長屋の修復出来し
て一様に新しくなりて見事なりしを、往来のものゝ目につ
くはかりなりしか、二日の朝通行して見たり、其夜のうち
に残りなく破壊し多くハ火にかゝりて見るかけもなし、桑
田碧海の変まのあたりなるを歎息せり
○簞笥のわきに伏て助かりしもの多しといふに予かしれるも
のゝ妻子ハ世のたんすよりハ丈高き古製のたんすの傍にふ
したるに、其簞笥ふしたる上にたをれ、其上に梁落たれハ、
とりのくる事もならさる内に焼失せり、されハ簞笥ハ必す
人を助るともいふへからす、死生只命あるのみ
○本所に住る清水殿附の軽きもの、地震火事に住宅のおほつ
かなさに舘よりいそき帰り道にて見れハ、焼落たる人家灰
の中にざせるまゝにて焼死せるものあまたあり、わか母妻
子ハいかゝなりたらんとあんじなからわか家の前に至り見
れハ家焼落て人見えす、焼灰の中に一所小高きところあり、
何となく心にかゝりたれともまつ母妻の安否を近隣の人に
も問てこそとおもひ尋るに、近隣皆焼原となりて人なし、
心あたりの所々にゆきて尋ねしかと知る人さらになし、是
非なく立戻り灰の中を尋ねみんとてもとの道に立帰るに三
ツ目の橋にて母・九才なる忰を携て来るにあへり、たかひ
に夢の心地して妻子の上をとふに母答て、われハいつもの
ことく此子をいたきて寝しに、此子いつになくねかねたる
により昔はなしなとして居たるに、俄に家のゆれて忽ちつ
ふれ燈火も消てくらけれハ、出へき方もわきまへす、此子
と共にかく(ママ)り廻りけるうちにあたり近く火燃出しと覚えて
外の方あかるくなり、潰たる屋根のこゝかしこ穴あるを見
付、其穴の大なる方より此子を引て出たれとも、娵と小児
の上まてハとゝかす、いかゝなりけん尋ねとふひまなし、
年若きものなれハ定てわれより先にのかれ出けんと思へり
といふ、即ち立帰り先に見し心かゝりの小高き所を掘て見
れハ果して妻は四才の小児、二才の児を前にいたき後ロに
負たる儘にて死し、妻は腹やふれて赤子あらハれたれハ、
手つから赤子を引出し母の躰とわかちて葬らんとするに、
あたりの市中に桶瓶の類ハたへてなけれハ、一里斗隔りた
る町家にいたりて水桶を乞得て、是に母子のなきからを入
て、みつから負て菩提寺に埋めしとそ、此母なるものハ暗
中に近所の火の光を得てのかれ出たれハ火災に助けられし
といふへし
○小川町津田美濃守ハ長屋こと〴〵く焼失し、居宅ハ残りな
く潰れて、四ツ谷大木戸の下屋敷に立退、茶亭六畳敷斗の
内に家内・侍女まて居住して歳を越すといはれき、是まて
小川町より登 城せしを四ツ谷大木戸より登 城なれハ、
短日の頃ハ半日路ありと歎息せらる、高禄の人々にもかゝ
るたくひ何ほとあるへきもしらす、かゝる時は小禄のもの
よりも艱難却て甚しかるへし
○高松の藩士山田某ハ鎗術師なり、老父あり中症にて歩行も
難儀なれとも二日の夜厠にゆきて居たるに、小用所迄潰れ
て厠ハ別条なく其身も災をまぬかる、某と妻子ハ本家にあ
りて残らす圧れ死せり、雪隠は何方も小さくひくけれハ地
震の害なかりしなり
○旗下の(ママ)士水野某ハ地震の後盗賊の用心に家来に命して夜中
時半に屋敷内を廻らせけるに、某は弐千石を領して年若き
人なれハ、夜廻りの人をおどしでなくさまんとおもひ黒き
[出立|いでたち]して後園茂樹の陰に身をかくし居て、夜廻りのものゝ
来るを待ておどり出たり、廻りのもの盗賊とおもひ持たる
棒にて打すへ繩をかけんとせし時、おれなるそ、ゆるせ〳〵
といふ声に驚き見れハ主君なり、廻りのものこわいかにと
おそれ入てにけんとす、主人、いやくるしからす、汝を心
見たるにけなけなる心掛しんびよう(神妙)なり、廻りのものはか
く有かたきものなりと口にハほめたれとも、疵のいたさに
〓(貌)をしかめ足を引て居間に帰りしとそ、人遠き慮なき時ハ
必す近きうれひありと此一事につきても思ひ当れり
○絵草紙屋にて戯作の品々一枚絵の類数種あり、其内に角力
の番附に擬して当時流行の品、不出来の品を分て東西に取
組たる中に西の関脇に見るもおそろし一ツ屋の額面といふ
あり、其いはれしれさりしか、或市人の物語に、此春浅草
の観音様へ大なる額を奉納あり、絵は豊国の筆にてむかし
一ツ屋の老婆石の枕もて旅人を残せしを観音にくみ玉ひて
美少年に化して一ツ屋に宿し給ひし故事を絵かけり、此額
は吉原の岡本といふ妓楼の主人おもひつきて作り納めしな
るか、此度の地震に岡本ハ潰れて一家残りなく死し、筆者
の豊国も圧れ死し、其額奉納の事にあつかりし世話人の類
も皆打殺さる。是観世音の御心に叶ハす、罰し給へるなら
んと聞人おそれをなしぬと語れり、是にて一ツ屋の額面の
いはれ氷解せり
○又地震の絵其外年代記の擬作にもゑんまの子と云事あり、
是も解しかたかりしか、其市人の話に、去年御台場御築立
の人足のうちに顔色ゑんまに似て力量人にこえたるものあ
り、人あたなしてゑんまとよふ、其子もまたよく親子似て
力つよし、是もゑんまの子とあたなしてつよき事にいへり、
此度の地震にも右のもの力量あれハ落たる梁をもかる〳〵
とあけて多く人をたすけしゆへ、人々ゑんまんの子とよひ
てたすけをこひしとなり
○寄合衆の中なるか其名を忘れたり、九月廿七日馬揃をつと
め、武具入の長持を座敷にならへ置たり、二日の夜地震に
驚き庭に出んとしたれとも足よろめきて歩行ならす、座敷
迄はい出して長持の間へはいこみたる時、梁も天井も一時
に落て長持の上にとゝまり其身にあたらす、性命を全ふせ
り、馬揃なかりせは長持もならへ置ましきに、馬揃に助け
られたるなり
○糟屋弥右衛門赤城に住す、庭前の池椽の下迄入て堀ぬきの
井戸三(ママ)より流れ出て水は十分なり、此度の地震に驚きうろ
たへて、庭に飛出るとて池水に飛込、水をのみほと〳〵お
ほれ死すへかりしをやう〳〵水より出たれとも病臥せり、
池を作るとも家近くハ作るましきものなり
○竜慶橋近所に住る野中氏夫婦は二階に居て潰れ火起りて難
儀せり、弟十歳、女子八歳二階下にておされたり、二人の
子供哀しき声にて助けよ〳〵とよへとも助けかたし、助け
んとすれハ火勢盛んにして近つきかたし、初めはいたひよ
〳〵といひてなきしか、火かついてあついよ〳〵、もふか
なわないか、助ける事ハならないかなまいた〳〵といひて
死せりと聞人哀歎せさるはなし、此十歳の男子は多門敬蔵
か門人にて、素読もよく出来伶俐なる童子なりしとそ、惜
むへし〳〵
○小川町の火消与力夫婦と弟三人暮しなりしか、夫婦ハ梁下
におされ死し弟一人残れり、外に男子なけれハ兄の跡を継
事になれり、兄の横死は不幸なれとも跡継となりしハ幸な
り、地震につきても人々幸不幸あり
○我知れる人に三十余歳にて妻も三十斗、此妻容〓(貌)も美なら
す、気重なる生質にて、俗にいふしり重なれは、物こと夫
の心に叶ハされとも、子迄なしたれハつれそひて有しか、
梁におされて妻も子も空しくなりぬ、妻の妹二八斗にて妻
よりは容色あり、気かるにて愛らしき女ありしを死せる妻
の跡へめとりて後そひとす、地震のおかけにて牛を馬に乗
かへたる心なるへしと傍人は評せり
○前冊に記せる御台場破損の事御修復掛りの役人に聞て前説
の誤をとく、一二三の御台場ハ破損、其内二の御台場会津
の屯所に火災ありて十四人死せり、合薬蔵は小破損ハあれ
とも火は発したるにあらす、其余ハ少破なり、一二三は海
中へゆり込たるにて人力の及ハざる地形堅くなれり、此上
御修造あらハ実に堅牢の御台場となるへしといへり
○大御番与頭の次男斎藤新次といへるは武術の心掛厚く武者
修行として諸国を廻歴せんことを父に願へともゆるさす、
終に三年立ハ帰り来るへし、其間の暇を賜ハるへしと書置
して夜中家を出、面・小手・しないをかつきて上州の方へ
こゝろさしいそき行たるに、上州にかゝりたる日、俄に雨
ふり来りけれとも、雨具の用迄もなく貯の金子もなけれハ、
いかにせんと思ひわつらひたるに、ゆくてに門かまへの百
姓屋あり、其門の下にたゝすみて晴日を待居たるに、ある
しとおほしき男声かけて、そのもとにハ武者修行の御人と
見受奉りぬ、こなたへ入て休息し給へ、茶にてもまいらす
へし、雨具忘れたまハゝかしまいらすへしといはれて、然
らハしハしの間御かし候へ、雨やみ候ハゝ立去へしとて其
家にいたれハ、先足をあらひて御上り候へ、われ〳〵も武
を好み候へは御ゆかしくこそ存候なれ、いつくよりいつく
をさして御通り候そと問、新次答て、それかしハ江戸のも
のなるか武者修行の志あれとも両親のゆるさゝれハ、家を
かけ落して出たるものなり、されハ路用もなく雨具の用意
さへ候ハす、志すかたもなく是迄参りて候なり、御芳志に
預り疲をやすめ雨をしのき候忝さにつゝます告申すなりと
いひけれハ、あるしよろしひ然らハよき事あり、外へ行給
ふ事なかれ、主か村にむかしより稽古場あれとも師とたの
むへき剣法者なく空しく戸さして置り、今よりこゝにとゝ
まり給ハゝわれ〳〵よきにはからひて、御弟子もつけ朝夕
のいとなみも村中よりまかなはせ道場の主とあかめまいら
すへし、今夜はわか方にやとりてかたり給ふへし、先風呂
に入て後□(ムシ)飯をきこしめされよとていとねもころにもてな
しけれハ、新次も心落つきてたのもしき人にあひぬとよろ
こひて、こゝに止宿せり、翌日村の年寄、五人組なといふ
ものともをよひ集め、剣術先生江戸より吾方に来給ひぬ、
誰々も御弟子となりて教を受へし、先道場をかきはらひて
先生を入れまいらせ、志あるものハ明日より稽古あるへし
といひ渡しぬ、庄屋の命令一義におよハす、皆々うけよろ
こひて立去ぬ、あくる日あるし先に立あないして道場にい
たれハ、若きものとも稽古道具を用意していかめしく待受
たり、新次道場に入りて、先各方仕合して見せらるへし、
其後太刀筋を伝へ申さんといふに、一人其内の武術者と見
えたるかすゝみ出、怖なから先生の御太刀筋を拝見仕、其
後にこそ教を受申すへけれ、未熟なから一太刀御教へ候へ、
御相手仕るへしとて面・小手・具足に身をかため長きしな
いを持ておとり出たり、新次ハ短き小しないにて面・小手
を用ひす立出て、少しも遠慮なく打候へとて立合たり、彼
者ハたゝ一打に打倒さんと上段より打込を、左にくゞりて
空を打たせ、太刀を引て突てかゝるを右にはつしてやりす
こし、柄をとらへて動かさす、いかに手なみは見えつらん
といはれて、彼者閉口しておそれ入たる、先生の御早わさ
何れも御弟子となり申さん、心なか□(ムシ)教をたまへとわひた
れハ、新次うなつき座につきて、是よりた(カ)じなく教へしか
ハ、何れも仰き貴ひて、衣服飲食の事よりして何不足なく
まかなひて、名主の娘を妻として男子一人もふけ、門人も
百人余に至りしに、ことし三年目になりしかハ、約のこと
く一まつ父のもとに消息して安否をとはんとて、此春金五
枚をよせて是迄の事ともをわひけるに、十月二日の夜地震
火災に、兄は横死して継嗣なけれハ新次はよひ帰され、妾
と男子を引つれて江戸に帰れり、地震なかりせは浪人にて
身を終るへきに蛙の子は蛙になるの理にや、遂に御旗本に
立かへりぬ
○磁石石を磁石とのみいふ時ハ方位をみる器とまきらハしきゆへ重言なれとも俗にしたかふかざ
り置て釘・[挾子|ハサミ]毛ぬきの類、又鉄の鈴なと付置へし、地震
のゆるへき前釘類自然と地に落十七呼吸ありて地震す、鉄
物の落る音を聞て立出れハ地震の前に外に出て災をまぬか
る、試るに果して違ハすとて磁石石を求る人多し、これか
為に価三倍せり
○水野土州の藩士山田常典、和学に長せり、地震記壱冊仮名
文字にて作れり、其末に一首の歌あり、
心あらん人おもひとれよの中の
ふりなほるへき時は来にけり
地震紀聞追加 牛門老人筆記
○深川冬木町に細川家の臣市居するものあり、当年干役して
留守にハ妻と忰十才次男五才女子二才有、家頗る富るによ
り下男下女をつかひ、女子は乳母に養ハしむ、妻の母は麴
町にあり、九月末より来りて留宿す、十月二日にハ家に帰
らんとせしを孫とも名残をおしみせめて今一夜とまり明日
帰り給へといふにまかせて、二日夜はこゝにとまり、孫共
と一間に寝、妻は別間に寝、地震にて母と子供の寝たる座
敷は潰れて残りなく圧れ死す、妻のみ独り残りしか、かな
しみやる方なく只夫の留すに三子を殺し母まても失ひて何
の面目か、生て夫にまみゆへきとてみつから舌を嚙て死せ
んとせしを、家人とも寄集りて是をとゝめたり、此母早く
麴町に帰りなハかゝる非命にハ終るへからさりしをこゝに
とゝまりて死せしハ不幸といふへし
○梶田五郎兵衛の娘ハ小川町佐藤道庵の娵なり、道庵の惣領
は二階に住るか、二日にハ其妻小日向の親類へゆきて止宿
せし故、わか部屋の淋しきまゝ座敷に来りて弟と閑話して
居たるか、四ツもうたれハいつもより遅くなりぬ、こよひは
こゝに寝んとて兄弟つれにて小用に行、座敷に戻るゑんか
わにて地震きひしくゆり出しけれハ、驚なから兄弟二人に
て父をたすけ引て庭に出たるに、二階をはしめ残らす潰た
り、怪我人も有りしとなり、此夜娵は小日向に宿せし故、地
震の難なく其夫も妻の留守故部屋にもねす早くいぬへかり
しを寝すして居たれハ怪我なし、前条の老母は他に宿して
圧死し、此娵は他に宿して夫まて死を免かる。命なるかな
○佐藤家は代々奥御医師にて、文政のころ御寵遇渥く恩賜の
品数々ありて、土蔵に充実せしを、此地震火災にて皆烏有
となる、かくのことき類世上を通し考れハ、此度滅却せし
重宝奇品何程有しもしるへからす、地震ほと惨害なるもの
はあらす
○本所辺の武家にて上下皆圧つふされたる中に知行より出居
たる中間八助剛強なるものにて、小力もあるゆへ崩れたる
壁の下よりはい出たれとも暗夜にて方角もわからす、朋輩
の名をよへとも答ふるものなし、近辺より火事出来てあか
るくなるにつき、主の家玄関を初め奥向まて悉く潰れたる
を見て大に驚き、せめて殿を掘出さんとて鋤を尋れとも見
えす、昼の程薪をわりたる大まきわりの有所をおもひ出し、
鋤の代りに持来りて殿の居間とおほしき所を掘穿ちけれと
も、薪わりの事なれハおもふやうに掘えす、とても夜中の
事にハなしかたし、夜明けてともかくもせんとおもひ、手
をとめてぼうぜんと立て考居たるに、こはれ家の下に人の
うめく声するをきゝさてはこゝに人の埋れ居るならん、掘
出さはやとおもひ例の薪わりをうち込しに手こたへしてき
ゃッといふ声せしゆへ、あやまちせしやとおとろき薪わり
を投すてゝ手にて瓦土をとりのけかきわけ見るに、人のう
つふしたる上に天井壁なとの落重りたるなれハ、其人の手
をとり引出さんとするに壁重くして動かす、やう〳〵壁を
とりのけ、衣服のゑりとおほしき所を両手に持て引たれハ、
衣類ハびり〳〵とさけなから引出したり、火の光にてみれ
ハ殿なり、中間おそれおとろき、こはいかに 御けかはな
きかといへは殿くるしき声にて、われ壁の下におされ声さ
へ出す、くるしかりしにわか腰のあたりへ物のあたりたる
にてはつとおもひ声立たり、皆々はいかに、汝ハいかゝし
て助りたると問、八助先の事ともかたり聞かせ、又候地震
のゆり候、先こなたへ渡りぬへしとて、手をとりて後園の
はたけの方にともなひ、こわれ残りの戸板一枚見付来りふ
る畳をしきて殿をのせ、御痛はいかにといふ、殿痛甚しく
たえかたし、されとも夜中いかにともしかたし、夜も明ハ
しかたもあるへし、何にもせよ家中の人別汝の外に一人も
見えさるは、わか妻子をはしめ下々に至るまて残りなくお
され死せしならんとてなけきしか、夜風疵口にしみて堪か
たくや有けん、うんとのけそりて其儘息は絶にけり、八助
一人のこりたれとも、わかあやまちにて殿に疵付死に至り
しハ大罪のかれかたしとて、一通の書置を残して井戸より
投しけるとなり、其後の事はきかす
○我かたに出入する渋ぬりの職人来り語ていはく、天水桶は
火災には益あれとも地震には害あり、わか老母潰れたる家
をはい出したる時、屋上より天水桶落て老母の背上にくつ
かへり、水をあびたるのみならす、背ほねを桶にて強くう
たれ其儘絶入たるを気付なとあたへて蘇生はしたれとも、
寒夜に水をあびて着替の服なく、たき火してあてたれとも
老躰ほと〳〵危ふかりしとかたれり、火の用心は地震のさ
またけとなり、地震の用心は盗火の患あり、ふたつなから
兼る事を得へからすとは是等の事なるへし
○所々見付の升形の石垣をはしめ、大手中しきり等の石垣方
正にして削るかことく確々と組立たる石垣ハ、石と石とす
れ合、あはせ目よりへけ落たる跡あらたに出来て、地震の
強かりししるし見えたり、されとも心なき人はうかと見通
して気をとめされハ見とめさる人も有へけれとも、そのま
ま年をへはいつ右の如くへげ落たる事を知らさることとな
るへく思はる故に、こゝにしるしして後人に告んとす
○此度の地震に盲人の怪我或は圧死せしものをきかす、其故
は盲人はうろたへて走り出る事なく、拠なく落付居てゆり
やむころ静に出るにより怪我もせさるならん、されハゆる
りと落つきて考ふるにしかす
○地震後職人共忙しく金銭を得ること多き故自然と銭のつか
ひ方あらくなり、商人共の利を得ることゝハなれり、足袋
屋は例年になく誂物もおほく、十二月十五日限り誂物断り
なり、股引・足袋・半てん・手拭ひ・腹かけの類おひたゝ
しくうれる、紺屋も鳶のものゝ半てんを染るにかゝり居て、
外の染物は少しと云、中より下に鳥目の落るゆへなり
○小十人浦野氏は下谷和泉橋通りに住す、他出して帰り二階
に座してありしか、下より突あくるやうに覚え、強き地震
なるへしと思ひ、下へおりんとくらやみを足にてさくるに、
箱段はつれておりる事あたはす、[家|や]なりのすることおひた
たしく、たふれくつかへらんとするやうなれハ、二階の窓
を開くやいなや二階往来の方へたをれんとする勢に、窓よ
り道中になけおとされうつふしになりたる上に、二階崩れ
落ておしにうたれ動く事もならす、家内の人数は皆庭上に
出て、われをよふ声聞ゆる儘ふしなからこゝにありと答ふ、
向屋敷のもの其声も聞来りて、二階の崩れを少しく取のけ
くれたるにより死せさるを得たりとかたれり、此二階の作
り方ハ近来はやりのつきたし二階にて、最初よりの二階作
りにあらす、それ故につきめよりわかれて落たるなり、二
階はつきたして作るましきものなり
○何方の婦人なるや、下女一人具して小石川御門外御堀はた
まて来りけるに、俄に産のけつきて路の傍にて安産あり、
されとも外にたすくる人もなく、下女一人うろたへさハく
のみにてせんかたなし、ゆきゝの人は立つとひて見るはか
りなり、其時壱人火事羽織を着たる士通りかゝり、傍近く
立より下女に向ひていふやう、何方の御人かハしらす候へ
とも路傍にてさそ〳〵難儀なるへし、赤子も冷しなハあし
かりなん、わか宿は此御門内なれハ御世話申すへし、何と
そかいほうして御産婦を引われにつきて来るへし、赤子ハ
われあつかり申すへしとて、手ぬくひを出してつゝみ、ふ
ところをくつろけていたきとり、先に立て小石川御門内へ
ともなひゆきぬるを、通りかゝり立とまりて見物し仁人も
有ものかなと感心したり、其後いかゝせしや尋ねとハまほ
しくおもへりと或人語れり
○本所辺焼失の町家多し、其内質屋ハ土蔵弐三ケ所もてるも
皆焼失して其土地にも居らす、焼原に書付を出せり
此度地震火事ニ而質物不残焼失仕申訳無御座候
何屋何右衛門
右の通の札を出して何方江立退たるや知れさる多し、置る
者の損失のみならす質屋も大なる損失なり
○松平謹次郎来話、門人会津藩の士御台場勤番に当りて屯所
にあり、初ハ地震ともしらす物音のあやしけれハ外に出た
り、出るやいなや屯所潰れて地震の強きをしれり、屯所の
製造ハ東西へ長く作り、左右ハ板羽目にて長三拾間斗、東
と西にのみ戸口ありて出入するに、中央まては拾五間つゝ
もありたるによりて俄に立出る事あたはす、彼門人は早く
外に出たれとも、残れる拾余人は左右の羽目板内に向てた
ほれ、其上に屋根落たれハ出へき口なし、火の災起りて潰
れたる屋の下を焚にまかせ、其内に在る人の声ハ聞ゆれと
も、是を助くるには屋を掘こほたされハ出しかたし、掘こ
ほつときハ火勢高くあかる故、合薬蔵に火の移らん事をお
そる、もし合薬蔵に火移るときは御台場一円に破滅すへく、
人も不残死すへしとて、是非なく其儘焼死するを見なから
救はす、中にある人も決心して自ら腹きりて果しもあり、
惨然として見るに忍ひさりしを聞るよしかたれり
○地震後人家屋瓦をおろし市松にならへたるを見るに、なら
へ方二様あり、竪に竪置るあり、横に横置るあり、
竪に置るハ素人の置るなり、横に置るハ工人の置るなり、
其利不利をとふに、竪に置ときは水はしりよきに似たれと
も瓦と屋根の間に風吹込て損しやすし、横に置ときハ風を
ふせくによろしくして、雨水流行の水はきとゝこふるへけ
れとも、風の災大にして雨の害小なり、横に置の利なるに
従ふへし、素人のわさは工人の其道に達せし者にしかす
○予か隣家土岐藤兵衛大破の土蔵を引起し寒中に荒打をさす
る、近隣のもの是をみて、寒中の荒打定て壁氷て用に立さ
るへし、不工者なる事なりと批評せり、予其後主人に逢る
席にこれをとふに、其知行上総の者共大工左官の類皆出府
して家の修理をなす、彼国風にて土蔵の荒打は寒中をよし
とす、寒中なれハ索繩朽腐の患なし、荒打より三日三夜蔵
内にて火を焚時は氷る事なく保ち方却て宜しきよし故、其
説に従へりといふ、予立寄てこれをみるに、荒打の外をこ
もにてつゝみ置、内よりハ火にて乾かせしなるか、よくか
はきて氷りし跡なし、奇といふへし
○大工職人昔にくらふれハ其巧拙ハしらす、速成の工夫機智
の作略ハ昔なきことともあり、さんだんしと名付て、鳶頭
のこときもの手を袖にして智力をめくらし、人のなし難き
わさをやすくし、工力を費すへき事を容易になし、驚くへ
くおそるへきの智術あり、中仕切御門御矢倉火に傾きてほ
ど〳〵覆らんとせしかハ、御取払になりて御改造なるへし
と御沙汰有しを、御作事方の工人さんだんしありて、引起
し御修復有ん事御手軽なるへしとて、日数三四日の内に元
のことく起し御修復にて事済めり、神工鬼作ともいふへく
人皆驚嘆せり、御入用金高も格外少分なるよし、其外御書
院御門内の大番所・雉子橋御門御矢倉のことき中々容易に
起し直しにハなるましく見えたるを、日数を経すしてやす
〳〵と起し、大手門御矢倉を高くつりあけ置て下の御石垣
を組直したる後、元のことく引おろしたるなそ人間のわさ
とハおもはれす、それも十二月末に取かゝりて廿九日まて
に大凡落成せり、大手桔梗の大番所、同しく腰掛内外両所
とも日数四五日程に元のことく新たに落成して諸人目を駭
せり
○或諸侯の第(邸)宅大破に及ひ、国元より大工其外の職人ともよ
ひのほせて修復を命せしに、其入用金千八百両とつもれり、
余り大金なれハとて役人共江戸の工人に謀りしに五百両と
つもれり、余りの相違なれハ江戸の工人に命せしに、色々
見なれぬ仕方をなして忽ち起したり、其内に四斗俵弐ツ繩
にて釣置、此俵を揺す度に家のゆれうこくこと地震のこと
し、其うこきにつれてくさびをさし、ほぞをかため、大な
る家を忽ち平正になして堅固なる事新造の家のことし、国
元の工人等舌を咄指(ママ)をくはへ恥おそれて退きぬと或人語れ
り
○小日向荒木坂に住る上原金七郎の老母は耳遠き人なり、早
く寝たるに地震せしかハ惣領又太郎走り行て扶け出さんと
するに、燈火消たれ共勝手はしりぬ、探りよりてばゞ様地
震ニ候、早く御出候へ、と云なから起さんとするに、耳き
こえす、只暗夜に盗賊の来りいさなうならんとおもひ、小
よきを引かつきてうこかす、しひて抱きおこし庭に出んと
せしか、力ら及はすしてたほれたれハ、老母上になりてと
りつきてはなさす、其時金七郎さくりよりたれともくらく
して何れともわからす、老母の法師あたまにさくり当りか
きいたきて庭に出たれとも、老母ハいたくおとろきたる故
かぼうぜんとして前後もおほえす、又地震とハしらす、盗
賊にかきさらハれたるとのみおもひゐたりとなん、されハ
耳遠き人にハ平常約束して地震の時ハ耳を引へし、火事の
時ハ鼻をつまむへしと云やうに合図を定め置へき事なりと
初めて心付ぬ
○小石川杉原氏家皆潰れ、西面の土蔵半はより上は南向にな
りてねじれ倒れたり、地震の力土地によりて色々替れとも
土蔵をねじりたほせしは未たきかす
○本所深川辺の猟師ともかれい突に出、何洲とかいへる所に
至り、船よりおりて突居たるに、俄に大筒のことき音陸の
方に三ツ四ツ聞えしかハ、何事かとおとろき見たるに、火
の手上りて火事出来たれハ、定て地震なるへしと察して船
にて急き帰れり、其時迄も海水ハ常のことくにて地震のゆ
りたるをしらすといふ、しかれハ此度の地震は陸は強く海
中は穏なりと見ゆ、去年の地震は此度程にハあらされとも
海水をはしめ河水・池水に至るまて大にあふれたるは此度
の地震にことなれり
○本所小笠原弥八郎宅にハ小日向水道はたより講訳師来りて
宵の間軍書を読終て帰らんとせしを、今夜は一宿して明朝
帰るへしととゝめられて余儀なく止宿せんと決定してかた
り居たるに、地震にて家潰れ人皆おされたる中に、講訳師
うろたへてにけ出んとて柱に取つきたるに、上より鴨居落
て頭を打わられ即死せり、其余ハ皆一命を失ハす、講訳師
は夜止宿せすして帰りなハ生命を失ふましきか、将道路に
死せんかはかりかたし
○或人地震に驚きひとり立出て母を跡にのこせり、立戻りて
家に入母を尋る時梁落て打たをされ即死せり、母は恙なく
生残れり、初め出たるまゝにて立戻らすハ災なかるへし、
母をおもふの孝心なくハ一念を失ふまし、天道是か非かの
論是か為に又いふ
○市ケ谷田町にあま酒屋といへる古着店あり、近来仕出した
る店なれとも利にかしこきものにて、むかしハ老婆壱人み
せにありてあま酒をうり、親父は竹馬といへるものに古き切類引ときのきぬなとかけてかつきあきなひせしか、後み
せを弐ツにわけ、一方にはあま酒、一方には古着を置てう
る、定直段にて価の多寡によらす、廿四孔の外は引なしと
定めたれハ、いかなるものにも求めやすしとて得意多くな
り、追々繁昌し、近来ハあま酒ハ名のみにて古着一式の大
商人となれり、此度地震にて半潰になりたれともうれひす、
十一月頃より普請にかゝり長十二間の棟梁を用ゆる程の大
店を作れり、地震火事に逢るものとも衣類夜具其外の衣服
を求るもの引もきらす、店のにきはひ大かたならすして大
利を得たるよし、されとも吝嗇にして困窮をめくます、世
上の大商とも施をなせとも敢て施さす、人にくまさるハな
し、官にも此事の聞えけるにや、此度三百五十金の御預ケ
金を命せさる、此御金ハ印封にして聞く事あたはされとも
年々三十五金の冥加を納る事定例にて過料にあたるよし、
新部子来話せり
○大地震の後は世の中一変するよし古人もいひ置るに、果し
て風俗日を追て変るやうにおもはる、寒に入ても寒気見廻
廻勤に及はす、年始廻勤も元日より七日迄の内御用番斗二
軒江罷越其外は廻るに及ハす、尤ゆる〳〵と相こしおそく
成候分ハ苦しからすと、御触有し故年礼ハ勤めさる方宜敷
やうになりて、三元日も江戸中往来大名御旗本の大家なと
更に見かけす、小普請小給の人なと右の御触を知らすして、
例年のことく年礼に廻れとも供も少くして往還のさわりも
なし、さるにより平日より却てさひしきやうになれり、こ
れ震後の一変なり
○むかしより落首といふ事は多く行ハるゝものなれとも、お
ほくハ写伝へてもてあそふものなりしか、此度地震の後ハ
戯作の品々皆板行にてこるもの多くして、写本はさらに行
ハれす、是又世風の一変にして利を射る奸商のなすわさな
り、官より禁せらるれともやます
○下谷辺ニ而地震火事の最中七八歳の童子火事場の方に向ひ
てさまよひ行あり、其辺に居合せし鳶の者、これを見とめ
て童子を引とめ、其方へゆけハ火事場にてあやうし、いつ
方の子にていつ方に行にやと、とへとも答へす、只うろ〳〵
とするはかりなれハ、鳶の者あわれみて、わか背におひて
おのれか家につれかへり、先飯をあたへよと女房に命し、
有合せしさんまのひものをやきてすゝむるに、かふりをふ
りてくらはす、さんまはきらひとみへたり、何そ外の品を
とて、味噌なとやきてすゝむれともはか〳〵しく箸をあけ
す、定めてねむかるへし、早くねさせんとて、素まつなる
衣類をかけてねさせけるにつかれたるにや前後もしらすね
ふりぬ、夜あけておき出たり、鳶童子にむかひて、わか方
に子ともなし、今日よりわか方の子とならすやといふ、童
子かふりをふりて答へす、さるにても、とつさんの名は何
といふやととふ、童子答えて、藤堂和泉守といふ、鳶是を
きゝていたくおとろき、アツといひて目をみはり、あきた
る口ふさからす、女方(ママ)もあきれて物たにいひえす、鳶俄に
低頭して、しからハ御邸に御供仕らん、いさ又おはれ玉へ
とて、藤堂家の邸に至れハ、邸にては公達の見え玉ハぬと
て夜中尋ねあくみ諸方に人を出しなとして当惑の最中なれ
ハ、鳶の者公達を負来れるを見て、踊躍歓喜し皆千秋を唱
へてめてよろこへり、重役のもの鳶を賞嘆して、その功を
労し当座の賞として金五十両、生涯五人扶持をあたふ、鳶
雀躍して退きぬと或人かたれり、虚実ははかり難けれとも
乱離の間かゝる事あるましきともいひかたけれハ記し置ぬ
○麻布長坂に住る御坊主中根通筑語ていはく、妻の弟能勢某
其名ハ聞けれともわれこれを忘れなり虎の御門外有馬家の臣にて勘定方の下
役を勤む、同役三人金子の勘定取調して金子帳面とりちら
し居たるに、地震にて一人はいそきはせ出たり、能勢氏は
帳面金子取かた付て出たるに、頭の上に梁落て脳門より打
潰されて即死せり、残る壱人跡より出んとして、眼前に能
勢の打潰されたるを見て跡へ立もとりて他の口よりのかれ
出たりとそ、能勢の父は六十余歳にて築地の屋敷に住す、
築地も地震強かりしか其家潰れのこり老人は無事なり、翌
日も忰帰り来らされとも定て主君の立退かれし四ツ谷のや
しきに往しか又は多用にて帰らさるかとおもひ居たるに、
昼過る頃まても帰らす、近所の輩の語るをきくに、上屋敷
は震火の為に死傷せしもの多しといふゆへ、忰の事心元な
く杖にすかりて上屋敷に至るに、焼落たるまゝにて人も見
えす、すこすこ尋ねめくりて、忰の同役最後にのかれ出た
るものに逢て、忰の圧死の始末云々と聞て、力を落し、死
骸を尋ねるに焼死の屍おひたゝしき中に、同役の覚えある
あたりに黒くなりて死し居たり、袴の切少し屍の下のみ焼
のこりて有しゆへ、忰の死骸なることをしりて葬埋せり、
此三人の内能勢はよく職事を守りて夭死し老人は俄に孤独
の身となれり、其哀傷何とかいはん、旻天何そかゝる惨害
を助けさる、アゝ
○同しく有馬侯の築地の屋敷も潰家多く圧死の者多し、其中
憐むへきは主用にて領分下野にゆきたるものゝ妻及ひ九歳
の娘五歳三歳の小児梁におされ、九歳の娘壱人は屋の下よ
りはい出てかなしみ泣事甚しけれとも、近隣皆潰れたれハ
おのれ〳〵の事にかゝりてとひなくさむるものもなく、終
夜なきさけひ夜明て後近所のものやう〳〵聞つけ彼是とい
たわりなくさむるに、狂気せしと見えて何事もわからす身
寄の者に引わたしける、夫より下野に人を遣し父をよひ帰
して引渡せしか、父に取つきてしはし傍をはなれす、父は
日々四ツ谷の屋敷迄通ひ勤むるに麴町辺迄ハ其娘つきそひ
行、それよりなためて築地に帰らしむ、九歳の女子にして
かくのことし、あはれむへき事なりとかたれり
○築地辺に住る士愛妾あり、妾の妹も他家の妾たりしか何事
か不良の事有けん、髪を切て追はれしを娣の縁をもて彼士
の長屋をかりて髪を長して住居す、艶色娣にこえてあため
きたるさかなれハ、彼士いつしか心迷ひこれにも密通しけ
るを、娣さとりて嫉妒(ママ)の心やるかたなく、主人と妹にむか
ひ彼是といひあらかふ事たび〳〵なりしか、娣いかりにた
えす、親元に走り行ける、さすかに娣妹の間なれハ又中な
をりして娣妹の交り元のことくなれとも、彼士は夢にもし
らす、夜ことに長屋に忍ひ行てたのしみける。十月二日の
夜も彼士長やにやとりけるを、此夜娣も忍ひ来りて次の間
にかくれ居て彼士のふるまひをうかゝひけるに、俄に地震
にて彼士の本宅ハ皆潰れ、母も妹も圧れ死せるに、彼士は
長屋にありし故娣妹の女と共に三人命たすかりたりとそ、
かゝる淫行の男女こそ打つふしても惜かるましきを、命た
すかりしハ、造物者の心はかりかたし
○根津に住る御坊主郡司清栄地震にて一ゆりにゆり上られて
おとされたるやうに覚え、あんとふ(行灯)をおさへんと立よる所
に、頭上より物落て押すへられ、背の上より重くなりて動
くことならす、妻子をよへとも答へす、このまゝに死する
ならんと決定して居たる内に、下男の声にて、只今助け出
し申さんといへるをきゝて、やう〳〵生かへりたる心地し
て掘出されたるは七ツの鐘を打ころなり、当春生れし小児
と乳母は圧死し、小女十五歳なるは腰をつよくうたれて歩
行ならす、いそき近所の小手療治の方に遣ハせしに、最早
怪我人十三人来り居れり、これにても怪我人の多かりしこ
と知るへし、清栄は圧れなから怪我なく難をまかれしハ、
湯島霊雲寺の水運天とかいへる仏影を懐中せし故ならんと
て弥尊信してかたれり、
○軽子坂上金田玄仲といへる小手療治、近来病人多く来りし
か地震後は番付にて療治をなす、昼頃迄に百番余になるゆ
へ昼過に行ハ断りなり、療治場もおひたゝしくなりて忙し
きよし、小手療治さへ右のことし、名倉なとの混雑言語に
絶たり、地震にて彼輩は冨をなせり
○根津に住する森何かしハ金銀のたくはへ有人なりと風説せ
しか、地震の時金銀を持出んとせしゆへ出おくれて梁にし
かれ即死せり、其家族は一人もけかなし、黄白のたくはへ
なかりせは一命をおとすましきものをとそしるものあり、
又其たくはへ多かりしをうらやむものも有けり
○世間金銀の融通あしく、金子をかり度といふ人斗にてかす
人なし、質屋の潰れ多く築地にてハ土蔵十一ケ所もてる冨有の質屋一時に居宅土蔵とも焼失し、主人夫婦はのかれ出
たれとも立のまゝにて箸一本もたぬ人となり、せんすへな
く田舎へにけ退き其跡絶たり、かくのことき類多くあり、
たま〳〵焼残り潰れさる質屋も世間のゆつうあしきに、お
それて質物を断るもありて、ます〳〵金銀のゆつうさしつ
かへとなれり、其外町人も中位より上のみせ戸をさし分散
するもの多し、牛込杜丹(ママ)屋敷の瀬戸物屋は主人圧死し代物
も過半破損して商売ならす、寺町の酒屋は主人夫婦とも出
奔してみせを閉たり、此類江戸中にてハ多しときくに、京・
大阪にも潰れたる町人多く、市中売店数多なりと聞ゆ
○本所牛の御前近辺の植木や近村の困窮者に施しの品を出せ
しに、其高少しとてそしるものあり、植木やの宅はもと中
野石翁のやしき跡にて多分の金子埋めあるよし言伝ふ、然
るに此前の施しを出せしハ似合しからすと人口かまひすし
くいひつたへて植木やにも聞えける、然らハ我居宅にハ金
子埋め有へし、掘て見んとて居宅の床をはなし掘試みしに、
金を埋めしとも見えす、夫より次の間の床を払ひ、掘たる
に壱尺程より下は沙はかりなるか、其下に石室あり、開き
見れハ金銀充満せり、取出し改め見しに八万両有しとなり、
此説実否をしらす
○太田某来話のついてに震火盗の害をさくる土蔵の作り方を
きけりとて語らる、先礎を堅くし尺用の材を横に組上けて
隅々を切組事箱火鉢のすみのことく切組、外は木ずりとい
ふ塗方に土をぬれハ、火事地震盗賊にも損散なし、材木ハ
竪に遣へハ火移りやすく、横に遣へハ火の移りかたきもの
なりといふ、おもしろき説なれとも屋根の作り方をきかさ
りしはくやしかりし
○昔の家作は家の隅柱上の方に火打とて三角なる木を入て固
メとし、床の下にハ柱ことに足かためといふ仕方ありて、
地震いか程強くとも上下の固メ有ゆへ潰れす、近来は略製
になりし故忽ち破損すと聞ク、よき工人に謀りて価を論せ
す、古法のことく作り度ものなり
○武蔵桜橘潰れ家の梁下より家族を助け出せし事三島子の随
筆にも見えたり、今其遺漏を補ふ、桜橘は幼年より予か門
人にてことし廿歳斗、力よわく小からにて落梁をあくへき
事覚束なしとおもひ尋しに、其屋敷の借地人釼術の師範水
府の藩金子健四郎といへるもの来り助けしとなり、健四郎
は大兵にて左の手を奥につき右の手をのハして鴨居にかゝ
る程の大丈(ママ)なり、或時沢庵の香の物を他へ移すとて樽の上
におし石をのせたるまゝにて両手に一樽ツゝ持たるに、手
桶を提たることく軽々ともてり、かゝる怪力なれハ梁をあ
くるニ力を用ひす、竹杖を揮ることくとり廻して忽ち功を
奏せしとそ
按ニ牛門老人ト云ハ則此視聴草ノ篇者宮崎次郎大夫成身
ナルヘシ、此人ノ宅ハ当時神楽坂ノ下東角ニ在リシナリ
なゐの後見草凸凹斎筆記三嶌六郎
(注、「史料」第四巻、五八〇頁にあり、略す)
山田常典記
安政二年といふとしの神無月の二日、あしたよりはれたりけ
る空、夜はうすくもりけるに、亥の時はかりにはかになゐい
といたくふり出けれは、心ちいみしうまとひて衾の中よりま
ろひ出て、内の障子二重は引あけたるを、外の遣戸あかさり
けれは、おしはなちて出けるまゝにたふれふしにけり、むか
ひの殿の北面と此出つる戸口とのあはひわつかに六七尺はか
りなるに、その北おもてのひさしこほれ落てのかれ出へき道
ふさぎたりけれは、大小ひれふしなからあるうへに何にか有
けむ、落かゝれりしもたゝ夢のやうにて、我は只今うちおさ
れて死ぬへきなりけりとのみおほゆるに、妻子ともはなほ内
にあめるをおともせねは、死やしつるとからうして声たてゝ
とへは、みなありといふに、すういき(すこしカ)をのへてむかひの殿の
内をとほりてこそおくのはたけにはものせしか、妻子ともや
かておひつきて来あひていひけるやうおさなきか臥したりし
うへにうしろの壁おちかゝりて、土の下にうもれたりしをい
たきとりしほと出おくれつといふ也、さて此はたけの中に板
戸やうのものかい敷ゐて妻と兄なる子ともら二人やりてよる
のもの取出さしむる程もなほやます、ふりうこきてものあや
ふき事いふはかりなし、さる程に東よりみなみのかたかけて
空いみじうあかり出たるは火のことなるへし、大かたおしは
かるに浅草・下谷なといふわたりよりしてさくら田のあたり
まてやけつきたるやとみえたり、此ちかきほとりの殿原まち
〳〵の家ゐなともおほくはおち入たるに打おされそのまゝな
くなるもすくなからす、身に疵おへるは数なかるへし、泣さ
けひのゝしるこゑ〳〵ちまたにみちて聞にも堪す、市谷の殿
いかゝおはしますらむ、先いけとて、兄なる子とも奉りける
に、何事もおはしまさすとてかへりきたり、こその霜月そこ
らのくに〳〵ふりこほちて人あまたそこなはれしことをつて
に聞たに心きもまとはれしを、かうめのまへなるはさらにい
ふもおろか也、誰としてかうつしこゝろあらむ中ニあきれま
とへる心ともはかゝるはたけに居ありたるも何ともおほえす
やう明行空はれやかなるに、みれは手足なと疵つき血あえた
るは今夜出さまにたふれふしけるほとものにつきかきこそし
けめ、此なゐけふも猶とき〳〵ふりうこきて大きやうにはあ
らねと、家の内にはかりそめかへり入へき心ちもせす、やか
て此はたけにたほれ散たる柱なとやうのものひろひもてきて
おの〳〵かりやしつらひ、障子・簾なとのくたけのこれなし(ママ)
てうへをもめくりをもふきかこひて畳一二ひらとりもてきて
敷なとし家に残りたる何くれのもの取はこひなとけふはその
いとなみにいそきくらす、画巻ともの箱に入てつみ重ねおき
つる、みな打ちらされたるに壁のこほれかゝりけれは、土の
中なるを掘出てもてきたれるをみるも、かのむかし求出たり
けむから書のこめし思ひあはせられてかつをかしまことやよ
へはたけに出ける程
ふしてまたまとろまぬ夜にたましひの、消てかへらぬ夢
をみしかな、と覚えしなこり、いつさむへき世にかあらむ、
去年のをりは、さこそいへ、まのあたりならぬことにて、
国なへてかはかりなゐのふることは神世のこなた聞もつ
たへす
敷嶋の道さかえけむ世にはしも、天地かくはうこかさり
けむ、なとやうのはかなしことも思ひつゝけられきうし(カ)木の
まろとのなといひけむはいかゝ有けむ、こよひは初霜いみし
うふりて障子・簾の行あひのまより、よるの衣の袖しろうお
きまよひたるも、ならはぬ心にはいといみし、いてや月頃な
やみける風こゝち、このほとゝなりていさゝかさはやくやう
におほゆる折なとありしに、またやう〳〵ひえ〳〵とあるこ
ろの朝夕、風猶ともすれは身にしみてゆゝしうのみ思はれし
に、此ものさわきのうつし心うせぬるほと中々例さまの人め
きたるも此後いかゝあらましとのみいと心もとなし、今日は
四日といふに風すこし吹出けるか夕つかたやみてあまけもよ
ほす、雲のたゝすまひたゝならぬにやに、はかなき国のうち
をいかゝせましに、又心あわたゝしきものから、かくて雨い
たくふりなは、なゐのなこりハなかるへしなといふをきくは
たのもしき心ちするに、夜中はかりにや有けむ、たゝいさゝ
か時雨めきとほれてやみぬ、あくれは五日といふつとめてよ
りあしならぬまろやつくりひろけかへも少しつくろひそへ畳
あつく敷重て日頃よりは住ひのさまよろし気になりぬれと、
雨風には猶たふへくもあらすかし、けふ上野の専教坊とふら
ひに来て道のまゝに見し有さまかたるをきけは、猶かくてあ
りける身たけておほゆ
世の中に此たひいきてのこれるは神のたまへる命とやい
はむ、今夜は此まろやひろくて、畳三ひら敷れたれは、ふし
やすきやうなるもの家こそりて四人すめは身しろくへうもな
し、よの長明かものしけむ方丈はかりたにあらはやとうらや
ましう得まほしかし、なゐこよひは四度はかりふる、よひの
たひふらむとするほといなつまひかり、うしの時はかりのは
火の玉のやうなるもの東より西さまに飛消てこそふるめりし
も、二日の夜のはかりいたくハあらさりけれと、ものおちの
たゝならぬ、人々いとあわてさわくめりし、此まろやは雨と
風にこそわりなかるへけれ、なゐか為にはたふるへうもあら
ぬのみそ心安き、六日きのふの夕より空いとよく晴て、けふ
も日影うら〳〵とあり、かれこれとふらひに来るもあり、な
ゐは猶日毎に幾たひとなううこきてうしみつはかりのは大き
やうなりきかし、七日けふは曇てしくれもしつへきさました
るに、夕つかたよりまたはれて例のやゝ大きなるふりぬ、た
そかれにふりしは中におほきにて此まろやもゆら〳〵とした
り、八日朝のほとくもりみはれみ、夕へのまゝにくもりふた
かりたれと雨ふらす、夜中はれ、いさゝかこほれためり、な
ゐ一たひなとふるめりし、九日朝霧立消てひとひ曇くらす、
よる例のいさゝかふりうこくこともふたゝひはかり也、十日
曇てとき〳〵日影もる、十一日はれす、雨やう〳〵ちかく(カ)な
れは殿の南の長屋のかたはしにかりそめにてうつりすむ、け
ふはなゐ一たひふる、夜になりて雨ふり出てやます、かりや
の人々ぬれてさわくめり、十二日いとよくはれて例のいさゝ
かふりうこく、さて日数ふるまゝにやう〳〵よの中の有さま
とも見きゝあつむる事、後の為にもいとかいしるしおかまほ
しきをさらに筆もことはもおよふへう覚えぬこそすへなけ
れ、此たひうちおされてたゝちに死けるはおよそ廿万人はか
り、身に疵おへるはおひたる(マ マ)は九十万人にあまりけりとか、
こは寺々、医師ともより柳営に申けるすへての数とそ聞えし、
なゐのふりこほちけるうへに火おこりてやけたるこゝかし
こ、ことにはなはたしかりしは浅草・下谷・小川町・大手よ
り大名小路・山下の御門のわたり、本所・深川なとそ聞えし、
築地なといふ海近の所は高汐のほりておほれうせける人もす
くなからす、よし原町は残りなく焼ほろひてあそひめ又さら
ぬもその数八百人はかり死けりとそいふめる、其夜外より来
てあそひやとりし人のうせけるはいまた其かすしらすとか、
抑こたひのなゐ山の手のかたなと大かた高き所はふり動く事
かろくや有けむ、すへてひらき所、水ある所、ほとりなとの
家にハことにいみしくこほれけるハ地脈なといふものにより
おのつからさることわりもあなるにやあらむ、はやう国史な
とにしるされたるもいといたくおそろしけなりけむもいとか
く、去年・ことしうちつゝきて都をはしめ国々あまたそこな
はれけることはしもためしすくなくやあらむ、浄見原の御世
のをりなとやこたひのたくひなりけむ、それも神無月の事に
て十四日のよの亥の時とこそしるされたりけれ、そのたひと
さ国の田はたけ幾万しろと歟海となり、伊予の湯もうつもれ
て出すなとそあめる、こそのたひにもいよのゆいてさなりと
そいふめりし、大かた人の心まことなくおこりいつはりて、
誑惑の世となりはてたるを神のいましめ玉ふにや、年頃やう
なきことせかいの舟ともさへしけう来て、天の下心のとやか
ならぬをりふし、天地のこゝろもしたかひてしつまらぬにや、
むかし住よしの御社の楠の木をれ倒れけるを、よし野のみか
との人々おそれまとはれしに、忠雲僧正の申されけるは、す
へて吉事たになきにはしらすときけは、ましてこれはよかる
へきことゝも侍らす、但し神の凶事をしめし玉ふは天のいま
た捨玉はさるなり、その故ハとて、後漢の光武のふる事をひ
きてさとしあきらめ申されけむこそいみしかりけれ、けにわ
さはひは徳にかたすともいふめれは、専分(らカ)人々用意有へき時
にこそあらめ、吾神の御国としてその御心にたかふことあら
は必よき事ありなむや、かの凶年にも不倹(カ)とか人の国にたに
大事にこそいひたれ、まして况や御国からをや、あなかしこ
いにしへ受領の人々国に下りては先神拝といふことをして、
さてこそ庁の事をもおこなひけめ、今は神祗のまつりことち
におちて只里人とものするわさとのみなれるたにあるを、何
くれのさわりによりやかてとゝめられなといかにほいなき事
なりけり、さるは万の事あとのまゝにおこなはるゝ国ふりの、
をりにふれて其事にさはりあらむはよきことゝもいふへから
すや、これたに今国にもしつかならぬ世のさかとして必さや
うのためしこそおほかめれ、以ていかて此天の□いまた捨さ
るはとしむなしくせさらむわさもかな
心あらむ人思ひとれ世の中のふりなほるへき時は来にけ
り
地震行(略)
大なゐの記
玉川北沢村
太田三左衛門[子徳|ミノリ]
安政二とせ神無月二日の夜、四ツの鐘のなりならぬ頃、俄に
大なゐふりおこりて、たゝ烟草ひと火くゆらすはかりのほと
に大あらひそ有ける、先わか郷のわたりハ軽き方にて、家居
倒るゝまてにハあらたまり壁の落ける家あり、しかし土蔵と
いへるものに破れぬハなし、大江戸の方ハたたちに火の災お
こりて、その光りわか郷のほとりまて望月夜の月有かことく
なり、其跡猶ゆりやます、凡廿日余り人心穏ならす、野にふ
す人もありき、又七日の夜ゆふつゝ(きカ)のほのめき玉へる頃、彼
おこり有て又大江戸にハ崩れかゝりしついひちなとの倒れし
も有とそ、其あくるあしたをまちてまたきより大江戸のした
しき人々をとはむと、先麻布といふ所より赤坂・西の久保・
霞か関・大城のあたりより神田・浅草・下谷・駒込・本郷・
小石川・市ケ谷・四ツ谷・青山なといへる所の貴き賤き人々
を尋まゐらせしに、皆したしき人の命失へるハなし、火の災
をものかれたり、其夜いとしつけくて廿余り七所八所といふ
火の災も人の火に消し得たり、其中吉原町といふうかれめの
一曲輪は大なゐのあらひより先に火おこりて其騒つよく命を
失ふもの数をしらす、すへて市中に命を失ふ人幾万とかいふ、
其事とり〳〵に語つゝけてかまひすし、其ひとつ二ツを書し
るさむとそ、すへてとしふりたる家ハ崩れやすく、新らしき
ハかたきことわりなれとも、また所により甚しきあたり軽き
有てたゝひとおしに倒れ潰れし所もあり、其うち長屋住居と
いふもの倒れやすく、土蔵造りといふもの崩れやすし、これ
か為に命を失ふもの数限なし、わか村里の女本所荒井町とい
ふ所によすか求て夫婦弐人に此文月頃産れし子抱て三人共に
家倒れて梁にしかれたり、男辛してぬけ出人を頼みて掘穿
つ、女一時身をもたへ手足をもかけとも出得す、はては力つ
きてたゝ泣になく声もたえ、子は死にたりやう男尋得て掘出
せり、其時火ハ燃来りて跡は黒烟となりて隣なる人は、焼亡
したりとそ、其女わか郷にのかれ来りて物語に見聞しなり、
又近きわたりの老婆ハをのこの孫を弐人まて連立て麴町とい
ふ所の親しき家にやとりて有しか、のかれ出る路次にて先に
走りし孫弐人土蔵の倒るゝ下に命を失ふ、老婆は足弱くして
助かりしかうちかこちていへらく、老さらほへるわか命にか
へても行末長き弐人のわこを助なむものを、いと口をしとそ
いふ、又あるやむことなき舘のおもと人弐人さめ〳〵と泣叫
ふハ友とち三人のかれ出むとせしに、壱人梁にしかれしかハ
二人力を尽して曳出さんとせしに、火燃来りてせむすへなく、
もて取かはせし手を放ちて逃のひたるに、いまうしろ髪曳る
る心地せらるゝなといふめる、又ある舘のおもと人に遣し置
ける女の母はるけき県より尋来りしか、求得すかけはしり果
ハ心狂ひて死けるとそ、又ある女の焼死たるを貰帰りてねも
ころに葬し後、いつちにかのかれ居て帰り来りしといふも有
とそ、又ある所にてゝおやのうせて母壱人にて杖柱を頼みて
育てし子の十余り二ツ三ツ斗りなりしを梁にしかれいかむと
もせむすへなく、其内火のほ雨の降かことし子のいへらく、
とてもわらハゝのかれかたし、あはれ着るものうちかつかせ、
母者よ、のかれ玉へね、といひしかハ其ことくして立さりし
か、其母心みたれて物狂ひとなりしとそ、又和田倉といふ御
門渡の番士梁に手をはさまれてせんすへなし、其内火燃来り
しかハ相番士に頼みて手を切りすてのかれしか一日二日有て
死けるとそ、又日比谷御門内なる鍋島侯の藩士梁にしかれし
を召仕の士弐人力を尽ともせんすへなく、主人いへらく、持
たる刀にて首をきりてのかれよとあれとも、さすかに二人も
さハえせす、さる時に火燃来りしかハ自首をきりて与へしと
そ、この弐人首を浅草七軒寺町といふ所の寺に葬て壱人ハ法
師となりぬ、壱人ハ其もとゝりの毛を持て故郷の妻子にしら
せなんと旅立せしとそ、又浅草今戸町といふ所の銭座といへ
る家にかよひ勤むる人、其夜其家にやとりて三人ひとつ梁に
しかれしか壱人のやかて命を落しぬ、弐人は命有まては身も
心に任せす、其内後より火の気通ひて暖りなりしかハ、此儘
死ぬへき事と常に念誦の法華経をとなふる所に、屋の上より
名を呼人有けれハ、ここにあり、助玉へ、と答ふる声せしゆ
へに掘出されのかれたりとそ、是は堀の内妙法寺の江戸講中
の仲立にて常に人の能むつましかる人なりとそ、おのれした
しき獅徳院といふ師の物語也、又肥後国熊本殿の侍医桜井何
かしといふ人常に書画を好みて其夜心越禅師の書の掛物を買
求て袖に抱みて、浅草駒方町紅屋某か軒をすくるに、其家の
丁稚よ所そより火ともしつゝ帰るとき家に止(ママ)らむと行先をよき
りしかハ、少ためらふ所に、土蔵造りの軒崩れ落て其丁稚とと
もに打ひしかれ、彼ものはたゝちに命を落す、かの医ハもた
りし一軸の箱うちくたけしに、其軸の杖柱となりて命助かり
しとそ、夫より家に帰りて親を尋召仕を恵(カ)みし、数々の働せ
し内にも其一軸を帯にはさみありしとそ、こハ心越大徳の力
添へ玉ひし事といよ〳〵尊ふとみひめもたるとそ、又おのれ
親しき浅草大護院道本密師ハことし齢八十余り八ツにして、
此弥生の頃そのほき事有けり、此御寺いと古く庫裏・本堂と
もに倒れたり、その中におはしゝ老師のつゝかなかりし事く
すしともくすしかりけり、こは常に法の務の怠りなく、又い
つきまつる石清水おほむ神の宮居近き頃修理し玉へりしか、
何の障りもなかりしこそ尊ふとけれ、又のかれ出玉ひて数々
のいさを有しとか、おなし月の十日余り四日の日おほやけに
召連てほめ言有しとそ、此類の寺々に仰有て、霜ふり月二日
ゟこたひ死亡の人々の為に法のみわさ行はせ玉ひし、さなき
寺々にも其事聞伝へてことし施餓鬼といふ事有けり、さてあ
りしあらひの三日四日五日のほとハ死たる人を車につみ曳
行、回向院といへる寺なとにハしかはねの山をつきしとそ、
いともかしこき寺か事なりけらし
なきからを力車に八十車
つみこそなゐのつみにさりけれ
なきからを力車に七車
つみしハなゐのつみとこそ見れ
耳に聞眼に見るなゐのまか事を
ふり行世々のおもひ出にせん
此なゐのあらひを世々に伝えんと
かきあつめたる落葉なりけり、
大地震の後しるしき人々を尋て
大なゐのあらひし跡のむさし野に
草のゆかりを尋わひけり
むさし野のなゐのあらひハ逃水の
にけるを月はしたひつゝすむ
大なゐハふりにふるともむさし野の
月にさはりハなきよなりけり