[未校訂](前略)
江戸時代の地震の中で、新発田領にとって最も被害の
大きかった地震は、文政十一年(一八二七)十一月十二
日におこった三条地震である。
(中略)
被害は南蒲原郡を中心として、三条から長岡にかけて
集中した。また地震発生時が朝食時であったため、各地
に火災が発生して被害を大きくした。しかし、沼垂以東
ではほとんど被害はなかったらしい。文政十一年という
年は非常な凶作であって、地震と凶作のダブルパンチを
受けた藩は、領民への手当てに追いまくられることにな
った。飢手当、手伝人足用飯米の支給を行い、家屋の焼
失あるいは全半壊等の被害を受けた者に対して手当銭を
支給し、死者には一人五〇〇文ずつを与えた(表1・2)。
翌十二年二月には、持高五石以下の者へ家作手当銭が
支給された。同時に焼失一軒に付金三両、全壊同二両、
半壊一両二分、痛み屋には一両が与えられた。ただし、
被災者が家内入の身分で別家している者、借地のうえ家
作自前普請の者は基準より二分引き、店借りの者は焼失
一両、全半壊は二分とされた。手当総額は三千六百五十
七両余に達し、中ノ島組だけで二五九五両と手当総額の
七一パーセントを占めた。被害の大きさが推定できよう。
このほか農民には農具料も与えられている。(後略)