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項目 内容
ID J1100126
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(一八二八・一二・一八)〔中越〕
書名 〔三条地震に於ける「見附地方」の被害史料について〕「長岡郷土史 十五」
本文
[未校訂] 文政十一年旧十一月十二日朝、中越地方は突然大地震
に見舞われた。「三条地震」と言われるものである。この
資料は当時村松藩領となっていた見附町組、葛巻組、本
所組の三組の調査書である。
 この地震は現三条市を中心として、中越地方全域に甚
大な被害を及ぼした。長岡辺は勿論のこと、信濃川対岸
の山村でも潰れた家、火災によって焼失した家のみなら
ず、即死人馬を出しているくらいだから大変な震度だっ
た事と思われる。又余震も相続き、翌年にもかなり大き
くゆれている。翌年の記録にも、
「文政十二己丑年十月廿六日地震、去子の年大地震以
来度々候得共今日の如きはこれ無く、何れ大地震の後
は神様に御伺申上候所何月何日にこの前のより大造り
の地震これあり候などと種々申触候へども往古より前
の地震より大なるは決してこれ無き由に候事」
史料の示す如く見附地区と言えども決定的な打撃をう
けており、旧十一月十二日ならば十二月末に当り、降雪
時季に入っておる上、飢と寒さで手のほどこし様もない
有様であったことと思われる。
 今中越地区を歩いて見ても、古い建造物と思われるも
のでも大体はこの地震以後に出来たものが多く、これ以
前のものを見る事は難しい。(次の文中若干数値の合わな
いものがあるがそのまま記す)。
(注、[資料三条地震]と重複する箇所もあるが、見附
地方としてまとまっているため収載する)
文政十一戊子年十一月十二日朝五ツ時
見附三組分
大地震ニテ潰家即死怪我人調方帳
並ニ救米手宛割合
出張役人付
見附町組
高三百三拾五軒 見附町並新町

潰焼失家 四拾六軒
潰家 弐百五拾七軒
半潰 拾四軒
破損 弐拾軒
無難家 弐軒
外ニ諏訪堂丸潰一社
同丸潰 渡守三軒

焼失土蔵 九戸所
潰土蔵 拾二戸所
半潰土蔵 七戸所
破損土蔵 壱戸所

高五拾七軒 諏訪町

潰焼失家 弐軒
潰家 三拾八軒
半潰 拾四軒
破損 三軒

高六拾壱軒 内町村

潰焼失家 拾弐軒
潰家 弐拾五軒
半潰 五軒
内寺 壱ケ寺
破損 拾壱軒
無難 八軒

高七拾弐軒 嶺崎村

潰焼失家 六軒
潰家 三拾八軒
半潰 拾五軒
破損 拾三軒

高六軒 戸代村

潰家 四軒
半潰 弐軒

高弐拾五軒 一ノ坪村

潰家 九軒
半潰 四軒
破損 八軒
無難 四軒

高拾弐軒 同興屋村

潰家 八軒
破損 壱軒
無難 四軒

高四拾九軒 反田村

潰家 四拾四軒
半潰 三軒
無難 弐軒

高拾壱軒 加坪川村

潰家 壱軒
半潰 四軒
破損 三軒
無難 三軒

高拾四軒 速水村

潰家 九軒
半潰 五軒

高七軒 青木村

潰家 七軒
破損土蔵 壱戸所

高弐拾七軒 中新保村並小長瀬村

潰家 弐拾壱軒
半潰 四軒
破損 弐軒

見附かし
新かし
即死六拾人内 弐拾三人男参拾七人女
怪我人五拾五人内 弐拾壱人男参拾四人女

諏訪町
即死 四人内 壱人男三人女
怪我人 弐人内 壱人男壱人女

内町村
即死 五人内 壱人男壱人女
怪我人 壱人男

嶺崎村
即死 四人内 壱人男三人女
怪我人 壱人女

戸代村
即死 壱人男

一ノ坪村
怪我人 弐人女
同馬 壱疋

興屋村
即死 壱人女

反田村
即死 拾人内 四人男六人女
怪我人 拾五人内 五人男十人女

加坪川村
即死 壱人女

速水村
即死 三人内 弐人男壱人女
怪我人 壱人男

青木村
即死 三人内 弐人男壱人女

中新保村並小長瀬村
即死 五人内 壱人男四人女
怪我人 八人内 四人男四人女

合八百六拾九軒 町組高

潰焼失家 百五拾三軒
潰家 五百三拾三軒
内寺 四ケ寺
半潰 九拾弐軒
内寺 三ケ寺
破損 六拾五軒
内寺 四ケ寺
無難家 弐拾六軒
焼失土蔵 拾五戸所
潰土蔵 拾七戸所
半潰土蔵 弐拾戸所
破損土蔵 弐戸所

即死 合百三拾弐人内
五拾壱人男
八拾壱人女
怪我人 合百弐人内
三拾八人男
六拾四人女

但少々づつの怪我人数知れず
死馬 三疋
怪我馬 弐疋

田畑道橋堤山崩れ等の痛み個所は追々申上奉候
合四百五拾六軒 葛巻組高

潰家 三百三拾軒
内寺 三ケ寺
半潰 五拾軒
内寺 壱ケ寺
潰焼失家 弐軒
破損家 七拾四軒

即死七拾弐人内 弐拾八人男四拾四人女
怪我人五拾四人内 三拾九人男五拾五人女
但し少々の怪我人数知れず
死馬 八疋
怪我馬 五疋

合弐百三拾弐軒 本所組高

潰家 百五拾八軒
半潰 三拾四軒
破損 四拾軒

即死弐拾三人内 拾 人男拾三人女
怪我人弐拾七人内 拾二人男拾五人女
但し少々の怪我人数知れず

三組都合千五百五拾七軒

潰焼失家 百五拾五軒(約一〇%)
潰家 千弐拾壱軒(約六五・六%)
内寺 五ケ寺
半潰 百七拾六軒(約一一%)
内寺 弐ケ寺
破損 百七拾五軒(約一一%)
内寺 三ケ寺
無難家 弐拾六軒(約一・七%)
外諏訪堂 壱社
禅寺 三軒
焼失土蔵 拾五戸所
潰土蔵 拾七戸所
半潰土蔵 弐拾戸所
破損土蔵 弐戸所

即死合弐百弐拾七人内
八拾八人男
百三拾九人女
怪我人合弐百弐拾三人内
八拾四人男
百三拾九人女
但し少々づつの怪我人は数知れず
死馬 拾壱疋
怪我馬 七疋
田畑道橋堤山崩れは追て申上奉候
右は御検分の上御調べかくの如くに御座候
 早速救援米が配分された。勿論これは当座しのぎであ
るが、それ以後は肝煎、大庄屋へ貸付米が準備された。
これは有償であるから肝煎や大庄屋は今後金策に頭を痛
めねばならない。村松藩では小藩ながら出来るだけの事
は手を打った様である。と同事に万一の不穏な事態に備
えて米蔵を警固すべく足軽を派遣した。又他領からも
続々と救援の手をさしのべた。冬期に向っての被害であ
るから何よりも寝起きの場が必要である。小屋掛の材料
や用具が十三日から運びはじめられた。被害の少なかっ
た村々から自前で、とま、繩、藁、莚等を持って、打ち
しをれている被害者の為に仮小屋を造っている。被災者
は言わずもがな、救援にかり出される近隣の百姓の、と
ぼしい中から挙出している姿は相互扶助とは言いなが
ら、むしり取られている感が深い。(他藩よりの救援資料
は省略)
御救米
高三百五拾石 見附三組へ下さる
此訳
潰家 九百九拾七軒
但し壱軒に付米弐斗四升四合壱勺五戈
外に大庄屋 壱軒
肝煎 弐拾四軒は除く

潰焼失家 百五拾四軒
但し壱軒に付四斗八升八合三勺壱戈
外に肝煎壱軒は除く
半潰家 百七拾軒
但し壱軒に付壱斗弐升弐合八戈
外に大庄屋壱軒肝煎六軒を除く
破損家 百七拾四軒
但し壱軒に付六升壱勺三戈
大庄屋壱軒肝煎四軒並手代近藤録次郎壱軒を除
く(手代とは代官直下の役人で直接民政等にた
づさわる)

右之通り此の度急難に付御[救|スクイ]米成し下し置かれ一
統有難く、難渋の割合に宛がひ仕り候処かくの如く
に御座候 以上
子の年十一月
大庄屋 金井貫左衛門㊞
同 小林六左衛門㊞
同 渋谷 権之助㊞
御奉行所
但し十一月十三日朝見附代官狩野金之助口達にて御
救米仰付られ御調方相済候上は極難渋の者へ御手宛
下さるべき趣に御座候
見附御蔵有米
一米五千俵 有高

千六百石 両町へ当時飯米に御買請仕候
代金之儀は来年弐季に御取立之有べく候、其の下
壱石より拾五石まで何時成共差支無く御買請之出
来仕様に御座候
五百六拾五石 御救米渡る
右残り候米の儀は見附表の御手宛御用意にて御囲
いなられ置、来る新穀の出来るまで御払いこれ無
き筈に御座候
出張 役人付
一郡奉行(知行弐百石) 近藤治左衛門
郡下役 中村佐一兵衛
同 佐藤次郎太夫
同 田中九助
外に書役 三人
一代官(知行高百石) 狩野金之助
外に手代 弐人
郡下役 壱人
書役 壱人
但し来年迄詰越しの趣
御米蔵所堅め
一徒上目付 相生半内
一下組 西潟文兵衛
一蔵目付 樋口金平
一足軽 拾人
鉄砲 七丁
一普請方 頭壱人大工五人
但し御蔵所普請相済候後も堅め人数来春まで詰越し候

一医師(知行高百石)金子泰庵
但し本道(内科)弐人 外科弐人
怪我人四百弐拾三人平愈まで日数四拾日逗留に対し手当
として
薬料なし
薬種料として
金四拾両也 御勘定方より出し申候

出張 宿割
一郡奉行 嶺崎庵寺
上下 七人
一郡下役 同所召我庵
書役共に上下九人
一代官 智徳寺
並医師上下十四人
(右の寺院は被害が軽微と見えて役人方の宿所になって
いる)
一御蔵堅め衆中は御蔵所屋敷内に仮り小屋を造り上下
弐拾人、何れも賄の儀は供人賄に御座候、郷中の世話
に決して相成らず、残らず買上げ金銭は御勘定所より
相渡り申候
御救米仰渡され御口達の覚
口達
(注、〔板垣家文書〕参照)
 〔補記〕
 本稿がなってのち、藤崎庄一氏(長岡郷土史研究会々
員)から拙稿にかかわる資料の筆写文をいただいた。つ
ぎに掲げる一文がそれである。詳細については不明なが
ら、同氏によると、熱田神社(見附市名木野)の神官が
「三条地震」における天地震動の怨念をしずめ、国家安
泰、万民繁栄を祈った詞であるという。
祝詞
 越後国古志郡高波荘名木野熱田両村仁鎮座志賜布 掛麻
久毛畏見熱田大明神大前恐美恐美毛申寿
 去留年霜月十二日震動仁弖万民数多死古言仁乱世乃時節
怪死之魂魄天下国家仁祟利五穀乎不和仁志代乃飢饉止在今
又右仁是在弖毛止天地之不浄乎清浄女弖○八十日日波有止毛
今日乎生日乃足日止択定弖当利来留年号波文政十二己丑年五
月吉日了辰乎撰神宝御装束乎飾利青龍朱雀白虎玄武乃旗乎
始免御弓御征失(ママ)麻弖手津加羅自加羅是乎作利天仁波七重乃鎮繩
遠張地仁波八附乃薦乎敷又広前仁大御饌大御酒鰭乃広物鰭
狭物甘菜辛菜瀛津藻辺津藻仁至麻弖置足波志斎庭仁波垣山姫
乃土乎清女金山彦命乃金乎釜仁鋳作利罔象女命乃水乎汲入軻
遇突智命乃火乎切出志句々廼智命乃薪乎焚添五行融和陰陽
和合乃湯花遠献志又一首乃和歌乎詠弖奉留
 天長久地久志久乃御代仁志弖生日重日仁天乃倍人
神乍神此由乎所聞食 玉体安全 天地無窮 宝祚長久
大樹殿下 武威増輝 君臣合体 万民豊楽 風雨順時
五穀成就蚕養万足綿絹培増別弖波領主武運長久
領内静謚御神楽講中家内安全子孫長久猶名木野熱田両村
惣産子家内安全念願成就如意安楽一
一祈願円満乃神助乎加美夜守昼護仁[擁護幸賜|マモリサキハエタ][陪止|マヘト] 恐美恐美
惶美々々申寿
文政十二丑ノ五月五日
(貼紙)御徳伊乎双弖横死乃魂魄正道伊令帰止○
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 497
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
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