[未校訂](前略)
つぎに文政十一(一八二八)年十一月十二日朝におき
たいわゆる三条地震が知られるが、この地震は、栃尾組
にも大きな被害をもたらした。和田蔵がつぶれたため、
納米の北組御蔵への移動が命じられたが、各地の震災に
加えて冬季間のこととて人足が集らず、さらに三二二俵
図62 近世栃尾郷の山ぬけ
の濡れ米が出て、郷役人は後始末に苦心した。
この地震による栃尾組の人家・人身への被害は、「長岡
懐旧雑誌」(今泉省三『長岡の歴史』第二巻)に、潰れ家
六三七軒、栃尾町の潰れ家四軒、[怪我|けが]人一二七人と出て
いるが、郷役人は「死人[莫大|ばくだい]」と代官に訴え、また鈴木
牧之「永代庚申帖」は、椿沢・田井・名木野・和田・太
田の北谷組の五村で一一二人の死者があったことを記し
ている。ただ被害は、三条に近い北谷に集中していて、
栃尾町は割に軽微だったようである。「荷頃村史」にも「強
震ナレトモ人畜ノ死傷及家屋ノ損害ナシ、屋外ニ小屋掛
ヲナシ避難セリ」と、被害はなかったが、念のため小屋
がけして避難したことが記されている。
栃尾町や荷頃村など山よりの方では、地震そのものよ
りも、むしろそれに伴う「山ぬけ」がおそれられたよう
である。幸いに「山ぬけ」が人家を襲うことはなかった
が、田地・用水などに与えた「山ぬけ」の影響は大きか
った。復旧人足は、全部で四万七、〇〇〇余人と見積ら
れたほどであった。しかも復旧作業が田植え時とかさな
ったため、人足は別に雇わなければならなかった。(後略)