[未校訂]明治五年の大雪・大地震二年の凶作の記憶がまだまったく鮮やか
であるのに、五年にはまた天変がひとび
とを驚かせた。大雪と大地震である。さ
きの「覚専寺過去帳」と、出西求院の金山家の「諸事心覚
帳」は、次のように記録している。
明治五壬申
正月六日より荒れ少し強く相成り、同七日同八日雪し
きりに降り、終に大雪に相成り、六十一年ぶりの大雪と
いう。北山にては鹿を手とらまえにいたし、日によって
七つ八つ位取った日もあると申す。平田にて店にて百匁
に付五百文位致す。
二月六日七つ半時大地震、本堂破損いたし廊下は砕け
[庫裏|くり]も同様に相成る。寺内中臨時竹林に藁小家をかけ住
居いたし、夫より四月三日より庫裏再建に思立ち、大工
上直江村山根佐十棟梁にて同日仕事始めにて同十七日棟
上げいたす。当中原村にても家数二十軒辻大破損いたし
誠に以て前代未聞の大変也。
明治五年二月六日
(「覚専寺過去帳」)
午後五時大地震イリ、求院村、家コロビタル拾四家、
トコロドコロイタミタルハ不残。又地下ヨリ水ワキ出タ
ルハ数知レズ。
(「諸事心覚帳」)
この地震は、浜田地方を中心に石見部に大きな被害を与
えた。死者は五五〇人を越え、全潰家屋は四三〇〇戸を越
えた。浜田市国府の畳が浦の奇勝もこのときの海底隆起に
よるものである。出雲郡もその北半のデルタ部はとくに地
盤が軟弱であり、各所で亀裂を生じてそこから泥水と砂が
噴出した。デルタ部ではこれ以来屋敷のすみにひとむらの
竹やぶをつくることになった、と古老(たとえば前記中間
クマさん)はいっている。