[未校訂]「文政十一年子年十一月十二日地震ニ付」と標記した与
板町被害図によると、
潰れ家 二百六十三かまど
半潰れ 九十六かまど
焼失 十七かまど
大破 四百八かまど
土蔵潰れ 十
土蔵破損 九十一
即死 三十四人
怪我 百十八人
××潰れ家焼失一、潰家一
を数え、横町、安永、舟戸方面が殊に甚しく、殆ど総つ
ぶれの惨状を示している。
藩では全潰に籾(もみ)弐俵、半潰に壱俵、庄屋に三
俵、割元に五俵、即死人十五歳以上に五百文、それ以下
の小児に弐百文ずつの救援を行いました。領内の被害状
況は
堤下 潰家 三 半潰 十七
即死 一 半潰 八
倉谷 半潰 三
□□ 潰家 二十四 半潰 三
即死 二
本与板 潰家 二十三 半潰二十六
即死 二
富岡 潰家 二
阿弥陀瀬 半潰 四
中条 潰家 十四
□□ 潰家 二十九 半潰二
即死 六
大野新田 潰家 二十一 半潰四
中田 潰家 二 半潰一
中村 潰家 二十三 半潰十九
槇原 潰家 十一 半潰二十一
即死 一
気ノ宮 潰家 四 半潰四
即死 一
山沢 半潰 三
蔦都 潰家 六
即死 三
吉津 潰家 一 半潰八
エビ島 潰家 二 半潰五
中野西 潰家 二十七
即死 一
靍ケ曾根 潰家 十四 半潰十五
松ケ崎 潰家 四 半潰八
福原 潰家 二十八 半潰十二
末宝 潰家 二十八 半潰五
即死 三
外に中野西潰家三俵、堤下弐拾三俵、原五拾弐俵、倉
谷弐俵が追加されて総計約八百俵、即死者二十人と与板
町三十四人を加えて五十四人、与板町民一般には焚出し
十日あまり、これらの救援は藩として全力をつくしたわ
けですが、藩の痛手はそれに止まらず、寧ろその後の善
後策が大変のようでした。
前にも書いたとおり、この年は意外の悪作で、その上
この震災と来たから年貢米の納入に響かぬ筈はありませ
ぬ、僅に取りこんだ米俵が散乱したり、雨漏りや堤防の
亀裂などで浸水した農家は「何れも濡れ米にまかり成り、
御米不足仕り候間、村々御収納米の内、半高正米半高延
金納当子(とうね 文政十一年)暮、来丑(らいうし
|同十二年)三四両月三ケ度上納仰せつけられ下しお
かれ度」と歎願せざるを得ませんでした。
しかし藩の負担を倍加したものは決壊した信濃川堤防
の後始末です。尤もこの方は寧ろ農家の背に負いかぶさ
った負担というのが本当かも知れませぬが、その時の目
論見書を見ましょう。
信濃川通
一堤上置服附(ママ)長弐百三間 壱ヶ所
此土坪千六百弐拾四坪 但壱坪九人
此人足壱万四千六百拾六人
(仕方内訳略)
一堤上置服附(ママ)長百五拾弐間 壱ヶ所
此土坪八百拾坪六合 但壱坪九人
此人足七千弐百九拾五人四分
(同 上)
一堤上置服附(ママ)長三百七間 壱ヶ所
此土坪六百六坪 但壱坪九人
此人足五千四百五拾四人
(同 上)
一堤上置長四百七拾間
此土坪九百四拾坪 但壱坪拾三人
此人足壱万弐千弐百弐拾人
一堤築立長弐百六拾六間
此土坪弐千六百六拾坪 但壱坪拾三人
此人足三万四千五百八拾人
こんな数字の羅列には読者もあきあきされましょうか
ら委しい仕方書は一切省き、人足総計七万四千百六拾五
人四分を要したことを見て頂けば、この工事の全貌が想
表1 文政11年, 天保4年地震被害状況(行事)
項目
文政11年
天保4年
高札場潰,破損番屋
1ヵ所
2ヵ所
田畑地割砂吹出場
281町4反
49町9反243歩
家屋被害
潰家
半潰家
破損家
1,660軒
715
544
21軒
29
88
寺被害
潰寺
半潰寺
破損寺
8
9
5
社庵
潰堂社
潰庵
6
2
土蔵
潰土蔵
潰板蔵
10
27
半潰蔵 4
破損蔵 7
死傷者
圧死
焼死
溺死
怪我人
215
27
136
5
堤破損
10,416間
1,439間
焼失
焼失家
焼失土蔵
121
10
表2 地震手宛銭
いずれも1軒に付,単位貫文(文政11年行事)
庄屋
名主
本家
名子間脇
借屋
焼失屋
28
7
2.5
潰屋
15
7
1.5
半潰屋
7.5
3.5
0.75
但,死人500文ヅツ
像されます。尤もこの時代には器械らしいものは一つも
なく、すべてが人間の手足と肩で賄う外はなかったから
人足の頭数も厖大になるわけですが、これらは皆関係町
村の高割で徴用されますからその人たちも大変でした。
無論賃銭なしの奉仕ではなかったようですが、一日の料
金は極めて低く、それも年貢の方で差引かれなどしまし
たからその労苦は容易ではありません。この工事がどの
程度施工されたかハッキリしませんが、何れもと通りが
精一杯で、信濃川の暴君ぶりを抑えることなどは迚もで
きない工事でした。(後略)